第9話 兆(中編②)
ナヴァリスは列の先頭に立ち、手にした帳簿を軽く掲げて声を放った。
「――本日お集まりいただいたのは、他でもない。ルナワ公国の姫君より、後宮の在り方について、ご提案がある」
灯りが天井に揺れ、石造りの広間には妃候補たちと女官長、付き添いの侍女が静かに並んでいた。
普段なら形だけで終わる集まりだ。だが今日は、空気が違う。
誰もが、何かが起こると察している。
「提案……?」
「姫様が?」
「まだお若いのに……」
囁きが、波のように広間を巡る。
ナヴァリスは表情を崩さぬまま、すっとセレナへ手を差し向けた。
「姫様。どうぞ皆の前で、堂々とお話しください」
その一言に、セレナはぎょっと目を見開いた。
(えっ……私が、今ここで? 聞いてない……!)
一斉に集まる視線。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
ナヴァリスの声音に、情はない。
ただ、会議を進める者のそれだった。
――だが、その内側では。
(さて、姫様。この愚直さを“火種”に変えられるか。
それとも、ここで怯むか)
観察者の視線が、静かに愉しみを帯びていた。
傍らで、リサが不安げに裾を握りしめ、セレナを見上げている。
(提案者として名を出されるのは仕方ないけど……
みんなの前で話すなんて……!
学校ですら、ろくに手を挙げたことないのに……)
胸がひゅっと縮み、額に冷や汗がにじむ。
背筋を正そうとしても、指先がわずかに強ばっているのが分かる。
無意識に、荒れた手の甲を撫でた。
ナヴァリスは無表情のまま、セレナにだけ視線を細めた。
(――怯んだか。だが、ここで退けば“火”にはならぬ)
「姫様。どうぞ」
柔らかな声音に隠された、逃げ場のない促し。
広間の空気が、ぴんと張りつめる。
(……酷い。せめて原稿くらい用意してよ……)
胸の奥で小さくぼやきながらも、セレナは深く息を吸い、背筋を伸ばした。
「えっと……私の提案ですが……」
声は微かに揺れる。
けれど次の瞬間、瞳をまっすぐ前に据えた。
「後宮の者、全員で業務を分担する――そういう内容です。
引き継ぎを重ねれば、誰もが全体を把握できますし……
皆様のお力で、後宮を活性化できればと思い、発案しました」
沈黙が落ちた。
衣擦れの音がざわりと走り、女たちの間に波紋が広がる。
「業務分担?」
レイラが首をかしげ、耳飾りの宝石を揺らして鼻を鳴らした。
「要するに、雑務を押し付けたいだけではなくて?」
「全員参加、ですって?」
アシェラが羽根扇をひらりと仰ぎ、紅を引いた唇で笑う。
「わたくしたちは“飾る”ためにここにいるのよ。
下働きは侍女の役目でしょう?」
嘲笑が広間を撫でる。
だがその陰で、若い侍女や寡黙な妃候補の目に、
ほんの小さな揺らぎが走っていた。
――自分も、何かを担えるのではないかという、名もない期待。
ナヴァリスは長机の脇で腕を組み、
冷ややかな光を宿した瞳で場を見渡す。
(……提案は出た。だが、空気を動かせるかは姫様次第だ)
セレナは唇をきゅっと結び、心の中で呻いた。
(やっぱり……“雑務の押しつけ”に聞こえるよね……)
一呼吸。
そして、顔を上げる。
「……後宮の務めは、ひとつではありません。
食事の采配、行事の準備、衣や薬の管理……
だからこそ、皆様それぞれの“得意”に合わせて
分担できたらと、私は思っています」
(学校の“希望制の委員会”みたいにすれば……)
できるだけ柔らかく、言葉を重ねる。
一瞬、ざわめきが止まった。
「得意に合わせて……?」
小さな反芻が、あちこちで漏れる。
だがすぐに、アシェラが扇を揺らし、皮肉げに笑った。
「才能、ね……それなら、わたくしは歌と舞しか能がありませんけれど?
宴を開いてくださるなら、いくらでも披露しますわ」
「私は……刺繍が得意ですけれど……」
別の妃候補が、小さく首を傾げる。
反発と嘲笑のあいだに、
かすかな興味と戸惑いが混ざっていく。
ナヴァリスは目を細めた。
(……才を活かす場、か。悪くはない。
だが、その“分担”を誰が裁くかで、必ず歪みが生まれる)
そのとき、セレナの顔がぱっと明るくなった。
「――いいですね!」
思わず、声が弾む。
「皆様の才能に合わせて……
むしろ“業務のほうを見つける”のも、ありだと思います。
たとえば――」
一拍置いて、続ける。
「得意な分野ごとに、小さな“座”を作ってみては、いかがでしょうか?」
(そうよ……クラブ活動みたいにすればいい!)
「舞の好きな方は舞の座、刺繍の得意な方は刺繍の座。
薬草に詳しい方なら薬草の座……という具合に。
負担も少なく、気軽に参加できますし、
それぞれの力を自然と後宮の務めに繋げられるはずです」
さらに、穏やかに言葉を添える。
「交流の場にもなりますし、
身につければ――皆様それぞれの良さが、より輝く。
そうなれば、後宮も一層、華やかになると思います」
ふっと微笑み、問いかけた。
「……いかがでしょうか?」
一瞬の沈黙。
「……座?」
アシェラが扇を傾け、きょとんとした声を漏らす。
「子供の遊びみたいだけれど……」
だが、その奥に、わずかな興味が滲む。
「刺繍の座……もしあれば、私も……」
普段ほとんど口を開かぬ妃候補が、ぽつりと呟いた。
「舞の座なら、私が一番でしょう」
レイラが鼻を鳴らす。
誇示の色を帯びながらも、その声はどこか楽しげだった。
ナヴァリスは腕を組んだまま、セレナを見据える。
「……“座”とは面妖な言い回しだが、
各々の才を受け止める器としては、悪くない」
わざと含みを持たせた言葉が、
女たちのざわめきをさらに揺らす。
「……交流の場、ね」
アナヒータが低く繰り返した。
伏せた瞳の奥で、何かを量るような光が一瞬だけ揺れる。
「……座が増えれば、
人目に触れる機会も――増えるということかしら」
その言葉に、別の姫が思わず息を呑んだ。
空気は、冷笑から、好奇心へ。
ゆっくりと、確実に傾いていった。
ナヴァリスはその揺れを観察し、静かに目を細める。
「……“楽しみになる”か。姫様は、人を動かす言葉を心得ておられる」
淡々としながらも、その言葉の奥には僅かな評価が含まれていた。
もはや誰も、「完全な拒絶」を声高に口にできる空気ではない。
「――本日のところは以上とする」
ナヴァリスは席を立ち、淡々と告げる。
「姫様の発案は記録に留める。
次回の集まりまでに、各自、自身の得手不得手を思案せよ」
ざわ、と息を漏らす者がいた。
抗議の声は上がらない。
ただ、困惑と考え込みを含んだ沈黙が広間を満たす。
「業務分担の可否は、その後に決定する。……以上」
女たちはそれぞれ、
不満や期待、密かな思惑を抱えたまま立ち上がった。
その中で、小さな舌打ちがひとつ響く。
だが、誰のものかは分からない。
広間を後にする時、
すぐ傍らのリサが、小さく目を輝かせていた。
セレナの提案は、却下されなかった。
――それだけで、十分すぎるほどの一歩だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_
◆Twitterでも更新情報や裏話を流してます!
→@serena_narou




