最終話 月光(前編)
昼下がりの庭園に、金糸を織り込んだ天幕が張られていた。
まだ宴の余韻が後宮に漂う中、今日は妃候補たちが顔をそろえての茶会だった。
卓上には果実と蜂蜜を添えた菓子が並び、香草を煮出した温い飲み物が湯気を立てている。
淡い香煙が陽光に溶け、金糸の天幕をほのかに染め上げていた。
(この後宮で、こんなふうに女子会できる日が来るなんて……!)
この習わしは王妃ザリーナが他国から取り入れたもので、もとは神前の香祀を由来とするという。
「この前の宴、やはり評判になっておりますわ」
口火を切ったのは、赤絹の衣を纏ったアナヒータだった。
「アルシオン殿下が、あのように公衆の前で妃席にお呼びになるなど……各国の使節も目を丸くしておりました」
「ええ、わたくしの父も書状で知らせてまいりました」
続けたのは、金の腕輪を揺らすレイラ。
「“アウレナは情を盾にするのか”と、隣国の王たちは訝しんでいるそうですわ。……考えるだけで、気が重くなります」
アシェラが扇を口元に当て、楽しげに笑った。
「でも外交なんて、どれだけ顔を繕っても、腹の底では駆け引きばかり。結局は言葉より、贈り物や婚姻で決まるものではなくて?」
「……そうかもしれませんが」
アナヒータは真剣な眼差しを向ける。
「だからこそ、殿下の隣に立つ正妃は、外交の場で“国の顔”になるのです。言葉ひとつ、仕草ひとつが、国の印象を左右します」
セレナは湯気の立つ杯を手にしたまま、言葉を失っていた。
皆のやり取りを耳にしながら、胸の奥にひやりとした感覚が広がる。
――外交。
その響きは、すっかり意識の外に追いやっていたものだった。
これまで後宮での秩序や、侍女たちへの教えこそが自分の務めだと思っていた。
けれど、それだけでは足りない。
広間の扉の外に広がる、より大きな世界の気配を、今さら突きつけられた気がした。
(お父様も、宴の話を聞いたら……きっと怒るよね。
そもそも、今の私の立ち位置を、どう思うかな)
胸の奥が冷たくなる。
その感覚を振り払うように、セレナは視線を卓の向こうへ向けた。
(……あの子、こういう場は苦手そうね。大丈夫かしら)
杯の中で揺れる茶の色を見つめ、そっと唇を結ぶ。
(私が、心配できる立場じゃないわね)
ふと、先日の回廊での言葉が胸をよぎる。
(リサは、ああ言ってくれたけれど……)
庭園を抜ける秋の風に、枯れ葉が舞い、茶卓の上に一枚、静かに落ちた。
セレナはそれを指先で拾い上げ、胸元へとそっと引き寄せる。
(……私が、ここにいる意味はあるのかな)
天幕の金糸が微かにきらめき、
その問いだけが、胸の奥に静かに沈んでいった。
◆
朝の後宮はまだ人影もまばらで、涼やかな風が薄布を揺らしていた。
侍女リサは化粧道具を整えるため、セレナの部屋へ入り、机上の木箱を開く。
白粉、香油、小瓶の香料――見慣れた並びの中に、小さな彩陶の壺がひとつ紛れていた。
「……昨日までは、なかったはず……」
訝しみながら蓋を外した瞬間、甘苦い草の香りに、金属を舐めたような匂いが混じって鼻を刺す。
反射的に指先で確かめかけ――すぐに思い直し、即座に払い落とした。
胸の奥に浮かんだのは、草木座で最近教わった薬草の一節。
《粉末にすれば白粉に似るが、甘苦く、肌からも毒が回る》
血の気が引く。
慌てて手巾で指を拭い、振り返った先で、セレナがすでにその小壺へ視線を落としていた。
「その化粧品……どうかしたの?」
リサの喉が、ひゅっと鳴る。
「……っ、セレナ様。それには、どうかお触れにならないで……!」
セレナは眉を寄せ、小壺を見つめる。
「……まさか、これは……毒?」
低く落ちた呟きに、室内の空気が一気に張りつめた。
「セレナ様! どうか、お手を――!」
震える声に切迫をにじませ、リサはとっさに壺を手巾で覆い、半身で主の前に立つ。
セレナは視線を伏せ、肩をわずかに落とした。
(……ああ。
私、毒を盛られるほど……嫌われていたのね。
一体、私が何をしたというの……)
その横顔を見て、リサははっと顔を上げた。
「セレナ様……! そんなこと、絶対にございません!」
蒼ざめた頬に必死な色を宿し、身を寄せる。
「これは……誰かが、セレナ様を陥れようとしたのです!」
涙の滲む声で、懸命に訴えた。
セレナは小さく首を振り、わずかに苦笑を浮かべる。
「……大丈夫よ。そんなに落ち込んでいないから」
自分に言い聞かせるような声音だったが、表情はどこか寂しげだった。
そしてふと、セレナはリサの指先に目を留める。
「それより……リサは大丈夫? さっき、粉に触れていたでしょう」
心配を隠さぬ瞳が、侍女を真っ直ぐに映す。
リサは胸元を押さえ、慌てて首を振った。
「は、はい……すぐに払いましたから……」
それでも声は震え、安堵と不安が入り混じっていた。
「……念のために、お医師に診てもらいましょう」
落ち着いた声で言い、セレナは扇を胸に抱き直す。
「後宮監のもとへ行きましょう。確かめてもらえば、安心できるわ」
リサははっと目を見開き、すぐに深くうなずいた。
「……はい、姫様。すぐに」
強張っていた頬に、わずかに安堵の色が差していた。
◆
白壁に囲まれた後宮監の執務室は、朝の光を受けて静まり返っていた。
香の煙が細く立ちのぼり、棚には帳簿や巻物が几帳面に並んでいる。
セレナとリサが足を踏み入れると、卓に座したナヴァリス・エフェンディが顔を上げた。
穏やかな微笑を浮かべながらも、目の奥には冷ややかな光が潜んでいる。
「……姫様に、侍女殿。朝早くにお越しとは――さて、どのようなご用向きでしょう」
セレナは胸に抱いた扇をきゅっと握り、彩陶の壺を卓上にそっと置いた。
「……後宮の化粧道具の中に、これが紛れていました。
白粉に似ておりますが、侍女が確かめたところ、異様な匂いが――毒の疑いがございます」
ナヴァリスの瞳が、一瞬だけ鋭く光る。
だがすぐに、その色は穏やかさに覆い隠された。
「……なるほど。毒などという言葉、軽々しく口にするものではありませんが……
姫様のお手から出された以上、看過はいたしかねますな」
彼は手を伸ばしかけ、しかし触れることなく、視線だけで壺を量る。
「姫様ご自身で、お使いには?」
「いいえ。開けただけです。
幸い、侍女が草木座で学んだ知識で気づいてくれました」
ナヴァリスはしばし黙り込み、扇の端を撫でるセレナの仕草を観察してから、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました。この件、ただちに調べさせましょう。
配下の管理が及ばず、誠に申し訳なく存じます」
丁寧な言葉。
だが、その奥には探るような気配が確かにあった。
「ただし……姫様。
このような事は、軽々に広めぬ方がよろしい。
後宮は噂一つで火がつく場所――真実よりも先に、炎が回るのです」
リサが不安げにセレナを見る。
セレナは、その柔らかな口調の裏に潜む意図を、はっきりと感じ取っていた。
(全部を鵜呑みにするつもりはないけれど……ここで大事にすれば、犯人は身を潜めてしまう……
知らないふりをしていた方が正解みたいね)
扇を胸に抱き直し、静かに頷く。
「……わかりました。ナヴァリス様のお言葉に従いましょう」
ナヴァリスの目がわずかに細まり、穏やかな微笑みが深くなる。
「ご理解いただけて何より。こちらで然るべく処理いたしますので、
姫様はどうぞご安心を」
セレナはすぐに視線をリサへ向けた。
「それより……リサのことを。
毒の粉に触れてしまったのです。医務室で診ていただけますか」
ナヴァリスは短く頷き、脇に控えていた小者を呼び寄せる。
「承知いたしました。侍女殿は医務室へ。――念には念を、ですな」
リサは深く頭を下げ、小さく礼を述べた。
その表情には、なお緊張を残しながらも、わずかな安堵が滲んでいる。
再び筆が取られ、
執務室には、紙をなぞる音だけが静かに響いていた。
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