第7話 素質(後編)
「さて……せっかくですし、
もうひとつ、お耳に入れておきましょう」
リサがこくりと喉を鳴らし、思わず背筋を伸ばす。
「殿下には、すでに心を寄せるお方がいる。
武官にして、正妃候補の列には加えられぬ――
しかし、殿下の寵愛を一身に受ける方です」
リサの瞳が大きく揺れた。
セレナの胸奥にも、ざわりとしたものが走る。
「正妃とは形式。
殿下の心は、すでに別にある。
――その現実を前にして、
姫様は何をなさるおつもりですかな?」
セレナは小さく息を吐いた。
「……特に、何も。
殿下の幸せを邪魔するつもりはありません。
私はただ、自分の居場所を探すまでです」
(そもそも、入り込む余地なんてないし……)
ラシードは否定しなかった。
ただ、ほんのわずかに首を傾げる。
「……なるほど。
殿下の幸せを邪魔しない、と」
その声音は穏やかだが、
どこか値踏みするような間があった。
セレナは続ける。
「それに……
ラシード様も以前おっしゃっていましたでしょう。
殿下は心の結びつきを求めている……
彼女が正妃になるのは、そう遠くないはずです」
ラシードは鼻先で小さく笑った。
「鋭い。
ただし――制度において正妃は、
殿下の心ひとつで決まるものではない」
視線が一瞬、冷える。
「武官上がりの彼女を形式に据えるなど、
古老たちが血を吐いて倒れますぞ」
そして、静かに言葉を置いた。
「では姫様にとって――
“正妃”とは、何を指すお立場ですかな」
リサが息を呑む。
セレナは言葉を探し、唇を開きかけて止まった。
(……そういえば)
自分が正妃候補であるにもかかわらず、
“正妃とは何か”を真剣に考えたことがあっただろうか。
前世の記憶が戻ったと思えば、
後宮入りが決まり、
正妃候補としての作法や礼儀を叩き込まれ、
気づけば入内――。
考える暇など、正直なかった。
(それでも……
一国を背負う立場になるかもしれないのに……)
胸の奥が、ちくりと痛む。
(これじゃあ、
お飾りと言われても仕方がないじゃない……)
セレナは思わず目を伏せ、
裾を握る手に力を込めた。
机上の粘土板に反射した陽の光が、
やけに眩しく映る。
セレナは小さく息を呑み、視線を上げた。
だが、言葉は出てこない。
ラシードは、
その様子をしばらく黙って眺めていた。
やがて静かに息を吐き、
肩をわずかに揺らす。
「……答えられぬのは、無理もありませんな。
“考える必要のない立場”で、
ここまで来られたのですから」
責める調子ではない。
だが、逃げ道も用意されていなかった。
「ですが――」
声音が、わずかに低くなる。
「正妃候補となった以上、
それはもはや許されぬ理由でもある」
リサがはっとしてセレナを見る。
小さく「セレナ様……」と漏れる声は、
不安を隠しきれていなかった。
「正妃候補とは、
“選ばれる者”である前に――
“自ら形を示す者”です」
ラシードは机上の粘土板に指を軽く走らせる。
「理想像を描けぬままでは、
どれほど血筋があろうと、
どれほど価値ある駒であろうと、
石ころのまま錆びていく」
その言葉は冷静で、
しかし容赦がなかった。
「……いずれ必ず問われます。
姫様にとって“正妃とは何か”を」
視線が、まっすぐにセレナを射抜く。
「その時までに答えを持てぬなら――
姫様は、
後宮に立つ理由すら失うことになりましょう」
◆
回廊に差し込む光の中を歩きながら、
セレナは胸の奥に、宰相の言葉をまだ引きずっていた。
(……正妃、か)
無意識にその言葉を反芻しつつ、
隣を歩くリサへと、ふと視線を向けた。
「ねえ、リサ」
声を落とすと、侍女はぱっと顔を上げる。
「……リサは、どんな人が正妃だったら嬉しい?」
リサは足を止めかけ、ぱちぱちと瞬きをした。
「えっ……わ、私ですか?」
頬をほんのり赤く染め、
慌てて両手を胸の前で組む。
「うーん……そうですね……」
少し考え込んでから、
言葉を選ぶように、ゆっくりと紡いだ。
「怖くない人がいいです。
偉いからって怒鳴ったり、
何もかも命令するんじゃなくて……」
目を伏せ、声を落とす。
「出来ないことがあっても、
“役に立たない”って切り捨てずに、
ちゃんと教えてくださる方。
……そんな正妃様だったら、
みんな安心して仕えられると思います」
照れくさそうに視線を泳がせながら、
そっとセレナを見上げた。
「……あの、セレナ様みたいに」
セレナは思わず目を瞬かせ、
それから、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう」
それだけを返し、再び歩き出す。
石床に響く二人分の足音が、
回廊の静けさに溶けていった。
(正妃になれないにしても……
一度、考え直してみよう)
宰相の言葉は、まだ胸に残っている。
けれどそれは、もうただの棘ではなかった。
(だって……私も、アウレナの民のうちの一人だもの)
胸の奥でその思いを確かめるように、
セレナは裾を軽く握り直した。
◆
――正妃に。
初めてそれを聞いたのは、夏の陽が強い午後だった。
稽古場で汗を拭っていたとき、背後から声がした。
「……サフィア」
振り返ると、軍装の上着を脱いだアルシオンが立っていた。
「殿下?」
片膝をつこうとした瞬間、彼に制される。
「いや、いい。……座れ」
木陰に並んで腰を下ろす。
青い瞳が、真っすぐに射抜いてくる。
そこに迷いはなく、揺るぎない決断だけがあった。
「サフィア。……お前が、正妃ならいいと思っている」
鼓動が大きく鳴った。
「……せ、正妃……?
それは、冗談で……」
「冗談ではない」
短く、はっきりと言い切る。
「母上や重臣たちは政略を望む。
だが俺は――もう二度と、愛のない婚姻はしたくない」
拳を握る。
「お前なら違う。
戦場でも日常でも、隣に立ってきた。
その強さと真心を、俺は信じている」
「……でも、私はただの武官です。
血筋も、作法も、教養も……」
「学べばよい」
間髪入れずに返る声。
「大事なのは、俺が共に歩みたいと願うことだ」
視線を逸らさず、静かに続ける。
「サフィア……お前を、正妃にしたい」
耳の奥が熱を帯び、言葉が詰まる。
「……殿下……それは……」
彼はその手を取り、強く握った。
「答えはすぐでなくていい。
ただ知っていてくれ――
俺の望みは、お前と共にあることだ」
――その日交わされた言葉の熱は、
今もなお、胸の奥に消えずに残っている。
◆
アルシオンは立ち止まり、静かに彼女を振り返った。
「……サフィア。
俺の気持ちは変わらない。
お前が、正妃であってほしい」
胸の奥で、またざわめきが走る。
以前なら、息を詰め、首を振っていたかもしれない。
だが今は、視線を逸らさずに見返した。
「……殿下。
私は武官で、作法も教養も、まだまだです」
一度だけ小さく息を吐き、
言葉を選ぶように続ける。
「正妃に相応しいかどうかは……正直、分かりません。
でも……」
指先に力を込め、はっきりと言った。
「殿下が本気でそれを望まれるのなら、
私は逃げません。
逃げずに、学びます」
アルシオンの眉がわずかに緩み、
青い瞳に安堵の光が宿る。
「……それで十分だ。
お前はもう、俺にとって誰よりも相応しい」
握られた手が、熱を帯びて鼓動と重なる。
サフィアはその温もりを受け止めながら、
かすかに微笑んだ。
「殿下……でしたら、
どうか私を導いてください」
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