第1話 縁談
「どうして……今が一番幸せだったのに……」
「もし生まれ変わるなら……普通の女の子に……」
香山美月、十七歳。呪術師。
悪魔祓い失敗にて――死亡。
そして時は流れ──
ここはルナワ公国第一王女の居室。
今や美月の新たな居場所。
壮年の男と、金糸を散らした衣をまとった女が、磨き上げられた青銅卓を挟んで言葉を交わしている。
「セレナ様、先ほど使者が参りましてございます」
膝をついた侍女が銀の文筒を恭しく差し出す。
女官長が開き、滑らかに読み上げた。
「……アウレナ王国より、正式な縁談の申し入れがございました。第一王太子殿下の正妃候補として、とのことにございます」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
言葉は届く。意味だけが追いつかない。
「……え、縁談?」声が震えた。
胸が苦しくなるほど脈が速まり、手のひらに汗がにじむ。
(私が……正妃候補? そんなはず……)
否定しようとした瞬間、
波のように前世の映像が押し寄せた――
厳しい両親の叱声。
周囲に怯えられ孤独の毎日。
親から逃げ、自分を知らない町で手にした自由。
友達と笑い、彼と未来を語り、
暗い客席で肩を寄せ合い、同じスクリーンを見つめた夜。
そして――呪術師として悪魔祓いに追われた日々。
あの日、血の匂いと共に、すべてが終わった。
「…セレナ様?」
女官長の声が耳に届き、はっと我に返る。
「だ……大丈夫です……驚いてしまって……」
冷静になろうと視線を巡らせる。
柱には金糸の布が垂れ、香炉からは白い煙がゆるやかに立ちのぼっていた。
どこかで見たことがある。そうだ、教科書や映像で目にした古代アナトリアの宮廷だ。
そして自分自身にも意識を向ける。
確かに、生まれ変わって“普通の人間”にはなった。
もう霊も見えないし、術も使えない。
(だけど……古代のお姫様になるなんて……)
女官長は柔らかな笑みを浮かべ、言葉を重ねる。
「準備はすぐに整えましょう。殿下も、きっとお喜びになります」
「そう……ですかね……」
(ああ……やっぱり拒否権なんてないのね……)
胸の奥が重く沈む。
(でも、アルシオン王太子って……あの……?)
沈んだ気持ちに、かすかなときめきが紛れ込む。
(噂でしか耳にした事がないけど……
聡明で、戦場に立つこともある。青い瞳の、凛としたお方と……)
「文の返答を至急アウレナへ。王女殿下の支度は本日から始めます」
衣擦れと足音が遠ざかり、部屋は静けさを取り戻す。
外の光が金糸の刺繍を揺らし、胸の鼓動まで明るく照らすようだった。
(まさか……生まれ変わって王子様と結婚だなんて……)
熱が、ふわりと頬に集まった。
自覚した瞬間、遅れて心臓が跳ねる。
(神父にも褒められた、冷静さが取り柄だったはずなのに……私、浮かれている……)
侍女がそっと髪を梳く。
指先が触れるたび、くすぐったい。心までざわめく。
けれど、その小さな期待がどれほど浅はかなものか、私はまだ知らなかった。
数日後、私は思い知ることになる。
アルシオン殿下の妃候補が、いかなる立場に置かれているのかを。
そして、“後宮”という場所が、私の想像とはまるで別の姿をしていることを――。
◆
数日の旅路を経て、アウレナ王国の王都が視界に広がった。
黄金色の城壁が陽光を反射し、角笛と太鼓の音が胸に響く。
門を抜けると、風にはためく敷物と甘い香りが迎えてくる。
案内された後宮は、金糸の天幕がきらめき、曲がりくねった回廊が迷路のように続いていた。
泉の水は澄み、庭の花々は色鮮やかに咲き誇り、侍女たちの衣も揃って華やかだ。
どこを見ても華やかで、さすがは大国――そんな空気に圧倒された。
思わず息を呑み、視線をさまよわせたそのとき。
「まぁ……妃候補のお姫様ですって」
声の主は、紅の衣に金糸を散らし、宝石を幾重にも身につけた女だった。
レイラの動きはゆるやかで、豪奢な裾を引きずるたびに飾りがきらめく。
「遠路はるばるご苦労さま。あら、その服、地方の仕立て?」
「……!」
一瞬、体が固まった。
柔らかな笑みの奥に、刃のような意図が潜んでいた。
(今のは……嫌味よね……
どうしよう……こういう場合はどう切り返していいのかわからない……)
セレナが言葉を失ったのを見て、レイラはゆるやかに顎を傾けた。
紅の唇がさらに深い笑みに歪み、満足げにまつ毛を伏せる。
まるで「やはり田舎娘」と結論づけるかのように。
(駄目だ……正直に答えよう)
セレナは深く一礼する。
「初めまして。ルナワ公国第一王女、セレナと申します。遠く離れた小国から参りましたので、どうか色々と教えていただければ嬉しく思います」
卑屈さを欠いた声音に、レイラは一瞬まばたきし、
「ええ、もちろん」とだけ返した。
セレナは微笑みながらレイラを見つめる。
(何も言われない? よかった……)
張り詰めていた肩の力がわずかに抜けたところで、女官たちが再び一礼する。
「では、姫様のお部屋へご案内いたします」
◆
回廊をいくつも抜け、香の漂う扉の前で立ち止まった。
侍女が一歩前に進み、金の取っ手へと手をかける。
「こちらが本日より姫様の居室にございます」
帳の奥には、絹の天蓋を垂らした寝台と黒檀の書見台。
敷き詰められた絨毯は足音を吸い、香炉からは白い煙が立ちのぼっている。
その手前に、一人の長身の男が立っていた。
黒髪を後ろで束ね、切れ長の灰色の瞳。
深藍の衣に銀の帯を締め、品の漂う佇まい。
だがその眼差しの奥には、わずかに疲れの影が滲んでいた。
男は静かに一礼した。
「ようこそお越しくださいました。ラシードと申します。アウレナ王国の宰相にございます」
低く響く声が石壁に反射し、部屋の空気をさらに張り詰めさせた。
宰相自らが姿を現す――その事実に、この縁談の重さを感じた。
侍女たちは一層姿勢を正し、セレナの背後で息を潜めた。
「ルナワ公国第一王女、セレナです。よろしくお願い致します」
(……なんだかお疲れ気味な方ね。休めているのかな)
ラシードは軽く頷き、口元に淡い笑みを刻む。
「お疲れのところ恐縮ですが――殿下がお待ちです」
その言葉が落ちると同時に、帳の奥から衣擦れの音がした。
寝台の背後、香炉の白煙が溜まる内室へと続く薄紗。
王族が近臣のみを通す控えの間が、静かに揺れ、革靴が絨毯を踏み、重くも確かな足取りが近づいてくる。
香の煙が割れるようにして、ひときわ高い気配が現れた。
長身の男。
鋭く澄んだ青の瞳――王太子アルシオン。
短い黒髪が、陽を受けて静かに艶めく。
凛とした面差しに影を落とす。
軍装に包まれた肩と胸は力強く、同時に立ち姿には人を惹きつける気品が漂っていた。
一瞬で空気が張り詰めるが、漂わせた柔らかな気配がその緊張をほどいた。
「ルナワ公国第一王女、セレナにございます。お目にかかれて光栄です、アルシオン殿下……」
(こ、こんなに早くお会いするなんて……心の準備が……)
膝を折った姿勢のまま、胸の鼓動がやけに速い。
指先にかすかな震えが走る。
「顔を上げよ」
ゆっくりと顔を上げると、澄んだ青の瞳が真正面から射抜いた。
だがすぐに、その鋭さはやわらぎ、口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「遠路ご苦労だった、姫君。ようこそアウレナへ」
低く落ち着いた声が胸を震わせ、一瞬で息を奪われた。
(素敵……こんな人の花嫁候補だなんて……!)
気づけば、ただ見惚れて瞬きを忘れていた。
アルシオンはふと視線を宰相へ移し、短く告げる。
「――案内を頼む。次に行くところがある」
にこやかな笑みのまま言い残し、足音だけを残して去っていった。
(ああ……もう少しお話ししたかったな。お忙しいのね)
セレナは名残惜しそうに、その背中を目で追った。
◆
乾いた土の匂い、木剣がぶつかる鈍い音。
朝から訓練場に立っていた。
王宮に入ってからも、武官としての鍛錬を欠かしたことはない――それが、アルシオン殿下の護衛である私の務めだから。
額の汗を拭った瞬間、足音が近づく。
振り返れば、あの人がいた。
鋭い青の瞳、まっすぐな歩み。
「待たせたな、サフィア」
短く告げられた声が、胸の奥を温かくする。
自然と笑みが浮かぶ。
「殿下こそ、お忙しい中ありがとうございます」
アルシオンは一歩近づき、サフィアだけに向ける視線を落とす。
その瞳は冷徹な戦場のものではなく、安堵に揺らめく柔らかさを帯びていた。
「……お前の顔を見ると、やっぱり落ち着くな」
わずかに口角を上げ、指先でサフィアの頬の汗を拭う。
その仕草は誰よりも親密で、誇らしげですらあった。
「今日はもう稽古をやめて、俺のそばで休め。お前が無事でいるほうが、何より俺の力になる」
「じゃあ……ずっと傍にいれば、殿下はもっと強くなれますね」
「間違いない」
そのやり取りは、王宮の空気を甘く熱くするほどの親密さであった。
ふと、訓練場の入口に新しい影が立っているのに気づく。
異国の衣をまとい、まだ緊張を隠せない面差しの少女。
案内役の侍女に導かれていることからも――新しく迎えられた“妃候補”なのだと分かる。
(またか……妃候補なんて、珍しくもない)
サフィアは胸の奥で軽く吐き捨てるように思い、すぐに意識をアルシオンへ戻した。
――なのに、ほんの一瞬だけ瞼の裏に、彼女の大きな瞳が焼き付く。
(……なんで、気になるんだろう)
自分でも答えが見つからないまま、視線は自然に訓練場へと向き直った。
◆
(……え、今のは一体……)
その場に釘づけられたように足が動かない。
胸の鼓動が耳の奥でざわめき、視線だけが訓練場に縫いつけられる。
女武官の凛とした姿、殿下との近さ――焼きついた光景がまぶたの裏で硬直させる。
すぐ脇の回廊にたむろしていた数人の妃候補たちが、苛立ちを隠そうともせず毒を含んだ声を投げ合う。
「またあの女が殿下と二人きり……」
「剣しか振れないくせに、武官のくせに……」
「妃候補の前で堂々と見せつけるなんて、品がないわ」
(ど、どういうこと……?)
胸の奥がざわめき、動揺を隠せない声で問いかける。
「今の……訓練場の女性は?」
侍女リサが一瞬言葉を選び、小声で答える。
「サフィア様です。山間地方の豪族の末娘。殿下直属の武官にして……アルシオン殿下のご寵愛を受けておられる方でございます」
「……え?」目を見開く。
「武官なのに?」
リサは視線を伏せ、さらに声を落とす。
「はい。武官でありながら、アルシオン殿下のお心に最も近い存在――と、後宮ではもっぱらの噂で」
回廊の向こう、二人の影はすでに見えない。
だが、先ほどまで殿下が向けていた柔らかな表情だけが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
(理解が追いつかない……あの誠実そうな王子が、妃候補以外を寵愛してるの?)
(しかも、正妃候補に挨拶したその足で……恋人のところに行くの!?)
あっけにとられ、胸の奥で小さな波が立つ。
リサはそんなセレナの横顔を一瞬見やり、そっと口を閉ざす――が、やがて低く告げた。
「……だからこそ、他の候補の方々は、ご自分から動かれることはほとんどございません。
正妃候補であれ、妃候補であれ務めは同じ――殿下のお心を得ること。
それが叶わぬと分かれば……日々は自然と静かなものになります」
「……そう」
そっと視線を足元へ落とす。
(まぁ……王子様だし、よくある話よね、きっと。……うん)
必死で自分に言い聞かせても、胸のざわざわは消えてくれず、寂しさが残る。
笑ったつもりなのに、頬に浮かんだのは戸惑いの影ばかりだった。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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