第10話 装飾(後編)
翌朝の政務室には、すでに静かな緊張が満ちていた。
積み上げられた羊皮紙の束の向こうで、ラシードは淡々と葦筆を走らせている。
窓から射し込む朝の光が紙面を照らし、蝋の匂いだけが微かに漂っていた。
「……殿下」
呼ばれて顔を上げた宰相は、いつもの柔らかな微笑を浮かべる。
だが、その奥にある視線は鋭い。
「昨夜のご振る舞い、実に見事でしたな。
――広間が一斉にざわめいたのは、なかなかの見物でございました」
アルシオンは机に肘をつき、視線を外さずに応じる。
「見物とは軽い。俺は己の心を示しただけだ」
「心、ですか」
ラシードは書簡を整えながら、わざと曖昧に繰り返した。
「王座に近いお方が、公衆の面前で“心”を優先なさる。
諸侯や老臣が、どう受け止めるか――ご想像は?」
「どう受け止めようと、俺は迷わない」
青い瞳に影はない。
「サフィアを隣に置く。それだけだ」
宰相は喉の奥で小さく息を零し、視線を再び羊皮紙へ落とした。
「ええ。殿下のお心が揺らがぬことは、よく伝わっております。しかし……」
筆先が止まる。
灰色の瞳が、静かに、だが逃げ場なく射抜いた。
「政は心だけで動くものではありません。
戦も、租税も、人心も――昨夜の一手が盤をどう揺らすか。
それを見極めるのも、王の務めにございます」
言葉を区切り、声を一段落とす。
「愛を貫かれるのは結構。
……ですが、お忘れなきよう。
王は、ただ一人に愛されて成り立つものではありません」
アルシオンは深く息を吸い、机に置いた拳を静かに握り込んだ。
「ラシード。お前の言うことは正しい」
一瞬、吐き捨てるようにも聞こえる声音。
だが、青い瞳は燃えるように揺れていた。
「王は、一人の女に愛されるだけで務まるものじゃない。
だが――俺はもう二度と嘘をつかない」
言葉が、低く震える。
「心を偽って選んだ結婚が、どうなったか。
俺は骨身に染みている。
心を偽る王に従う民などおらん。
……ならば、そんな王座に何の価値がある」
政務室の空気が、ぴんと張り詰めた。
「盤が揺らぐなら、揺らげばいい。
俺が支える。俺が導く。
その隣にサフィアがいれば、それでいい」
決意に満ちた声に、宰相の筆先がぴたりと止まる。
ラシードは灰色の瞳を細め、無言のまま青い瞳を見据えた。
「……殿下。
盲目は、ときに剣よりも鋭い刃となりますぞ」
穏やかな声音。
だが、その底には冷え切った硬さが潜んでいる。
「愛に突き動かされるお心、その尊さは疑いようもありません。
しかし――その熱が視界を曇らせれば、
敵は必ず、その隙を突きましょう」
燭台の炎が揺れ、影が伸びる。
宰相の瞳に、冷ややかな光が宿った。
「……お忘れなきよう。
殿下は盤の駒ではなく、盤そのもの。
倒れれば、国そのものが割れます」
静けさの底に沈んだ緊張が、
政務室全体を、重く押し包んでいた。
◆
政務室を出たあと、アルシオンは回廊を歩いていた。
冷たい石の床に靴音が反響し、燭台の灯が長い影を落とす。
思考の底にはまだ、宰相の言葉が重く沈んでいた。
角を曲がった先、侍女が一礼して下がるのが見える。
その奥、香の煙をまとって立っていたのは――ザリーナ王妃だった。
「――殿下、少しお時間をいただけますか」
低く抑えた声。
それだけで、回廊の空気が張り詰める。
アルシオンは足を止め、軽く頭を垂れた。
「昨夜の件、もうご説明は要しません」
ザリーナは扇をゆるやかに動かしながら、静かに続ける。
「妃席は、王家の象徴。
どれほど心が動こうと、あの場で“形”を破られたこと――
それは、王妃として看過できません」
声には確かな叱責があった。
だが、その瞳の奥に冷たさはない。
アルシオンは言葉を探すように息を吸った。
「……王妃、私は――」
「――ただ」
重ねるように、ザリーナは言葉を置いた。
「殿下がようやく“誰か”を見たこと。
それだけは……王妃として、そして母として、嬉しく思っております」
アルシオンは短く息を呑み、深く一礼した。
ザリーナはそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出す。
すれ違いざま、香の残り香だけが微かに漂った。
(……叱られて、慰められたのか)
胸の奥でそう呟き、アルシオンはわずかに唇を歪める。
燭火が揺れ、回廊には再び静寂だけが残った。
◆
訓練場裏を抜ける涼しい風が、砂と鉄の匂いを運んでいた。
剣を手入れしていたサフィアの背に、重い声が落ちる。
「……お前、正気か」
振り返れば、腕を組んだカリムが少し離れた場所に立っていた。
琥珀色の瞳は鋭く、昨夜の宴の光景をそのまま映しているようだった。
「正気って?」
サフィアは小さく首を傾げただけで、手を止めない。
「惚けるな。殿下の隣、妃席に座ったろう。……何百もの目の前でだ」
低く押し殺した声が、風に混じって響く。
サフィアの手がわずかに止まり、やがて剣を置いて振り返った。
その瞳は真っ直ぐで、迷いの色を欠いている。
「殿下が呼んでくださった。それがすべてだ」
「……だからって、あれは軽くない」
カリムが一歩、距離を詰める。
「正妃の座を望んでいると、誰だって受け取る。お前にその覚悟があるのか」
サフィアは短く息を吐き、拳を握りしめた。
「ある。私は退かない。殿下の隣に立つって、もう決めたから」
迷いのない決意に、カリムは奥歯を噛みしめる。
「……だったらなおさら、気をつけろ」
声が低く落ちた。
「殿下を守るつもりで動いて、お前自身が火種になったら本末転倒だ」
「わかってる」
サフィアの声は低く、だが揺れなかった。
「でも……殿下が私を選んでくださったのは事実だ。それを信じて進む。それだけ」
カリムは深く息を吐き、目を細める。
「……止めても無駄か」
「止められても、退かない」
即答だった。
剣を握る指に、はっきりと力がこもる。
琥珀色の瞳が彼女を射抜き、やがて、ほんのわずかに和らいだ。
「……ならせめて、泣くなよ」
低く、噛みしめるように続ける。
「お前が泣くのは……見たくない」
短い沈黙。
サフィアは口元に、かすかな笑みを浮かべた。
「泣かない。私は最後まで、殿下と一緒にいる」
風が吹き抜け、訓練場脇の垂れ幕がはためく。
二人の視線は交わらなかった。
だが、それぞれの胸の奥に、同じ重さの沈黙が沈んでいた。
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