第五十二話 人と人の溝を埋めるのは可愛さしかない
子龍…もとい、イリアス(マリーがいつの間にか名付けていた)が仲間に加わってから数日。
俺たちの野営には、奇妙な光景が日常となりつつあった。
「キリヤ! イリアスにお前の安酒を飲ませるな!」
「ちげーよ! こいつが勝手に舐めたんだ!」
「フローレン! 槍の穂先を向けるな、怖がってるだろ!」
「すまん…獲物を見ると、つい…」
イリアスは好奇心の塊だった。
チェンマンの作る料理の匂いにつられて鍋に頭を突っ込みかけたり
ミーナが修理している道具をオモチャにしようとしたり。
そのたびにパーティは大騒ぎになったが、
不思議と誰も本気では怒らなかった。
むしろ、そのドタバタを楽しんでいる節すらある。
特に、イリアスは俺にべったりだった。
俺が歩けば足元に絡みつき、座れば膝の上で丸くなる。
その無条件の好意は、前世で誰からも必要とされなかった俺の心を、じんわりと温めてくれた。
その日も、俺は焚き火のそばでイリアスの小さな頭を撫でていた。
その時、少し離れた場所で一人、黙々と剣の手入れをしている水月の姿が目に入った。
彼女は早々に俺の防具を完成させてくれて
まだ仮だがパーティの野営で衣食住を共にするようになった
俺もまだ彼女とほとんど話せていない
闘技場で見せた圧倒的な強さと、時折見せる氷のような瞳
彼女自身から距離を取っている訳ではないが
突然増えた可愛いイリアスと怖いイメージの水月
誰も寄せ付けない壁があるように感じられた。
(…やっぱり、俺たちみたいな馴れ合いは嫌いなのかな)
そんなことを考えていると、膝の上のイリアスがむくりと顔を上げた。
そして、俺の膝から飛び降りると、トテトテと迷いのない足取りで、水月の方へと向かっていった
「お、おい、イリアス!」
俺が止める間もなく、イリアスは水月の足元にたどり着き、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた
皆の視線が、その一点に集中する
緊張が走った
彼女にとって、この子龍はただの「獲物」なのかもしれない
もし彼女がイリアスを拒絶したら…そう考えただけで、胸がざわついた
水月は剣の手入れを止め、無表情のまま足元のイリアスを見下ろした
その瞳に感情は読み取れない
イリアスは、そんな水月の視線などお構いなしに、彼女の袴の裾を前足でちょいちょいと突いた
そして、翼をぱたぱたさせながら、まるで「遊んで」とでも言うように、彼女の周りを飛び始めた
皆が固唾を飲んで見守る中、水月が動いた。
彼女はゆっくりと手を伸ばし…イリアスの小さな体を、ひょいと持ち上げた。
「あ…」
ブランが小さく声を漏らす
誰もが、水月がイリアスを投げ捨てるか、あるいは…と最悪の事態を想像した、その瞬間
イリアスは、水月の腕の中で嬉しそうに一声鳴くと、そのまま彼女の肩までよじ登り、ちょこんと座り込んだ
そして、信頼しきった様子で、その冷たいとさえ思える頬に、自分の顔をすり寄せた
ゴロゴロ…ゴロゴロ…
満足げな喉の音が、静かな野営地に響き渡る
水月は、肩の上で甘えるイリアスを、ただ黙って見つめていた
その横顔は、いつもと何も変わらない。無表情で、何を考えているのか分からない。
彼女の口元が、ほんのわずかに、本当にわずかに綻んでいたことを
「な、なんなのよ、この龍! あたしには全然懐かないくせに!」
沈黙を破ったのは、ブランの嫉妬に満ちた叫び声だった
彼女はズンズンと水月に詰め寄り、イリアスを指さす
「ちょっとあんた! 何か特別な餌でもあげたわけ!?」
「…何も」
「じゃあ何でよ! あたしだって、撫でようとしたのに!」
水月は、肩の上のイリアスをそっと撫でながら、静かに口を開いた
「…分からない。でも…」
彼女は一度言葉を切り、ブランの、そして俺たちの目をまっすぐに見つめた
「…こんなに楽しいのは、初めてかもしれない」
その言葉と共に、彼女はふっと笑った。
心の氷が少しだけ溶けたような、柔らかくて、どこか儚い笑顔だった
その瞬間、俺も、そしておそらくここにいる全員が、神楽水月という人間の、今まで誰も知らなかった一面に触れた気がした
彼女はただ強いだけじゃない
彼女の中にも、俺たちと同じように、温かい感情が眠っているのだと
水月の笑顔は、パーティの空気を一変させた
それまで彼女にどこか遠慮がちだったボリスやミジムも、恐る恐る「す、水月さんも一杯どうだ?」と酒を勧め、水月も静かに頷いてそれを受け取る
ルサーリカは、まるで自分の子供たちの成長を見守る母親のように、微笑ましげにその光景を眺めている
ブランはまだ少し不満そうに頬を膨らませているが
イリアスという小さな存在が水月をパーティに馴染ませてくれた
このまま、こんな温かい時間が続けばいい。誰もがそう思っていた
俺も、焚き火の暖かさと酒の心地よさに身を任せ、この平和な光景を目に焼き付けていた
ふと、隣に座るマリーに視線を移す
彼女もまた、水月とイリアスを微笑みながら見ている…ように見えた
だが、その瞳の奥は楽しんでいる者の光ではない
何かを分析し、そしてどこか懐かしんでいるような…複雑で、底の知れない光だった
(…気のせいか?)
俺が首を傾げた、その時だった
マリーは、俺の視線に気づくと、にっこりといつもの笑顔を向けた。
「博史くん、あの子のこと、気に入ったのねー」
「ああ。まあ、俺が飼うって言い出したらしいしな…」
「そうね。責任、取ってあげなきゃねー」
彼女はそう言うと、手に持っていた酒のグラスをゆっくりと回し、
揺れる液体を見つめながら、独り言のように呟いた
「…でも、不思議な子。
あの魔龍から生まれたにしては、邪気を全く感じられない」
「そうなのか? 俺にはさっぱり分からんが
マリーが名付けをしたらしいけどあの子は何かあるのか?」
「あの子はきっと…」
マリーはそこで言葉を止め、俺の目をじっと見つめた
その瞳は、もう笑ってはいなかった
「…長生きするわよ」
「は? なんだよ急に」
唐突な言葉に、俺は戸惑う
マリーは俺の反応を楽しむかのように、くすりと笑った
「だって、あの子は**『記憶をなくす』**もの。
忘れることは、時に何よりの強さになるのよ。
辛いことも、悲しいことも、全部忘れてしまえば…
魂はいつまでも若いままでいられるし、若作りすることもないわ…」
その言葉に、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた
記憶をなくす…? それは、まるで俺の『酒乱』スキルと同じじゃないか。
「マリー、お前、何を知って…」
俺が問い詰めようとした瞬間
マリーは「しーっ」と人差し指を自分の唇に当てた。
「マリリンは、何も知らないわ。ただの独り言よ」
彼女はそう言うと、再び水月たちの方へ視線を戻す。
その横顔は、もういつものお気楽なマザー(自称)に戻っていた。
だが、俺の心には、彼女が投げかけた言葉が棘のように突き刺さっていた
『イリアス』
マリーは、この子龍の正体について、何かを知っている
いや、それだけじゃない
彼女は、俺のスキルの本質すら見抜いているのかもしれない
俺は、隣で楽しそうに酒を飲むマリーの姿に、得体の知れない恐怖と、
そして抗いがたい興味を覚えた。
…まあ、どうせ明日には、この決意も酒と一緒に忘れてしまうのだろうが




