第6話 基盤(前編)
陽の高い中庭を渡ると、眩しさに思わず目を細めた。
訓練場からは剣戟と号令が響いてくる。
リサが小さく瞬きをし、ぽつりと漏らす。
「……相変わらず、賑やかですね」
回廊を進んでいたセレナは、リサとともに足を止めた。
訓練場の門が開き、黒髪の長身の男――
アルシオンが、数名の従卒を従えて現れた。
軽装の軍衣は肩から胸にかけて汗を含み、
鍛え上げられた腕と胸板が、
陽光を受けてはっきりと浮き彫りになる。
途端、後宮の女たちのざわめきが、
あちこちから湧き上がった。
「殿下……!」
「今日は訓練上がりなのね」
回廊の帳の陰から、幾筋もの視線が集まる。
アルシオンは額の汗を袖で拭い、
無造作に黒髪をかき上げた。
その一動作に、小さな吐息があちこちで漏れ、
空気がわずかに揺れた。
リサが目を丸くして、小さく息を呑む。
「……やっぱり、注目されますね」
セレナはその言葉に、小さく苦笑した。
声をかけられれば、
アルシオンは誰にともなく軽く頷くだけ。
けれど、その素っ気なさすら女たちの胸をざわつかせ、
視線はひとつ残らず、彼の後ろ姿を追っていく。
ざわめきに満ちた空間の中で、
彼だけが、どこか違う空気を纏っていた。
そして――
その流れを断ち切るように、
渡り廊下の影からサフィアが姿を現した。
武官の制服に身を包み、
髪をきっちりと束ねたその姿に、
場の空気が一気に張り詰める。
周囲の妃候補たちは、笑みを引っ込め、
険しい表情へと変わった。
「殿下、装備の整備はすでに済ませました」
短く、的確な報告。
その声音には、抑えきれない誇りが混じっている。
「ご苦労」
アルシオンは短く返し、ほんの一瞬、
身体ごとサフィアへと向き直った。
視線が長く彼女を捉え、
その奥に、わずかな笑みが宿る。
続けて低く、周囲には聞き取れないほどの声で囁いた。
「……後で話そう」
サフィアは小さく頷き、
唇の端に、かすかな笑みを浮かべた。
その間、回廊の女たちは息をひそめて見守っている。
視線が交わった、それだけで、
場の空気は凍りついた。
「見た?」
「今、耳打ちしたわよ」
――押し殺した囁きが、あちこちで弾ける。
「また、あの女が殿下の隣に……」
「剣しか能がないくせに」
「どうせ後宮には馴染めないわ」
リサは小さく身をすくめ、
怯えたようにセレナの袖口をつまんだ。
それらの声に、聞こえぬふりをして、
サフィアは姿勢を崩さない。
(……不憫なものね。こんなに嫌味を言われて)
セレナは、静かに息を吐いた。
(殿下はサフィアを……
本当に正妃にするおつもりなのかしら……)
アルシオンの歩みに合わせ、
サフィアは王宮の奥へと続く回廊へ足を向けた。
背後では、名残惜しそうな視線と、
冷ややかな視線とが入り交じり、
二人の背を追っていた。
◆
そんなものは、もう何年も聞き慣れている。
殿下は王太子なのだから、
女たちが惹かれるのは当然だ。
(正妃になるのは……私じゃない)
それは変えられない事実。
王族の血も、有力な家柄もない私は、
彼の「隣」に立つ資格を持たない。
わかっている。ずっと、わかっている。
それでも――
殿下が振り返った時、
最初に見つける場所にはいたい。
危ない時には必ず間に立ち、
背中を預けられる存在でいたい。
(正妃の座は渡しても、
この距離だけは渡さない)
誰が来ようと、
私とアルシオンの間にある、
戦場を共にした時間は割り込めない。
横を歩く殿下が、ふと視線を送ってくる。
「殿下、午後の視察、私も同行します」
「……ああ」
その返事とともに、
わずかに口角が上がる。
陽光を受けたその笑みは――
胸の奥を一瞬で跳ねさせるほど、
嬉しそうに見えた。
(……やめてよ、そういう顔は)
心臓が落ち着くまで、
呼吸をほんの少しだけ浅くする。
(この距離さえあればいい――
たとえ未来が、私のものじゃなくなっても)
◆
アルシオンとサフィアが並んで歩き去る回廊。
背後には、名残の視線と吐息が混じり合い、
白い石床に伸びる二人の影を追っていた。
(なんだかんだ言って……お似合いね)
セレナは、そっと口元をほころばせた。
ほんの少し、胸の奥がきゅっとしたけれど、
それ以上に、二人の姿は微笑ましく、
どこか羨ましかった。
――その瞬間、
心の奥に、ひとつの記憶がよみがえる。
彼と出会ったのは、中学三年の頃。
年上の彼は、悪魔祓いをする私を恐れなかった。
何度も告げられた「好きだ」という言葉に、
気づけば心が傾き、
支えるつもりが、いつの間にか支えられていた。
――私は、押しに弱い。
普段は大人びて冷静なのに、
ふいに甘えてくる。
「疲れたな」とこぼし、
抱き寄せて「傍にいてくれ」と熱を伝えてくる。
年上なのに隙を見せるところが、可愛くて、
支えたいと、心から思った。
愛を与え合う日々の中で、
私はますます彼に惹かれていった。
悪魔祓いを続けていたことに、
後悔はない。
けれど――
私がいなくなったあと、
彼は大丈夫だったのだろうか。
陽光に目を細めながら、
セレナは胸の奥に小さな痛みを抱いた。
その痛みを押し隠すように視線を戻すと、
二人の後ろ姿が、
まだ人々の名残の視線を集めて揺れていた。
(お二人は、どうぞ幸せに……
私は、今回は――
自力で幸せを探しにいかないとね)
「……セレナ様?」
すぐそばで控えていたリサが、
小首を傾げて覗き込む。
セレナははっとして表情を整え、
柔らかく微笑んだ。
「……なんでもないよ。
少し、眩しかっただけ」
リサは安心したように頷き、
それ以上は何も聞かず、そっと寄り添った。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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