第30話 没落貴族よ、雀蜂を穿て
西街の綺麗に舗装された道を、アルトは全速力で疾走していた。
折角、整えた髪の毛も乱れてしまうほど、必死の形相で、人通りの多い道をすり抜けて行く。
視線は絶え間なく動き、攫われたラサラの姿を探す。
小柄なラサラとはいえ、人間一人を誘拐するのは容易いことでは無い。
ましてやここは、人通りの多い王都の真ん中。
怪しまれないで逃げるなど、ほぼ不可能だろう。
しかし、ラサラが連れ去られたという方向に向かい、通りがかりや店先の人間に、怪しい人物達は見なかったかと問うが、誰一人として、目撃者は存在しなかった。
どう考えても、これは不自然だ。
幾ら人混みに紛れようとしても、女の子一人を担いで走っている男達が、怪しく無いわけが無いし、見逃すなんてあり得ない。
それを可能にする方法は、すぐに見当がついた。
「……馬車か」
馬車に押し込まれれば、外からは中の様子が伺えないだろう。
それにここは西街。高級な箱馬車が走っていても、珍しくも何とも無い。
「だとしたら、随分と距離を空けられちまったか……クソッ、どうする?」
一刻を争う状況。
虱潰しなど、効率の悪い方法を取っている場合では無いが、現状では地道に聞き込みをして、怪しい馬車を割り出すしか無い。
アルトは足を止め、その場で両目を瞑り、下を向く。
「落ち着け……冷静になれ」
何度も呟き、胸の焦燥感を強引に押し殺す。
慣れた様子で、冷静さを取り戻すと、それに伴い思考がクリアになる。
とにかく、今は動けるだけ動いてみよう。
足を踏み出そうとした瞬間、路地裏から跳ねるような足取りで、何者かが真横に降り立った。
反射的に手が腰の剣に伸びるが、現れた人物の姿に、軽く目を見開く。
見覚えのある白い服で、特徴的な糸目が、アルトを見上げていた。
「――シエロか!?」
「アルト。状況は聞いているよ。僕が誘導するから、付いて来て」
挨拶も無しにそれだけ言って、シエロは走り出した。
唐突な行動だが、そこは慣れた物。アルトも再び駆け出し、シエロの隣りに並んだ。
「お前、何で?」
「ただの通りすがり。そういうことにしておいてよ。でないと、ちょっと問題があるんだよね。この件に関しては、僕らの管轄外だから」
なるほど。と、アルトは頷く。
確かに騎士団の団長が自ら、しかも片方は三傑の一人だ。
そんな人物が、単独で介入するなど、それだけでも世間には様々な憶測が飛び交うだろう。
ましてや、縦横の序列がきっちりとした、騎士の世界。
無暗やたらにちょっかいをかければ、査問会議にかけられ、吊し上げを喰らうかもしれない。
シリウス。もとい、シーさんの変装は、その辺りを考慮してのことだろう。
正体を隠せているかは、疑問だが。
「んなことより、ラサラが連れ去られた場所、わかんのか?」
「そんなことって、酷いなぁ。素っ気ない態度だけど、君が生きてるって知ってから、随分とアルトのことを気にしていたんだよ?」
「だから、それどころじゃねぇだろ」
苛立ち交じりに睨むが、シエロの恍けたような糸目は変わらない。
「アルトって、昔から彼女には冷たいよね」
「……ふぅ」
話を聞かないシエロに、走りながらため息を吐く。
呆れているのでは無く、シエロが何故、ワザとらしく話を遠回りしているのかが、理解出来たからだ。
「別に冷たかねぇだろ。普通だ、普通。逆に距離感が急激に縮まった方が、ビックリするだろ?」
「はは、確かにね」
切迫した状況だと言うのに、二人は暢気な会話で笑い合った。
これが、シエロの狙いだろう。
落ち着いたつもりでいたが、シエロには今のアルトに冷静さが欠けていると、見抜かれてしまった。
だからこそ、こういった他愛の無い話で、精神をニュートラルに戻す作業を行ったのだ。
昔、戦場でよくやった方法。
流石は現在も、騎士として第一線にいる男だけあって、その辺りの心構えは完璧らしい。
これは、自分も負けてられないと、自然に心が引き締まる。
「んで、ラサラは?」
「今、追い駆けている」
「お前の部下か?」
「まさか。今日の僕は、通りすがりだって、言ったろ……彼さ」
シエロは正面の空、遥か彼方を指差した。
眉間に皺を寄せ、目を凝らして指先の方向を見てみると、小さく白い鳥が上空を羽ばたいているのが見えた。
「おい、あれって……」
「これも、戦場ではよく使った手だよね」
自慢げに、シエロはウインクした。
あの鳥は、ウルス鳥と呼ばれている。
非常に頭が良い鳥で、上手く調教すれば、上空からの敵部隊の索敵や偵察、別部隊との手紙のやり取りも可能となる。
北方の国境沿い。紛争の絶えない山脈地方で、地元の警備隊が戦闘を有利に進める為に編み出した、かなり古い方法だ。
この王都では、シエロくらいしか、扱える者はいないだろう。
「あのウルス鳥が、ラサラを攫った馬車を追っているのか?」
「うん。大分、距離はあるみたいだけど、アルト、大丈夫?」
「はぁ? 何がだよ」
意味がわからず問うと、シエロは言い辛そうに口ごもる。
「いや、状況が状況だから、僕は全力で追い駆けるともりなんだけど……つまり、ついてこれる?」
ビキッと、額に青筋が浮き上がる。
挑発、ではなく、本当に心配しているような口調だ。
だからこそ、余計に腹が立つ。
「ああん? ふざけんなテメェ! 短距離ならともかく、体力勝負の長距離で俺が負けるわけねぇだろがッ!」
「そりゃ、昔はそうだったけど、ブランクがあるからさ。一応、僕は現役の騎士で、君は一般人なわけだし」
「ああ、ああ。つまり喧嘩売ってんだなこの野郎。上等じゃねぇか。こっちとら、無駄に暇を持てましてるわけじゃねぇぞ!」
はぁと生返事をした後、シエロの糸目がキラッと輝く。
「じゃ、勝負する?」
「やらいでか……行くぞ!」
視線を交わしあい、正面に顔を向けると、二人は同時に加速した。
人間の脚力とは思えない、常識外れの速度で、狭い路地裏を二人並んで滑走する。
路地裏から広い通りに飛び出ても、その勢いは収まらず、すれ違い巻き起こる突風に青されながら、通行人達は皆、何事かと驚きの表情で瞬く間に向こう側へと消えて行く、その後姿を見送った。
目指すは、遠くウルス鳥が飛びまわる、西街の外れまで。
緊張感の無い会話を交わしながらも、二人の表情は、何処までも真剣だった。
★☆★☆★☆
連続して繰り出される打撃を、何とか捌ききったカトレアは、額から汗を流しながら、荒く肩で息をする。
引き裂かれた服の袖から覗く腕には、痛々しい痣が数か所も出来ていた。
悠然とした態度で、正面に立つ雀蜂は、ポキポキと指先を器用に曲げ、骨を鳴らす。
カトレアは、鈍く痛む腕を摩り、苦悶の表情を浮かべた。
「ッッッ痛いわねぇ……アンタ、そのグローブの下に、何仕込んでんのよッ」
「ふふっ。メイド風情が、中々にやるじゃない。けれど、私の敵じゃないわ」
そう言って、雀蜂は跳躍。
空中で一回転しながら、手刀を振り上げて襲い掛かってくる。
数度ぶつかり合った経験から、鈍りでも仕込んであるかのように、重く硬い一撃を正面からガードするのは得策では無い。
瞬時にそう判断したカトレアは、構えた左腕で、突き出された手刀を外側に捌く。
「――シッ!」
地面に着地した雀蜂が、左手の手刀でカトレアの顔面を狙う。
それを右手でブロック。
鈍い痛みが走るが、勢いが乗る前に止めたので、我慢できないほどでは無い。
受け止めた腕を捻り手首を捕まえ、外側に足を踏み出して、手首を手前に引っ張り、雀蜂の身体を懐にまで引き込む。
引っ張られて前に出る勢いを利用し、左の掌底を顎に叩き込もうとするが、寸前で差し出して手で受け止められてしまう。
自分の肩越しに、雀蜂はニヤリと笑う。
「こっのッ!」
負けてなるモノかと、下半身に込めて重心を安定させる。
逃がさないよう手首を握る手に力を込め、右肩を相手に突き出した無理な態勢も構わず、連続で左の拳を、雀蜂の顔面目掛けて飛ばす。
しかし、それらは全て、涼しい顔をした雀蜂に軽々と捌かれてしまう。
「――セイッ!」
渾身を込めた一撃も、雀蜂は容易く手の平で受け止めた。
手の平を打った時に、硬い鉄板を殴ったような痺れる衝撃に、カトレアは顔を顰める。
受け止めた拳を、ギュッと握った。
「なるほど……趣味や護身術の類では無い。本物の、相手を倒す武術ね。凄いじゃない、誰に教わったのかしら?」
「……大酒飲みの、化物仙人からよ」
「あら、それは素敵ね」
握った拳を弾くと、バックステップで距離を取りながら、ハイキックを打ち出す。
それをカトレアは、両腕でガードする。
下がりながらなのに、腰の入った蹴りは見た目以上の重く、ズシッと身体に衝撃が響く。
「ほら、もう一度よ」
一度足を離して、再び同じモーションでハイキックを放つ。
受けに回っていたら押し切られる。
素早く判断を下したカトレアは、迎え撃つようにスカートを靡かせ、同じようにハイキックで雀蜂の蹴りを迎え撃った。
交差する両者の足技。
「貴女の蹴り、軽いわね」
「――なにぃ!?」
ニヤッと笑った後、雀蜂は気合を入れて足を振り抜く。
強引に足を押され、バランスを崩すカトレア。
このまま、黙ってやられるわけにはいかないと、わざと倒れて床に両手を付きながら、身体を回転させて足払いを放つ。
が、遠心力を乗せて蹴った筈の雀蜂の軸足は、まるで地面に根でも張っているかのよう、ビクともしなかった。
逆に、蹴った足が痺れ、ダメージを負ってしまう。
「こっのぉ……アンタ、どんな身体をしてんのよッ」
毒づきながら、後ろにバク中を繰り返し、雀蜂と距離を取る。
余裕のつもりなのか、追撃すれば出来た筈なのに雀蜂はそれをせず、薄笑みを浮かべたまま、カトレアが態勢を整えるまで待っていた。
立ち上がったカトレアは、親指で鼻の下を撫でる。
「……気に喰わないわね。その余裕」
「捕食者の特権よ。強者は弱者を、ゆっくりといたぶるモノなの……ジワリジワリと、虫を蝋燭の火で、炙り殺すようにね」
雀蜂は、サディスティックに嗤った。
ゾクリと、背中に寒いモノが走る。
こっちは既に息切れをしているのに、雀蜂は呼吸の一つも乱していない。
実力差は明白だ。
「不味いわね。これはちょっと、勝てそうもないわ」
弱気な発言をしながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。
自分より強い相手と戦うのは、ワクワクする。なとど、頭の中まで筋肉が詰まっているような、発言をするつもりは無いが、これでもカトレアは武術を嗜む身。恐怖もあるが、それ以上に、全力で武を振るえることに、喜びを感じてしまう。
本当に、自分が元貴族なのか、疑いたくなると、カトレアは苦笑した。
焦りや、絶望感は無い。
格上の相手、勝ち目が薄いからこそ、冷静さを保っていなくてはいけない。
悔しいかな、以前に、冷静さを欠いて敗北したからこそ、今の状況に追い込まれて尚、自棄にならずに済んでいる。
大きく息を吸い、吐き出す。
心を落ち着かせ、拳を構えながら、雀蜂を見据えた。
その様子を見て、雀蜂のニヤケ顔が消える。
「随分と落ち着いているのね。まさか、助けが来るとでも思っているのかしら? 残念だけれど、ここに人が訪れることは無いわ。手は打ってあるもの」
「……その割には、あたしは簡単に入れたけど? アンタの打った手ってのは、ちょっとばかりザルなんじゃない?」
「う、うるさいわねぇ!? 私の所為じゃないわよッ!」
痛いところを突かれたのか、雀蜂が焦り顔で怒鳴る。
「ふん。どうやって気づいたかは知らないけれど、貴女一人では私は止められないわ。邪魔な連中は始末した……後は、アレを手に入れるだけよ」
アレ、という単語に疑問を覚えるが、それを表情には出さない。
どうやら、何かを勘違いしているらしい雀蜂に、カトレアはあえて乗っかってみることにした。
「随分とご執心ね。そんなにアレが必要なの?」
ワザと知ったかぶりをする。
すると、雀蜂は疑う様子を全く見せず、無知なフリをするカトレアを嘲笑った。
「これだから物の価値を理解出来ない人間は、困るわぁ。炎神の焔が、どれだけ重要なのか。まぁ、こんな山の手でのうのうと暮らしている貴女達には、綺麗な置物程度の認識しかないのだろうけど」
「……えんじんのほむら?」
えんじん、炎神。
炎神と言えば、水神リューリカと対を成す、火山地方を守護する神のことだ。
それに関連する宝物となれば、金銭的は勿論、魔術的に見ても、素晴らし価値を秘めている。
だが、そんな物を、何に使うつもりなのだろうか?
カトレアはもう少し、雀蜂を突っついてみることにした。
「炎神の焔を使って、どんな悪さをしようってのよ?」
「さぁ、教えるわけ無いでしょ」
当然の返しだ。
しかし、カトレアは意地悪そうに笑う。
「はぁん。知らないんだ」
「……そんな挑発に、乗るわけ無いでしょう」
「知らないなら知らないって、言えばいいのに」
「…………ッッッ!」
雀蜂は物凄い形相で、歯をギリギリ鳴らし、こちらを睨んできた。
この様子を見る限り、本当に知らないのだろう。
彼女達ハウンドには、オークション関係者の殺害以外に、炎神の焔を手に入れるという目的がある。
情報としては十分とは言えないが、今はこれで満足しておこう。
カトレアはチラッと、既に事切れている死体を見る。
支払った代償は、決して小さく無いが。
「お喋りはおしまいよ」
雀蜂の声色に、冷徹さが宿る。
発する殺気も打って変わって、ビンビンと肌を刺す。
予想以上に短気な性格らしく、今の挑発が虎の尾を踏む結果となったようだ。
「さぁて、どうするかな」
雀蜂の動きを警戒しながら、入口の位置を確認する。
ドアは右手の方にあるが、決して近い位置では無い。
正面には雀蜂。彼女の動きは自分より早いが、ギリギリ部屋の外に、飛び出せないことも無い。
駄目だ。
すぐに思考を打ち消す。
「廊下に出て、下に降りても追っかけてくるかもしれない。そしたら、他の人達も巻き込んじゃうわ」
まだ、目的の物が手に入っていない様子なので、もしかしたら、逃げた場合、炎神の焔を手に入れることを優先するかもしれない。
しかし、目の前の雀蜂は、どうやら感情に左右される人物のようだ。
逃げても、追いかけて来て、カトレアを殺すことを優先する可能性が高い。
以前のハウンドも、真っ昼間に襲撃をかけ、逃げる時も白昼堂々、街の中を突っ切って行った。
彼らは、あまり人目を気にはしないのだろう。
ならば、結論は一つだけ。
「何としても、ここで決着をつけなくちゃ駄目かぁ……ああ、もう! こんな物騒な役回りは、アルトの担当じゃない!」
八つ当たりしながら、意を決してカトレアは構える。
暫し、睨み合う両者。
雀蜂は両腕をブラリと下に垂らし、棒立ちだ。
瞬間、雀蜂の姿が、霞むように揺れた。
「――ッ!?」
一瞬にして目の前に迫る。
この間合いは不味いと、距離を取る為に牽制に突きを放つが、あっさりと避けられ手首を掴まれる。
同時に右太ももに、数回ローキックを打たれ、ダメージから僅かに膝が落ちた。
雀蜂の狙いは、高さを丁度よく合わせることだ。
素早くカトレアの右側に回り込むと、手首を右手に持ち直し、離した左手を肩へと添えて、そのまま体重をかけて床に押し倒そうとする。
「――やばっ、折られるッ!?」
この状態で倒されたら、一巻の終わりだ。
思考では無く本能的判断で、カトレアはその場でバク宙をする。
まだ、腕が完全に拘束される前だったので、捻られかけた腕は回転により元の位置に。更に、手首のロックも甘くなり、引き抜くことに成功する。
「――チッ」
耳元で舌打ちがなる。
引き抜いた腕は戻さす、右後ろにいる雀蜂に向かって、裏拳を打つ。
撓るような一撃が、雀蜂の鼻先をヒットする。
「グッ!?」
威力は低いが、素早いそれは、雀蜂を怯ませるには十分効果的だ。
「――貰った!」
右腕を顔の横に添え、ガードを固めながら、右足を軸に身体を横に回転させる。
大きな軌道を描いて、左フックが雀蜂に狙いを澄ます。
その際、カトレアの視線は雀蜂の顔面を捉えた。
「ふん、見え見えよッ」
先読みして守りを固め、雀蜂はカウンターを狙う。
カトレアは、唇に笑みを覗かせる。
それを見て、雀蜂はしまったと焦りの表情を浮かべるが、もう遅い。
楕円を描く左フックは低い軌道のまま、がら空きになっている雀蜂の右脇腹に突き刺さった。
「――ッ!?」
予想外の衝撃に、雀蜂は声も出せず悶絶。
ここが好機。
カトレアは上体を低くして、雀蜂の懐に潜り込んだ。
超接近戦。
身長が高く、手足の長い雀蜂には、この距離は不利だろう。
何とか距離を取りたい雀蜂が、闇雲に拳を放つが、距離が近すぎる所為か威力が乗らず、簡単に捌かれてしまう。
そして、今度は反対側から放たれた、フルスイングの右フックが、左脇腹を穿つ。
「――ッ!?」
雀蜂の身体が、くの字に折れた。
だが、流石と言うべきか、雀蜂は足を踏ん張り倒れない。
だったら、倒れるまで何度でも繰り返す。
もう一度、左フックを放つ態勢を取った瞬間、凍てつくような殺気がカトレアを襲う。
「――これはッ!?」
「――シッ!」
本能が警笛を鳴らし、自分に有利な状況をかなぐり捨てて、カトレアは弾かれたように後ろへと飛び引いた。
刹那、目の前に閃光が幾筋も走る。
後ろに引いたカトレア。
メイド服の胸元が、バックリとバツの字に斬り裂かれ、下着が露わになっていた。
反射的に胸元を隠しながら、カトレアは雀蜂を睨む。
「……あっぶないわねぇ」
服を斬り裂いた正体。それは、雀蜂の腕から指先までを包む、レザーグローブを貫いて伸びる、両肘から突き出した銀色の長い針だ。
雀蜂は、屈辱に顔を歪めている。
「まさか、貴女のような雑魚に、蜂の針を使う羽目になるとわね……運が良かったわねぇ、服だけで済んで。僅かでも肌を裂いていたら、貴女の綺麗は肌が、壊死していたところよ」
「ってことは、その針、毒針ってことね。ますます、危ないじゃない」
想像して、鳥肌を立てながら、カトレアは吐き捨てる。
さて、今度こそ不味い状況だ。
今までは相手の油断を逆手に取って、その隙を上手く突いて立ち回って来たが、奥の手らしき物を出してきた以上、雀蜂にもう油断は無いだろう。
そうなると、実力で劣るカトレアには不利。
絶体絶命だ。
「参った。こりゃ、本気で参ったわ」
呟きながら、数歩、後ろに下がる。
それを逃がすまいと、雀蜂は同じ歩数だけ、距離を前に進めた。
「さて、色々と楽しませて貰ったけど、そろそろ終わりにしてあげるわ。私の毒針は、刺されると苦しんで死ぬのだけれど、我慢して頂戴。弱い、貴女が悪いんだから」
「……もう勝った気でいるの? ハッ、甘いわね」
強がって見ても、状況は好転しない。
雀蜂もそれが理解出来ているらしく、笑みを浮かべながらも、油断無くカトレアをゆっくりと追い詰めて行く。
逃げ場は無い。
いっそ、窓から飛び降りてみるかと、考えてみる。
馬鹿な考えだ。あんなところ、人間が出入りする場所では無い。
どうする、どうする?
思考が空転する。
一か八か、玉砕覚悟で戦うしか方法は無いか。
半ば自棄になったその瞬間、窓ガラスが激しい音を立てて、粉々に砕かれた。
「「――ッ!?」」
驚いた二人は、同時の視線を向けた。
堂々と、窓を叩き割って侵入して来た女性はビーバー帽を被り、手に持った両手剣を肩に担ぎながら、何事もなかったかのように、位置がズレた眼鏡を直していた。
眼鏡をかけているが、その容姿にカトレアは見覚えがあった。
「あっ……シ、シシ、シリウ……」
「通りすがりの地方貴族の三女、シーさんよ」
名前を思い出して、言い終わる前に、シーさんが被っているビーバー帽の位置を直しながら、そう言い切る。
突然の出来事に、カトレアの理解が追いつかない。
そして、混乱しているのは、ここにももう一人。
「あ、貴女、何者よッ!? 何でわざわざ、窓を割って入って来たのッ!」
「愚問ね。この方が、近いからに決まっているでしょう」
確かに直線距離に換算すれば近いだろうが、ここは地上から十階建ての高さがある。
飛び降りるならまだ可能だが、昇ってくるなんて、一体どうやって?
疑問が顔に出ていたのだろう。シーさんは、シレッとした顔で一言。
「別に難しいことじゃないわ。ただ、垂直に壁を走っただけよ」
「……蜥蜴か、アンタわ」
「乙女に向かって、失礼ね。それに、蜥蜴は今さっき、退治したばかりよ」
「――何ですって!?」
雀蜂が驚きの声を上げる。
「……アンタ、何しにここに来たのよ」
「どこぞの貧乏野良犬騎士に頼まれたの。害虫駆除を手伝ってくれと」
そう言って、シーさんは手に持った両手剣の先端を、雀蜂に向けた。
彼女から発せられる圧力に押され、雀蜂はくぐもった声を漏らして怯む。
だが、雀蜂は強気な態度を崩さない。
「ふ、ふん。どんな手を使ったかは知らないけれど、この私が蜥蜴と同じようにいくとは、思わないことね」
「それは結構。そんな種の割れた隠し芸が、私に通用すると思っているならね」
雀蜂は、自分の肘から伸びる毒針を見て、悔しそうに唇を噛み締める。
挑発されてカトレアにあしらわれる部分もあったが、雀蜂はこれでも実力のある暗殺者。目の前の立つシーさんが、強いということは十分に理解出来ていた。
それに状況だけ見れば、二対一。
雀蜂は舌打ちを鳴らす。
「……時間も随分と過ぎてしまったわね」
呟いて、雀蜂はカトレアの方を見た。
「運が良かったわねぇ。残念だけど、私はこの辺りでお暇させて頂くわ。命拾いしたことに、感謝なさい」
「なによ。形勢が不利だからって、尻尾巻いて逃げる気?」
「ち、違うわよッ! 目的は半分達したわ。これ以上、貴女達に構っている暇は無いの。それじゃ、失礼させて頂くわ」
そう言って、雀蜂は乱暴にドアを開き、廊下へと出て行く。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
追い駆けてカトレアも廊下に出るが、そこにはもう誰の姿も無かった。
更に追い駆けようとするカトレアを、シーさんが呼び止めた。
「無駄よ。迷うことなく逃げたということは、あらかじめ逃走ルートを確保しているんのでしょう。追いかけても、捕まえることは出来ないわ」
「そう。ま、仕方が無いか」
カトレアは呟いて、安堵の息と共に、その場に座り込んだ。
危ないところだった。
正直、シーさんが介入してこなければ、高確率で雀蜂に殺されていた。
勝てるチャンスは何度かあったのに、決めきれなかったのは、自分が未熟だったから。
こんな時に役立てるよう、忙しい合間を縫って、今まで鍛えてきたのに。
壁を背に、ズルズルと滑りながら、カトレアは湿った息をまた吐き出す。
すると、その横にシーさんが立った。
カトレアは、ジロッとした目で、シーさんを見上げた。
「……嫌味の一つでも、言いに来たわけ?」
「そんな無駄なことはしないわ……貴女なら、一人で立てるでしょう?」
眼鏡の奥の瞳が、わかり辛く笑みを見せる。
暫し見つめ合い、カトレアはフッと笑顔を零すと、足を振り上げて勢いをつけ跳ね起きる。
肩を揉みながら、首をコキコキと鳴らした。
「さて、状況は?」
「悪いわね。でも、どこかのロリコン貧乏野良犬騎士が、何とかしてくれるでしょう」
「そうね。今は、こっちで出来ることを、しておきましょう」
苦笑しながら、カトレアは部屋の中に視線を移す。
血の匂いが立ち込める、多くの死体が倒れた室内。
生前に顔も合わせたことの無い、どこの誰かもわからぬ中年男性達。
彼らが善人なのか、それとも悪人なのか、カトレアに知る術は無い。
だが、カトレアは思う。
例え何者だったとしても、こんな死に方をするべき人間では、無かっただろうと。
カトレアはそう思い、ただ、死者の冥福を祈って、暫しの黙祷を捧げた。
★☆★☆★☆
一連の騒動を、離れた場所にある建物の屋根で、見据える黒い影の姿があった。
ハウンド達の着ているそれに酷似した、黒衣を身に着けた白い仮面の人物。しかし、ハウンド達とは違い、生き物の刺繍は入っていなかった。
髪の毛は黒く、平均的な男子の身長で細身の体格は、顔を隠している分、性別や年齢の判断がつかない。わかっているのは、この階段も梯子も無い高い建物の上へ、簡単に昇ってしまえる技術があることだけ。
仮面の人物は、ただ黙って、オークション会場を見つめていた。
正面の広場に、鎧を着た人々が集まっている。
恐らくは、騎士団が騒ぎを聞きつけて集まって来たのだろう。
「騎士団が介入したか……今回は、ここまでのようだな」
仮面の奥からくぐもった、男性の声が聞こえる。
低く、感情の押さえた声色故に、判断はし辛いのだが、若者と呼んで差支えの無い年齢の男性だろう。
仮面の男は興味を失ったかのように、身を翻し、建物の反対側に歩いて行く。
「……茶番だ」
無感情に呟き、無造作に、建物の反対側から飛び降りた。
その瞬間、一際強い風が吹き抜ける。
ただそれだけで、人が落ちる物音も何も、聞こえてはこなかった。
まるで、先ほどの光景が幻であったかのように。
仮面の男は本当に、あの場に存在したのか否か。答えられる人間は、存在しない。




