【番外編】恋座
後宮の小庭に面した回廊は、夕方の柔らかな光に満ちていた。セレナは侍女たちが敷いた座布にそっと腰を下ろし、胸の内で小さく息を弾ませる。
(好きな恋物語を語って、皆が聞いてくれる……幸せ)
ゆるやかな風がヴェールを揺らし、セレナは恥じらいを含んだ微笑を浮かべた。
「――そして、月の夜。戦へ向かう彼を見送った娘は、“どうか、生きて帰ってきて”と祈るしかなかったのです」
侍女たちが一斉に息をのむ。
「きゃ……切ない……」
「その後どうなるんですか、姫様!」
セレナは扇を胸に置き、穏やかに笑った。
(女の子は、いつの時代も恋物語が好きよね……)
「娘はその後――」
その時だった。
静かな石床に、とん、と柔らかな革底の足音が響いた。セレナが扇の陰からそっと覗くと、レイラとアシェラが優雅な足取りで近づいてくる。
レイラはゆるく笑い、二人の輪を眺めた。
「まあ、なにかと思えば……恋物語のお時間かしら?」
アシェラは扇を指先でしならせ、いたずらっぽい瞳でセレナを覗き込む。
「姫様がお話しているなんて、聞き捨てならないわね」
セレナはゆっくり立ち、丁寧に一礼した。
「レイラ様、アシェラ様。もしよろしければ、ご一緒にいかがですか?」
レイラは当然のように座布へ腰を下ろし、艶やかに扇を開いた。
「もちろんよ。“砂漠の王女と黒衣の護衛”の話なんだけど――」
(えっ……)
語り始めた途端、侍女の耳が真っ赤に染まる。アシェラまで加勢してくる。
「その護衛がね、王女の腕を取って――」
「夜のテントで二人きりになって――」
「―――」
「――――――」
「……」
(私の話を聞いてくれるんじゃ……)
セレナは引きつった笑みを浮かべたまま見守るしかない。しかし侍女たちは大盛り上がりだ。
「きゃ――!!」
「そんな展開ありなんですか!?」
「……でも……気になる……!」
気がつけば、セレナの小さな語座は、完全にレイラとアシェラの“恋座”へと変貌していた。侍女たちは頬を上気させ、黄色い声を上げ続ける。
輪からそっと離れたセレナは、膝を抱え直し、ぽつりと笑った。
「……ふふ」
その横顔には、届かぬ輪の熱を眺めるような寂しさが、わずかに滲んでいた。
(……まあ、皆が楽しそうなら……それでいいんだけどね)
夕風が小庭を抜け、薄いヴェールと扇がさらりと揺れた。
◆
翌朝の台所は、湯気とパンの香りで満ちていた。大きな木台の前で侍女たちがパンを並べながら、昨日の熱を引きずったまま盛り上がっている。
「昨日の恋座、面白かったよね!」
「アシェラ様の話、刺激強すぎ……!」
「レイラ様のも忘れられない〜!」
その会話に、水瓶を運んでいたサフィアがぴたりと足を止めた。
「……恋座?」
眉を寄せ、水瓶を抱え直して耳を澄ます。
(……セレナ様が、何を語ったんだ?)
侍女たちの赤面と熱のこもった声に、意味もなく心臓が跳ねる。
「な、何の集まりだ?あれは……」
◆
その噂は、なぜかラシードの耳にも届いた。
彼は顎髭を撫で、口元に微笑を刻む。
「姫君の“語座”……随分と盛況だったとか。みな、楽しそうで何よりですな」
(……内容までは、敢えて聞かないでおこう)
◆
「……恋座?」
書状に署名していたアルシオンが、ふと動きを止めた。机の前には、すまし顔のラシードが控えている。
ラシードは巻物を整えながら淡々と報告した。
「ええ。昨夜、ルナワの姫君が侍女たちに物語を語られたそうで。後半はレイラ様とアシェラ様が乱入し、たいそう賑やかな“恋座”になったとか」
アルシオンは無造作を装いながら問い返した。
「……セレナが、恋の話を?」
ラシードはわずかに笑みを深める。
「侍女たちの評判では、“とても甘かった”そうですよ」
その言葉に、アルシオンは一瞬筆を滑らせた。
「……そうか」
胸の奥に、妙な熱が静かに広がっていく。
(甘い話……誰と誰の、どんな恋だ)
ラシードは控えめに笑い、殿下の表情を横目に読んだ。
「殿下。次の恋座……覗いてみるおつもりは?」
アルシオンは短く息を吐き、そっけなく言った。
「行かん」
それでも視線は自然と窓の外へ落ちていく。そこには、夕陽に照らされる後宮の屋根が見えていた。
(……どんな顔で、どんな声で語っていたんだろうな。あいつが“恋”を語る時――誰を思い浮かべているのか)
再び書状へ目を落とすが、筆先はしばらく紙の上を動かなかった。
揺れる油灯の光の奥で、後宮のどこかにまた“恋座”が生まれそうな気配だけが、静かに満ちていた。
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