第9話 兆(前編)
「――いつまで“特別扱い”されているつもり?」
回廊沿いの天幕がかすかに揺れ、細い影が白い敷石に落ちていた。
その下で、彫金の施された金杯を手に、レイラがゆったりと腰を下ろしている。
笑みは柔らかく、視線は鋭い。
甘ったるい香料の匂いが、鉄と血を知るサフィアの鼻を刺した。
胸の奥で、静かに火が灯る。
「……殿下の隣に立ち続けるだけです」
声は低く、だが一切揺らがない。
レイラの目が、わずかに細まった。
「――無理でしょう」
彼女は軽く肩をすくめる。
「身分が違いますもの。それに私たちは、妃候補としての教育を受けてきたのよ」
(身分……教育……。
あなたたちのそれは、私が戦場で積み上げてきたものより価値があると?)
「資格は、命を懸けて勝ち取るものだと、私は学びました」
「敬意も払えない人間に、施しを求めるつもり?」
レイラは楽しげに首を傾げる。
「あなた、自分の立場が見えていないのね」
(敬意……。
剣を交えた戦友にも、アルシオンにも、私は払ってきた。
それ以上の敬意が後宮にあるというなら――見せてみろ)
「殿下をお守りするために剣を抜く。
それが、私の自覚でございます」
レイラは小さく笑い、半歩距離を詰めた。
視線が、真正面からぶつかる。
「……身分も資格もないあなたが、ずいぶん偉そうね。
あなたなんて、陛下の寵愛だけで成り立っている存在でしょう?」
(寵愛だけ?
だったら、なぜあの日、殿下は私を呼んだ。
命を預けたのは、なぜだ)
「寵愛だけで守れる命など、この世にはございません」
天幕の影がふっと揺れ、空気がひやりと頬を撫でた。
レイラはさらに一歩踏み込み、低く言う。
「あなたがいることで、後宮にどんな影響が出ているか、分かっているの?」
(知っている。
それでも退かない。
私の存在が波なら――殿下のために、必要な波になる)
「殿下に不利益な影響は、与えません」
レイラは扇をひらりと揺らし、吐き捨てるように笑った。
「……見て分からないのね。
あなたに、殿下の隣はふさわしくないわ」
(ふさわしいかどうかは、あなたが決めることじゃない)
「その“隣”は、私がお守りする場所でございます」
視線が絡み合い、どちらも一歩も退かない。
胸の奥で、戦場と同じ鼓動が高鳴っていた。
(退かない。
選ばれる覚悟は、もうある)
◆
回廊を渡る途中、ふと天幕の陰で言い争う声が耳に届いた。
香草茶の甘い香りが漂う先、
薄布越しの影の下で、レイラとサフィアが向かい合っている。
(……今までなら、受け流して終わっていたはずだ)
これまでのサフィアは、
後宮の女たちの棘を、ただ静かに受け止めてきた。
それは意図的というより――
この場所のやり取りを、不得手としているからだろう。
戦場で刃を交えるときの鋭さを、
後宮ではどう使えばいいのか、分かっていない。
だからこそ、無駄に剣を抜かない。
波を立てぬための、実に彼女らしい判断だと、そう思っていた。
だが今、あの女は引かなかった。
冷ややかな眼差しで、
真正面からレイラに言葉を返している。
声は抑えている。
だが、その言葉の端々には、
研ぎ澄まされた刃の気配が滲んでいた。
(……ようやく、剣を抜いたか)
胸の奥に、じわりと熱が広がる。
正妃となる者に必要なのは、
剣の腕ではない。
あの場を制する、
たった一言の強さだ。
洗練されていなくてもいい。
立場を完璧に理解していなくても構わない。
それでも、
一歩踏み出せる胆力があるなら、
他は後からいくらでも整えられる。
(後宮で波を立てることを恐れぬ女……
俺には、そのくらいの女が必要だ)
天幕がかすかに揺れ、影が淡く歪む。
サフィアはレイラから視線を外さぬまま、
一瞬だけ、顎を引いた。
その横顔に、
彼は見た――
剣を抜く直前、あの一瞬の静けさを。
(やはり、俺の選びは間違っていない)
何の疑いもなく、そう思う。
アルシオンはその場を去り、
回廊の奥へと歩み出した。
白い日差しに照らされた背は、
すでに勝利を確信した将のように、
揺るぎなく伸びていた。
回廊を曲がった先、
光の中に、ひとつの影があった。
金糸を織り込んだ裾が淡く輝き、
長い髪が、風にかすかに揺れる。
セレナが、まっすぐにこちらを見ていた。
(……あ)
思わず足が止まる。
彼女は深々と一礼し、そのまま頭を下げた。
その瞬間――
「……探していた」
自分でも意図しない声が、先に零れていた。
視線が重なり、わずかに距離が縮まる。
張りつめた空気が、一瞬だけ二人を包む。
――気づけば、声をかけていた。
セレナは顔を上げ、
微かに首を傾げる。
「……私を、ですか」
「そうだ。話したいことがある」
その声は、いつもより低かった。
だが――
回廊の奥から、侍従の足音が近づく。
「殿下。至急お伝えすべきことが」
アルシオンは視線を外し、短く応えた。
「……わかった」
再びこちらを向いたとき、
青い瞳に、わずかな影が揺れていた。
「今はいい。後で話そう」
すれ違う瞬間、
肩先がかすかに触れる。
花草のほのかな香りと、
言葉にならなかった沈黙だけが、
背に残った。
(――俺は、何を言おうとしていた……?)
胸の奥で、
答えの見えぬ問いが、じわりと広がる。
サフィアを選ぶ確信は、揺るがない。
それでも――
セレナの瞳に宿っていた静かな強さが、
理性の奥に、かすかな影を落としていた。
(……あの眼差しは、
なぜ、こんなにも心に残るのだ)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_
Twitter始めました!裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください→@serena_narou




