第7話 素質(前編)
今日も務めは回ってこない。
することもなく
せめてと思い、リサを伴って書庫を訪れる。
読み書きを学び始めて間もない彼女が、
少しでも記号や音を覚えられれば――
それだけで無駄ではない。
道すがら、リサが胸の前で指を軽く組み、
少し弾んだ声で囁いた。
「あの、新人の子たち……最近は掃除もきちんと
やってくれるようになったんです」
一拍置き、視線を上げて続ける。
「それに……皆、顔つきが変わりました。
怯えるより、考えて動くようになってます。
……セレナ様のおかげです」
頬をほのかに染め、誇らしげに笑う。
セレナは足を止め、わずかに息を吐いた。
胸の奥に張りついていたものが、すっと緩む。
(よかった……)
重い木扉を押し開けると、ひんやりとした空気と
日干し粘土の匂いが迎えた。
斜めに差し込む光が、棚に並ぶ粘土板を淡く照らしている。
棚の影に人影――宰相ラシード。
まだ老け込む年でもないのに、
その陰った表情と肩の重さは老書官のように見えた。
「ごきげんよう、ラシード様」
声をかけると、彼は帳簿から視線を上げる。
「…これは、姫様」
「今日はずいぶんお疲れのご様子ですね」
「まぁ、そうですな」
ラシードは口元をわずかに緩めたが、
その目には明らかな倦みが刻まれていた。
「…何かお困り事でも?」
粘土板を机に置き、深く息を吐く。
「困りごと、ですか……」
一瞬、言葉を探すように視線を泳がせ、
肩をすくめる。
「宰相という立場になりますと、
日々が困りごとの積み重ねでしてな」
苦笑を浮かべつつ、額を押さえたまま、
別の板を手に取る。
――ほんの一瞬、
姫の様子を確かめるように視線を向けてから。
「では――
分かりやすいところから申しましょうか。
まずは南門の検問所ですな。
馬一頭で税が幾ら、人が幾ら……
と昔から決まっておりますが、
最近は納得しない商人が増えてきましてな」
粘土板をとん、と指先で叩く。
「“馬より高い人間がいるか”などと、
面と向かって申してくる」
そう、この時代の検問所はかなりずさんであった。
リサがぽかんと目を瞬かせる。
「えっ……そうなんですか?」
セレナは小さく苦笑し、内心で頷いた。
(……よく今まで揉めなかったわね)
「笑い事ではありませんぞ」
ラシードの声に苦味がにじんだ。
「さらに、戦場への配給と市中への配給の割合も
揉めておる。兵糧を増やせば商人は怒り、
街に回せば軍が足りぬと騒ぐ」
「なるほど……」
(……そういえば、前世で読んだ小説にあった。
戦時でも値が乱れなかった国のやり方)
胸の奥で、かすかな違和感が引っかかる。
(もしかして……
やり方次第では、この時代にも使えるのでは……?)
セレナは指先で机の端を軽く叩き、
ほんの少し考えてから口を開いた。
「あの……根本を変えてみてはいかがですか。
豊作な国との間で、一定額・一定量での
継続的な輸入契約を結ぶのです。
そうすれば価格も安定しますし、
配分の争いも減ります」
リサが感嘆し、セレナに慌てて会釈する。
「……ほう、前向きな案だが、
相手国が戦に巻き込まれたらどうしますかな?」
「その時のために、相手国は二つ以上にします。
一方がだめになっても、もう一方から入るように」
ラシードは粘土板に視線を落としながら、
低く唸った。
「理屈は通るが……外交も輸送も手間がかかる。
費用対効果は慎重に見ねばならぬな」
(う……やっぱり現実的には難しいのかな)
リサは唇をきゅっと噛み、視線を伏せた。
悔しさを飲み込むように、
指先が衣の端を握りしめる。
――それでも、何か他にないか。
諦めきれない思いが、胸の奥で小さく疼く。
ふと前世で修学旅行のとき、先生が海外で必死に
タバコの本数を数えていたのを思い出した――
(先生、税金とられないよう必死だったな)
少し間を置き、セレナは別の案を口にする。
「……検問所の件ですが、
どうして量や品で価格を決めないのですか?」
ラシードは眉をひそめた。
「昔から、人は幾ら、馬は幾らと定められております。それを変えるとなると……」
「それを、人・馬・荷車……と分けて一律料金にして
しまえば、入り口での口論も減るのでは?
まるで通行札のように、
決まった額を払うだけにすればいいのです。
あと、人と馬は入り口も分けてしまえば、
混雑や順番争いも減ります」
(ETCみたいに……)
すぐ隣で控えていたリサが、ぱっと顔を上げ、
主を見つめた。
宰相は机に肘をつき、鼻を鳴らした。
「ふむ……門を増やす工事費が要りますな」
「でも、日々の揉め事と徴収の手間は減ります」
ラシードはしばし考え、鼻先をかすかに緩めた。
「……まあ、検問所だけならお試しでやってみても
よいかもしれませんな」
口元にうっすら笑みを浮かべ、筆を走らせる。
「少なくとも、商人どもが
“馬より高い人間”論争を続けるよりは有益だ」
(わー……採用されちゃった)
思わず顔が緩む。
隣で控えるリサが、誇らしげな眼差しで
セレナを見つめていた。
その瞳には「さすがセレナ様」という輝きが宿っている。
ラシードは粘土板を棚に戻し、肩をわずかに回した。
「……姫様、妙案ではありますが、
なぜそんな発想が出てくるのですかな」
セレナは一瞬だけ口ごもる。
(しまった……そんな質問されると思わなかった……)
「ええと……昔、その方法を導入している国の話を、
書物で読んだことがあって……」
ラシードの目がすっと細まる。
粘土板に落ちていた影が動き、
彼の横顔にかかる。
「……書物で、ですか」
低く繰り返す声には、
揶揄とも警戒とも取れる響きが混じる。
口元には穏やかな笑みを浮かべたまま、
しかし灰色の瞳は鋭くセレナを探っていた。
「異国の書物か、あるいは学者に学ばれたか。
……それとも」
指先で机を軽く叩き、間を支配する。
「ただの“姫”の発想にしては、
あまりに実務的すぎる」
リサがごくりと唾を飲み、
固唾をのんで主を見つめた。
ラシードの視線を受け止めながら、
セレナはふっと微笑んだ。
「それは……つまり、
私に素質があるってことですか?」
(そっか……前世の知識を、
“役に立つ形”に変えていけば……)
声にはほんのり嬉しさがにじむ。
頬にわずかな熱が差した。
ラシードはその反応をじっと観察し、
わずかに口角を持ち上げた。
「素質……そう言えなくもありませんな。
ですが、姫様――」
彼は机に手を置き、声を落とす。
「素質とは磨かねば錆びるもの。
光る石も、削らねばただの石ころに過ぎませんぞ」
セレナは思わず目を伏せ、
裾を握る手に力を込めた。
(確かに……でも後宮でどうやって磨 いていけば……?)
ラシードは肩をすくめ、机の端を指先で軽く叩いた。
「……ですが姫様。石ころで終わるか、
宝石に磨かれるかを決めるのは、いつだって
“持ち主”ではなく“石”自身ですぞ」
(……わたし自身が、どうなるかを決める……?)
その横で、
リサがそっと不安を滲ませた瞳で
セレナを見上げた。
顔を上げたセレナの瞳に、
冷えた鋼のような宰相の眼差しが
まっすぐ射し込む。
「もしご自身を錆びさせたくないのであれば――
人の与える務めを待つのではなく、
自ら務めを作り出すことです」
彼の言葉は慰めではなく、
無造作に差し込まれた冷たい刃。
けれどその刃は、セレナの胸奥を裂き、
わずかな光を差し込ませた。
「……まあ、そういうことですな。
受け身であればただの石。
けれど自ら磨く意思を持つなら、
宝石にだって変わり得る」
その声音は穏やかだが、
どこか試すような重みがあった。
胸に刺さった棘が、小さな灯へ変わる。
(受け身じゃだめってことね……
自分で活路を見つけないと)
セレナは深く一礼した。
「ご助言……ありがとうございます」
その言葉を受け、室内にひと呼吸分の静寂が落ちた。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
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