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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
五章 万里一空の章

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86/314

#10 一勝九十九敗、戦ならぼろ負け恋なら大勝ち

 



 永禄十二年(1569)五月十九日






 明けて翌朝、巳の刻隅中、朝四つの鐘が鳴る頃。


 名も知らぬ荘園の名主屋敷の居間で天彦は、扱いの非常に難しい名家葉室の姫と向き合っていた。

 彼是一刻は話し合っているだろうか。だが結論として一ミリも進展していなかった。条件の折り合いがつかないのだ。あと交渉時に欠かせない重要な設定も。


 さすがに相手のあること。無手で臨んでは無礼が過ぎる。しかもそのお相手はお武家さん。高を括って臨むとどえらい目に遭うことだって十分あり得た。

 信濃武士、辺鄙な土地柄だけあって頑固者が多いそうだが卑劣下劣な悪い話はまったく伝え訊かない。つまり筋さえ通せば話は通る。土地柄は侮れない。そんな持論もあって少なくとも天彦はそう考えていた。いずれにせよ武家相手、舐めることはけっしてできない。


 だがその設定が煮詰まらない。嘘でも家来の誰かの妻になるなど死んでも厭だと宣うのだ。こちらの椛姫様は。だがそれでは天彦の出る幕がない。

 では疾く逝ね。はいならば逝きます。あ、そらアカン。では辞めます。あ、うん。あ、はい。そんな会話の応酬にいい加減天彦もうんざりげんなりし始めている。姫はどうだろう。ひょっとすると愉しんでいるのやも。


 だが天彦はきらっていない。いやがっているだけで。もしきらっていれば即撤収なので話は早い。つまりノーガッツ・ノーグロリーそういうこと。頑張る人が嫌いではないのだ。この場合困りものだが。


 いずれにせよ会話は平行線を辿っていた。ならば割り切り捨て置けばいいのだが天彦、先ほどの理由とは別の理由でそこにもいまひとつ踏み切れない。目下洛中を震撼させてしまった罪滅ぼしのいい人キャンペーン中なのと、名家というワードが天彦に妙な欲目を出させてしまっていた。

 ひょっとして西園寺閥に取り込めば美味美味ちゃうん。という感じのふわっとした、けれど確と互いに利益のある妥当な策意が邪魔をして切り捨てる選択肢を最後まで取って置かせているのであった。


「ええ加減に折り合いをつけ。こっちは譲る気ぃはないさんなんやからそっちが折れな延々進まん」

「負けてください。この通りにおじゃります」

「椛姫、お前さんはお命の値ぇを値切るんか」

「いいえ滅相もあらしゃりません。単に報酬を値切りましただけにおじゃります」


 ああ言えばこうゆうっ!


 まるで鏡を見て会話をしているような手応えのなさに苛立って、天彦は思わず声を荒げてしまう。


「それが命のお値段やとゆうてるんやでっ!」


 だが椛姫も負けない。すんっと表情のトーンを二段ほど暗く落として真っ向応じる。


「公家町で参議は義に厚い御方と専らのお噂でした。それは間違いさんやと女房衆の会合の場でお話しなければならしゃりません。ほんに残念がっかりおよよさんにおじゃります」


 あ、はい。つっよ。つよつよやん。あかん負けそ。

 一応頑張ってみるけども……、キレるが早いか。卑怯やけど。


「ほな突き出されたいか。家の恥を上塗りするんやな。わかった。そうまで申すのなら突き出したる」

「やめてください死んでしまいます。女として」

「普通!」


 あまりに普通過ぎてちょっと笑けた。しかもクリティカルやし。


「それだけはお許しください、何卒どうか」

「ほなどうしたいんや」

「菊亭さんの御傍に。妾の望みはその一点。正室になどと申しませぬ。ただ御傍に侍るお許しが頂きたいだけにおじゃります」


 ずっとこれ。ずっとこの一点張りで会話は空転、振り出しに戻る。

 プロトコル的にアカンやろ、無理やろプロトコル的に。


「なんで拘るんや。自分では言いとうないが身共など掃いて捨てるほどおるお公家さんやで。しかもその他大勢に埋もれる男子おのこやし」

「そんなことはあらしゃりませぬ。参議菊亭さまは唯一無二の綺羅星にあらせられます。そして妾もその御傍で菊亭さまが放たれる輝きに負けぬお星さま。よって妾のお命。妾の好きに使いとう存じます」

「よってまではまあわかるとしよ。先がまったく理屈がわからん」

「感じてください、その清らかな御心で」

「ふーん。ほな言葉を返すようやけど、お前さんの人生がお前さんだけのものであるのと同じく、身共の人生とて身共だけのもと違うんか」

「はい。違います」

「違った! ははおもしろ。なんで?」

「参議は妾たち弱き女子の参議ですから」


 ふーん、へー、弱き女子ね。なるほど、なーるほど。……え。あれ、もしや。


「この会話、なんかむちゃんこ既視感あるんやが。ひょっとして」

「はい。ようやく思い出して下さいましたか。参議とはかつて三度ほど面識がございます。内一度はお言葉も頂戴いたしておじゃります。ぷいっ」

「あ、……それは、あれや、うん。あれやった」

「そんなん厭です。ちゃんと誠意を示して謝ってください。ぷいっ」

「……お雪ちゃん。どないしよ」


 雪之丞はやれやれ顔で立ち上がると、


「諸太夫、青侍も。一寸の間背を向けよ。はいそこの葉室家の侍女は退室してください。はい疾くと動く。急いで急いで」


 雪之丞の迅速見事な仕切りによって背を向けて円陣を組む菊亭サークルができあがった。まあ謝罪用の建前シフトである。

 天彦が立場を忘れてよく謝ってしまうためにできた菊亭家来衆自発的に出来上がった苦肉の策。この中で起こったことは口外されない仕様となっている。猶こちらのレギュレーション違反は建前ではなく実質的に物理的な制裁が加えられる。


「すまなんだ。この通り堪忍さんや」

「はい、いいえ。ですが覚えておられますでしょうか。妾との出逢いを」

「……重ねて堪忍さんなん。会話は記憶にあった。でも覚えてない」

「まあ! うふふ、でもよろしいですわ。こうして特別扱いして下すったのですもの」

「特別? まあうん、姫さんがそう思うならそれで」

「姫などと他人行儀な。何卒かつてのように椛とお呼び下さいませ」

「あ、うん。それで」

「初めてご尊顔を拝し奉ったのは、あれはまだ将軍様が義栄様で三好の天下さんやった頃のことです――」

「いやむっちゃ雰囲気だしてるとこ悪いけど、それって最近のことやからな」

「遠い昔におじゃります!」

「あ、そやったかも」

「もう。お話の腰を折らないでくださいませ」

「あ、はい」

「初めてご尊顔を拝し奉ったのは、あれはまだ将軍様が義栄様で三好の天下さんやった頃のことです――」


 椛姫はすんっと居住まいを正す。そしてこれは事実であると伝えたいからか訥々と、けれど過去を偲ぶのではなく現在進行形でいつしんでいる胸の裡を知ってもらいたいがためなのだろう。さっきにも増して熱い瞳で真っすぐに天彦を見つめて語り始めた。――待った。


「もう。なんにございましょう」

「このお話、長い?」

「はい。少々」

「ほな茶を呼ばれよかな。喉からからなん。椛姫は」

「ありがたくお呼ばれいたします」

「お雪ちゃん、ほな二つ」

「はい」




 ◇




「竜胆中将様のなんと逞しくもお勇ましいこと」

「まあ素敵」

「はぁうっとり」

「ですが亜将さまも負けておられません。御覧あそばせ。あの凛々しくもお美しいかんばせを」

「まあ素敵」

「はぁうっとり」


 きゃあ、中将さま! きゃあ亜将さま!


 公家町ではだいたい人気は三分していて、ここに土御門家の御曹司久脩が入ってくるくらいで概ね黄色い歓声を独占するメンツはこの二人に固定されていた。

 尤も庭田重通と西園寺実益とではかなり違う。見た目も年代も違う。あるいは嗜好性ならば同じなのかもしれないが、やはり違う真逆の二人。なのにそれでも二人の人気は拮抗していた。


 そんな女衆の中にあって名家葉室家のお姫様、椛は一人浮いていた。同年代の子女がわーきゃー姦しくしているのをしり目に、常に冷ややかにその光景を傍観していた。孤高になりやすい性格も手伝ってだが、単純にその二人に食指が動かないことと意中の人物が別であるから。

 彼女は自分の趣味が他と違っていることは承知している。なので明かせない。だから敢えて明かさない。もしその素晴らしさに気付かれでもしてライバルが増えても厄介だから。そんな危惧は無用だというのに本気でそう考えていた。


 さて、

 椛姫がその意中の人物と出逢ったのは洛中にさえ盗人や正体不明の不逞の輩が侵入してくるような三好の時代。今から遡ること三年前のことだった。

 公家が最も不遇だった時代。即ち朝廷の権威が最も失墜していた時代の話である。単純に純然と公家界が不況のどん底にあったとき。


 椛の葉室家も御多分に漏れず生活は楽ではなかった。だが父母存命の頃はまだ何とか凌げていた。

 そんな状況にあっても自尊心が強かった椛は、今は亡き父に家事手伝いをしなさいと言われてもあの手この手で手伝い仕事を避けていた。だがその父も亡くなり後を追うように母も亡くなり。跡目を兄が継いだときにはお家は大きく傾いていて危急存亡を告げていた。


 いよいよ本格的に葉室家にも家人用人が離れていくという他家でよく耳にする現象が散見されるようになっていた。

 兄は当主の顔で椛に言った。畑仕事か山仕事。いずれかの手伝いをしなさい。でないと食い扶持減らしに尼寺へ預けますよと。常なら如才ない兄が素っ気なく取り付く島もなく言ったのだった。


「では兄上、行って参ります」

「うむ。頼んだぞ」


 侍女を一人。椛は恥を忍んでお山に向かった。お山は初心者向けコース。つまり公家しか立ち寄れないようになっている東山某所。故に町人や侍に恥をさらすことはない。

 だが椛は用心に用心を重ねて相当こっそりかなり擬態してお山に向かった。

 そんなとき出逢ったのが意中の人。もうお察しであろうお馬鹿な二人組だったのである。


 そのお二人、始め椛は同じお公家だと気づかなかったくらいだった。それほど二人組の声のトーンは明るく、会話の中身もウィットに富んでいた。


「だから違うとゆーてるやろ。それ食うたら100%氏ぬっ」

「何でですのん。これむちゃんこ美味しそうですやん」

「出た!」

「何がですのん大声出して。猪出たかと思てびっくりしますやろ」

「ビックリするんはこっちやの。あのなお雪ちゃん。お願いやからディティールには拘って。居らんのよ、キノコ狩りのキノコを雰囲気だけで狩るやつは」

「あ、馬鹿にして。でも闇鍋楽しみゆうてはりましたんは若とのさんのくせに」

「闇深すぎっ! 闇がちゃうやろ、ちゃうねん闇。ともかく居らんのよ。ね、わかって」

「居てますやんここにアホやな。あ、あれも美味しいそう。採ったろ」

「訊いてっ!」

「痛い。あ、暴力ふるわはった。そういう手ぇなら某も負けてませんけど」

「ギブ」


 といった風に。ウィットに富んでいるかはさて措き普通の公家ならそうはいかない。表情も声も感情を移すトーンまで雰囲気ひっくるめてすべて、ずっと明るく楽しげだった。

 他方これが公家ならこうはならない。公家の山仕事など陰鬱で陰気な影を纏っているとしたものだから。誰も彼も我が身の恥を忍んでいるのだ。我が身の不遇を嘆いているのだ。それも尤もなことであろう。ところがこのお二人ときたらどこ吹く風。ましてや身分差著しい主従ともなれば猶更の事。だから始め公家とは思えなかったのだ。


 何よりもそのルンルンとした明るさやウキウキと伝わる陽気さは当時の椛にはキラッキラに眩しかった。なんと明るいことか。なんと前向きなことか。気付けば椛はふらふらと赴きつい声をかけてしまっていたのである。


なれは誰ぞ。下男か町人か。ここはお公家のお山さんぞ」

「うわっびびった、突然現れたらビビるやろ。……だれさん」

「妾が聞いた。直言を許し参らす、疾く申したも」

「あ、うん。おおきに。身共は菊亭天彦やけど」

「へ……うそ」

「む。いきなり失礼なやっちゃな」

「あのつかぬ事をお聞きしますが、菊亭さまとはもしやあの」

「あのがどのかは存じんけど、我が菊亭は今出川分家の菊亭やで」

「……! も、申し訳あらしゃりません。清華家の御曹司とは露知らず。ご無礼のほど平にご容赦くださいませ。この通りにあらしゃりますぅ」


 椛が大慌てで故実の礼をとろうとするとそれよりも早く腕を取られた。初めての男子との接触にどぎまぎしながらも固まってしまっていると、


「ええよ」


 なんとも素っ気ないが温かい言葉が返ってきたではないか。椛も思わず、


「へ、ええのん?」

「そうゆうたやん」

「あ」


 うふふ、あはは。


 二人して笑い合った。謎に従者が一番大声をだして笑っていたが、厭な気分にはならなかった。ちょっと邪魔だと思っただけで。

 椛はそれどころではなかったのだ。果たして笑ったなどいつ以来だったろう。ましてや声を出してなど。気付けば泣きながら笑っていた。とめどなく。むろんお二人には果てしなく困惑させてしまったけれど。


「これも縁さんや。用人さんも交えて四人で採ろ」

「ですけど妾……」

「なんや強そうやのにビビってもて」

「妾、強そう?」

「むちゃんこ強そうやで。ほんで可愛いさん」

「え、わ、妾、かわいいさん?」

「うん。誇ってええで。むしろ何で誇らへんのん」

「え! 誇ってええんですか」

「ええよ」

「……そんなん無理。できへんもん」

「なんや意気地の無い。ほな菊亭が請け負ったろ。……なにその小指」

「お約束の証です」

「なんの」

「美を誇ってもよいと今出川様が請け負っていただきました証におじゃります」

「菊亭やけど。まあええわ。ん? なんやえらい急にしゃんとして」

「気のせいです、はいお指ください」

「ええよ。ほい」


 指切りげんまん――。


 二人は確と契りを交わした。児戯に等しい契りでも椛にとっては神仏との誓約に等しい契りであったとかなかったとか。


「椛は自己評価低すぎやろ、やんな、お雪ちゃん」

「はい。お人形さんみたいに真っ白ですし。なんやお化けみたいや」

「あ゛」

「こら雪之丞! それはアカンと身共でもわかった。他所様とは分けよか」

「あ、ごめんなさい」

「うふふ。ええですよ。ではご一緒に」

「そないし」


 そうこうキノコ狩りをご一緒させて頂き相当気安く語り掛けて頂ける間柄となっていたので、椛はつい踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまっていた。

 貧乏公家の特に姫のウィークポイントがもろに出てしまった結果であろう。家にこもりがちなので人との接点があまりにも乏しく距離感や機微がわかっていないのだ。だがけっして悪意はないきっと。この頃は未だ無垢だったから。


「天彦さまはなぜ堂々となさっておいでなのでしょう。貧乏は御家の恥なのに」

「え、恥なん。うそ」

「いいえはい。大恥におじゃります」

「そっかぁ、まんじ知らんかったん」

「うふふ、御冗談ばかり」

「いやまぢやけど。生きることに必死なん、なにを恥じることがあるんや。人様のもんを奪い去る盗人大名の方がよっぽど恥やろ身共は思うが」


 すごっ。このお人は本心からそう仰せだ。だから椛も本心を言葉にした。


「すごいです」

「ん、そう? うん、そうやな。まあ身共は凄いわけやけど。ほら見てみお雪ちゃん。訊いたか。わかる人が見れば身共は凄いんやで」

「見るんか訊くんかどっちか一つにしてください」

「どっちもや」

「はいはい。このお人がアホなだけでしょ。どこぞの姫さん、若とのさんをあんまし調子乗らさんといてくれはりますか。図に乗るとめんどいんですよこのお人さん」

「おい。それはそっくりそのまま返すぞ。ほんでさすがにそれはアカンやろ。身共にもどこぞの姫さんにも」

「何でですのん、このくらい」

「アカンと思う、知らんけど」

「知らんならええでしょ」

「そやな。ほなええか」

「はい」


 わははははは――。


 ちゃうねん。ええわけない。従者コロス。


 は、さて措き、椛は感銘を覚えていた。あるいは世間ではこの感情を恋と呼ぶのかもしれないが、そう解釈されても可怪しくないほど椛のお相手を見つめる瞳はうっとりうるうる熱がこもって潤んでいたとかいないとか。


 いずれにしてもこの日このときこの瞬間、椛の生き方は定まった。

 生きるために必至なら何を恥じることがあろう。何度も何度も思考のゲシュタルト崩壊を起こしても猶、その言葉を何度もずっと反芻するように繰り返すのと同じくらいに、あるいはその熱量よりも激しく何倍も、いつかこの人の室になってみせると目標を掲げるのだった。


 最後の最後まで名を明かす機会は与えられなかったけれど。

 つまりそういうことだと気づかずに彼女の想いは堆く積もり積もっていったのだ。

 憐れといえば憐れだろう。報われない初恋が憐れだと仮定するのならば。




 ◇




「……なるほど。ちゃんと思てたとおりやった、ちゃんと。まあいずれにせよばっちし余裕で覚えていたわけやが」

「あらまあ嬉しい。妾、感激におじゃります」

「あ、うん」

「うふふ」


 菊亭ご家来衆はすでに天彦の方に向き直っている、その360度大パノラマが嘘をつくなと嘘を、と口ほどに物を言っていた。どっちもな。

 ご家来衆は確信した。この姫(女)、近づけるな危険やぞ、と。それほどに天彦のツボを心得ていた。条件的賞賛然り、不遇な幼少期邂逅アピ然り、感情共感アピ然り。

 この三つの要素が重なると何かにつけ異常異常と言われ続けた主君天彦はほぼほぼ警戒心を弱めてしまいアホになる。それは胡乱の塊である射干党が一族郎党で証明していた。ひとたび懐に入ってしまえば緩緩なのだ、このお人は。


 と、ご家来衆の意思が統一された上で。

 だからこそ側近が目を光らせ見張っていなければならないのだが……、


「よっしゃわかった。幼友達なら話は別や。椛、身共が守ったろ」

「条件は?」

「棚上げや」

「なん、と! 何たるご厚情、何たるご器量。妾は感服いたしました。誠にありがとうございます。返せるものはございません。ですのでこの身をお捧げいたします」

「要らんけど」

「またまた」

「要らんよ」

「へ。妾、ですのに?」

「何遍でもゆう。名家としての葉室さん。このお名前はむちゃんこ欲しい。けど身体は要らん。無理せんでええ。自分で申したとおり、椛は椛の人生を歩むがええさんや」

「美しいことを誇れと請け負ってくれたもんっ」

「で」

「あ、いえ、はい……」


 我らが主君の方が遥か頭上、何枚も上手であった。

 あの目で見られたら普通は無理。そんな冷え冷えとする目が現れていた。


 安堵と同時に次の瞬間には居間の気配も変わっていた。即ち居間に漂う感情ははっきりと二つ。それもそうかという皆の納得感情と。それもそうかという皆の僭越を恥じる反省感情との二つの感情に包まれていた。

 なにせこのお人さん、あの天下にその名を轟かせる恐怖の第六天魔王に参ったと言わしめた唯一のお人さんなのだからと。


「椛、納得やな」

「まさか。諦めません。たとえ百度袖になされようとも」

「……あ、うん」

「ですが困らせるのは本意にあらず。この場はお譲りいたします」

「うむ。では菊亭一門いざ参らん。高遠諏訪さんの居城、伊那高遠城へ」


 応――!


 天彦の下知に家中の心がひとつになった。天彦がそうと決めれば菊亭が敗北したことは一度たりともありはしない。その実績が裏付けとなっていた。そして幼き諸太夫の自信となり若き青侍の血潮となって、武官文官にかかわらず誰も彼もの熱き思いに火をともす。


 まさに意気盛ん。猛者揃いむしろ望むところなり。青侍の誰かが吠えるとまた別の誰かが叫んだ。次第に鼓膜が張り裂けんばかりの雄たけびとなって居間全体を震わせた。

 こうなった菊亭家中は最強である。強兵甲斐武者待ち受ける敵陣に向かうとあっても恐れをなす家来は誰ひとりとしていなかった。


「若とのさん、やっぱし危ないんと違いますやろか。お相手お侍やし。あいつらアホですやろ」

「お雪ちゃんさあ」

「なんですのんそのお顔。なんか知らんむちゃんこ不愉快やわぁ」

「あ、まあええわ。ほなお留守番しとき」

「え、厭ですけど。こんな見ず知らずのとこで」

「どないするん」

「ほな最後尾見張っときます」

「そうしい」

「はい」


 但し異次元の住民お一人さんを除いては。


 雪之丞が暗に明に大ブーイングを食らっている中、そんな雪之丞を愛している天彦はお構いなし。自分の仕事に集中していた。

 ふむ、よし。一人勝手に期日を決めると先触れに持たせる書状とは別に一通、悪巧みこそ我が本領といわんばかりのいい顔(悪い顔)で念入りに筆を走らせるのであった。













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