#09 そこには怒りも義憤も哀しみもなく
永禄十二年(1569)四月十一日
術後十日。遅いめの朝食を済ませた昼四つの鐘がなる頃。清々しい風が吹き込む表に目を向ければ感情を逆撫でするほど忌々しい快晴が広がっていた。
「茶を」
「どうぞ」
ずずず、茶は茶。感情がどうあれ美味かった。
この肉体の持つポテンシャルなのかあるいは忌わしき血筋のしぶとさか、それとも単なる最先端医療の恩恵なのかは定かではないが、まだ無理な運動は差し障るとしてもぼちぼち身体が言うことを利くようになってきた今日この頃、回復基調に乗っているといってもよいのではないだろうか。
天彦はかさぶたで覆われているのだろう痒くて仕方がない二つの刺し傷に貼られた大判の、白ガーゼで必要以上に念入りにふさがれた傷痕を撫でながらそんなことを思ったり思わなかったり。
「傷跡の二連星。かっちょええさん」
怖くて直接確認できていない傷跡はあくまで想像の産物だがおそらくきっとカッコいいはず。そうでなくては割にあわない。お命頂戴に見合う割か。ないやろそんなん。
ふと我に返って出てしまう本音はさて措いて、いつの時代も傷は男子の勲章だった。それは暴力での解決を根底から否定する天彦とて例外なく。それとは別に家来からの評判はよく特に青侍衆からの評判は上々だった。彼らにとっての正面傷は勲章と同等の価値があった。だから天彦は二度言った。
「きっとカッコええんやろなぁ、知らんけど」
二度も言った。なのに天彦の顔はニマニマしない。なのに浮かないと言った風に終始仏頂面で固定化されたまま先ほどから微動だにしていない。
もっと言うと天彦から吐きだされたその言葉に嬉し味はまるでなく、ただ事実が言語化されたという空々しさだけが顕在化されるだけ。つまり何とも思っていない。傷もこの現状も。
それもそのはず。
こうして傷口を撫でているといつもならたちまち叱責が飛んできたはずの声がしない。小気味いい切り口のお小言と共に浴びせられる叱責がない。
ついでに必ずセットとなるあの凛として耳に心地のよい美声が聞けない。よもや厭で仕方なかったあの小言を恋しがる日が訪れようとは。ギャグなのかギャグなのだろう。ギャグだとして完全にすべっているけれど。
居ない者を求めても仕方がない。天彦は定まらない視線で表を眺め現実を直視する。すると思うのはこの一点。本来は役目を引き継いだ家来の務めのはずではないだろうかと。
だがそれをする者はいない。新たな側用人はたとえ心で思っていたとしてもけっして言葉にするような人物ではなかった。彼だけに限らず天彦の周囲に煩方がいないのだ。
天彦が意図的に排除したわけではない。勝手にこうなっていた。おそらくこれも前の家令の置き土産なのだろう。知らんけど。
いずれにせよ五月蠅くないのだ。自分の周りがまったくと言っていいほど。本来なら歓迎すべき状態にもかかわらず、だが嬉し味はあまりない。あるいはこれっぽちも。
天彦は浮かないよりもっと浮かない顔で自室二階の窓から、虫干しされるお布団の気分で道行く人を漫然と眺める。あの太陽に干されたお布団に染み付いたお陽様の匂いが虫の死骸臭だと言い始めたヤツ氏ねばいいのに。身共なら極刑を以って遇するのに。そんな他愛ないことを薄ぼんやりと思いながら。
「失礼いたします」
するとそこに一人の学者のような雰囲気の男性が入ってくる。
何者かはよくわからないが主上ではなくデウスを主と仰ぐ外国語にかぶれた売国奴、と天彦が勝手にそう呼んでいる男がぺこり。お辞儀をすると正座に改まり口上を述べ始めた。
「では参議菊亭卿、メネゼス医師団これにてお暇させていただきます。と申しております」
「おおきにさんにおじゃります。此度のお世話さんこちらから改めてお礼には伺いますよって、先だって菊亭の感謝をお伝え願えますと嬉しいさんにあらしゃります」
「はい。必ずやお伝えいたします。参議さま、例の件はご検討願えましたでしょうか」
「それはようよう考えてあらしゃります。菊亭、恩を忘れたことなどあらしゃりません」
「それは重畳でございます。では御前失礼いたします」
天彦が恩を忘れたことはない。返さないことはよくあっても。
派遣されていたポルトガル医師団の撤収報告を持ってきて代弁した何某は切支丹だった。最後に十字を切ったから。切らずともまあそうだろう。あちらの利益を代弁しているのだ。当然の推測である。
本来なら命の恩人。どれだけ手厚く遇しても可怪しくはない相手の代弁者である。もっと正しい応接があっただろう。だが天彦に端からその気はなかった。むしろ内心では余計なことを。悪し様に罵っている始末。すべてはたった一つの感情が起因して。
またその反面、内心で売国奴などと不穏なあだ名で呼んでおきながらその実さほど関心は持っていない。そもそも論ぶっちゃけると誰様が何様を主と仰ごうが罵ろうが天彦には関心も関係もないことなのである。
だが公卿なので建前は踏む。一家を背負う家長なので作法には従う。帝への不忠を内心で咎め、表面上は儀礼に徹する。
それだけの感情で、お互いにあくまで立場上の体裁を整え義務的な口上を述べあって別れる。そこに善悪などあるはずもない。あれば可怪しい。それが大人。
よって挨拶を済ませれば丁重にお帰り頂くに限っていた。あちらさんがどれだけ言質を欲しまた100を超えたお近づきを猛烈に欲しているとしても。とっとと帰っていただくのだ。要するに彼方さんが念を押すように口にした例の件とはそういうことだったのだ。
何も可怪しなことはない。売国何某さんの感情はすこぶる正常、尤もである。菊亭は世に轟く切支丹擁護派。あるいは今や織田と双璧の擁護派急先鋒とさえ目されている良血家門。迫害されている側からすれば縁を結ぶに越したことはない最上位の存在であろう。特に一旦覆されたとはいえ朝廷が切支丹追放という意志をお示しになられている現状においては猶更絶対に欲しい鬼札。
切支丹あるいはそれら伴天連勢力と密な関係性を欲する勢力(主に商家や恩恵を授かる大名など)は参議の肩書の後ろ盾は喉から手が出るほど欲しいはず。
このように事実はどうあれ天下にその風聞で轟いてしまっている以上、もはや真実や事実に意味はあまりないという一つの真理を裏付けるように、菊亭の許には日々どころか時間単位で引きも切らず伴天連関係者のアポイントが爆増していた。
「表にお塩撒いといてくれるか」
「はい」
「特盛でな」
「はぁ」
◇
「先生方お帰りにならはりましたね。若とのさん、お加減いかがですか」
元服の儀を済ませ烏帽子を頂きすっかり凛々しくなったはずの、けれど実際は可愛さに磨きをかけただけの雪之丞が何食わぬ涼しい顔で言う。相当の勇気を振り絞ったはずなのに。
そんな第二次性徴に片足を踏み入れた雪之丞は元服後お稚児さんと同じ下げ髪スタイルを茶筅髷スタイルに変えていた。茶筅髷スタイルはいくつかあって中でも雪之丞のスタイルは未来の現代人なら十人中十人が認めるだろうポニーテールスタイルである。むろん頭髪を抜き上げての月代などけっして作らずに。作らせずに。
これは公家家中にはよくあることだが武家には非常に珍しい。理由は諸々あるのだが今は後、天彦の菊亭は問答無用で家中の文官の元服後スタイルとしてこの様式を指定していた。理由は必要ないだろう。雪之丞がブスになるなど神がお許しになられても天彦が許さないのである。けっして。
天彦はそんな雪之丞を見つめてしみじみ言う。
「帰ったな。おおきにもうどうもないさんやで」
「若とのさんは口を開けばそればっかし。言わはるから信用なりませんのんや」
「どっかで訊いたことある台詞や」
「……はい。なんやぽっかり淋しいですね」
「ふん」
天彦も雪之丞もラウラという固有名詞をまったく出さない。それが意図的であろうとなかろうと少なくとも目下の菊亭でその名を口にする者はいなかった。
ここ数日、天彦の周囲に人は寄り付いていなかった。この雪之丞でさえ遠慮して控えていたほど。天彦の勘気がむちゃくちゃだったから。
だが今日は今朝からやや趣が違っていた。天彦は雪之丞を追い払わず、どこか会話の続きを欲している風に見せている。
むろん当人はお雪ちゃんに慰められてもしんみりが増えるだけ。そうやのうても独りしんみりよりかはほんのちょっと和らぐ程度の僅かな差や。などと臆面もなく嘯くのだろうけど。
癒されていることは確実で、先ほどまで張り付けていた能面がかなり解れて多少は見れる顔になっている。
天彦は仮説を立証するように雪之丞を追い払わずに自分の腰かけている出窓部分の隣をぽんぽん叩いて手招きした。
雪之丞が躊躇わずおっちん。するとどういうことか。突然部屋に人影が差し込んだかと思うと次の瞬間にはあれよあれよと大群になった。
その中の一人、めっきり侍らしくなったチビ侍さんがデフォの真面目くさった顔で言う。月代おでこをぴっかぴかに光らせて。
「殿、某もお側よろしいでござるか」
「なんや佐吉めずらしい。もちろんや、ここにおいで」
と、
「参議、某も御傍に侍ってよろしいですか」
「なんや与六もっとめずらしい。もちろんさんや、どうぞこちらへ」
「殿! 某も何卒」
「レオンか。どないしたん畏まって。まあええけど、そこ座り」
「某も」
「なんや高虎。ごっついのんが。そっち座り暑苦しいから。で、しれっと割り込んでしれっと好位置に座ったはる是知は空気読もか」
「読みました結果にございます」
「さよか。まあえけど」
「拙者も座に加えていただきたくござる」
「だれ」
「某も何卒座に加えていただきたくござる何卒」
「だからだれっ」
ほんまお前さんらだれ、誰お前ら。
率直な問いに対する答えは苦笑いと愛想笑い。いやホンマ誰さん。知らん顔無数。
天彦が顔にそんな疑問符を張り付けている間にも気付けばわらわら。すると拙者も某もと気付けば寄ってくること寄ってくること。あっという間に周囲は山と人だかり。部屋は人で埋め尽くされ、静寂はまんまと失われてしまうのだった。
ひょっとして当家暇なん。ていうか顔ぶれほとんど知らんねんけど。ほんま誰なん、誰あんたさんら。
二条城普請は工期を大幅に短縮させて完工できた。えげつなく儲かってえげつなく持っていかれた。勤め先に。そんなことある。あったけど。
よって佐吉を筆頭に文官系諸太夫の大部分は暇となった。それはわかる。休暇の概念に乏しいので何かないかと口喧しいから天彦も内情は知っている。
また一方で、今や武家家臣団ばりに抱えることとなってしまっている武官青侍衆はとんでも大暇なので言及しない。もともとなので。言ってはいけない菊亭108の禁句のその一つである。
だがこれは別口。快気してから今日に至るまでこれほど家来がやって来たことはない。感情の機微に疎い天彦とてどこか遠ざけられていたことは承知していた。
この状況が意味するところは要するに雪之丞は菊亭家人の観測気球にされたのだろう。あるいは自ら買って出たのかもしれないがいずれにしても呼び水となったのである。大好きな若とのさんを励ましたいばっかりに。泣かへんよ。おおきにさん。
だがそれでもけっして近寄ってこようとしない一部の集団はいるのだが。
言わずと知れた金銀パールの目にもあざやかな射干党である。天彦は気まずさから視線を逸らした。
「ええお天気さんやなぁ」
「はい。ほんまに」
「こういう日は釣りでもしぃたいなぁ」
「若とのさんお魚さん触れませんやん。どないして針から外さはるん。厭ですよそのたんびに呼ばれるの、某は」
「見たみたいにゆう」
「十遍は見ましたけど」
「……ふーん。身共、そんな設定知らんねんけど」
「ほんなら覚えておいてくださいね」
「あ、うん」
会話が熟年夫婦ばりの阿吽的空々しさで空転するが天彦以外は気付いている。ただの気まずさ紛れであることを。
ではなぜ気まずいのか。ブチ切れてしまったから。天彦はらしくない激情を見える化させて当たり構わずキレ散らかした。
前の家令がした勝手に対してぶちギレたのだ。自分でもどういう感情だったのかいまだに謎の、文字どおりクソガキムーブで荒れ狂った。こんな感じで。
“うちの一門は統領たる身共の合意なく郎党の頭領替えできるんやね。あ、そう。ほならそうしよ。勝手するんやから勝手にしい。身共は知らん。ラウラの居らん射干党は出禁や。今後一切我が菊亭への出入り罷りならん。顔も見とうない”
大憤怒。大大激怒。それをモロにラウラの出奔を引き止めなかった射干党の郎党すべてにぶつけまくって三日ほど経つ。因みにこれを最後にラウラというワードが禁句ワードに指定された。
むろん誰もが本気だとは思っていない。あるいは本気であったとしても一時の感情的な暴言だと正しく認識してくれている。
だが射干党の特に郎党を率いる立場の幹部連中にとってはそれでは済まない由々しき事態。万一にもそれが真実実際となったと思うとこの世のお仕舞いなのである。
もはや射干党はかつての根無し草ではない。すでに京洛外西院に根を張る二千近い郎党を抱えるそれなりの家となっている。勢力と言ってもいいだろう家。
だがそれもこれも三つ紅葉紋あってのこと。万一権力に存在を咎められれば瞬く間に吹き飛ばされる脆弱な屋台骨。多くの仲間を失うとともにまたぞろ地方のドサ周りに転げ落ちる。口を揃えて言うだろう。あの生活は二度と御免だと。
だからこその必死、懸命。だからこそあの自由人イルダと更にもっと自由人コンスエラが率先して矢面に立ち天彦の感情の受け皿役に回ったのだ。今もああして萎れている。まったく持ち味を消してしまって無意味な風に。勿体ない。
一方の天彦はそれをいいことに甘えた。甘えまくった。だってラウラは自分からお姉ちゃんと言ったから。それに便乗してイルダとコンスエラも言ったから。
お姉ちゃんには甘えていいとしたものだから。お姉ちゃんがいてるから知らない土地でも夢中になって散策できるキリッ。妹である撫子が全力マンキンで兄である天彦にだだ甘えしてくるように。
但しキリッとしていないと耐えられない。あの緑がかった涼し気な碧眼が恋しすぎて。気を張っていないと辛さで心が張り裂けそう。
なんで傍にいてくれへんの。ずっと居るって言ったやんずっとってなんなん。ずっとの定義を示し合わせへんかった身共のせいなん。ふざけんなぼけなす。
この状況を一般的に何と呼ぶのか天彦は知らない。企業ならただの退職、ラウラは役員待遇だったので辞職か。だが菊亭は企業ではない。
ならば何なのか。絶対に言葉にしたくない一つの言葉が感情となって天彦の脳裏を過っては消える。
その言葉を受け入れたとき、そこには怒りも義憤も哀しみもなくただ痛烈な痛みを伴う無情の切なさだけが揺蕩っていた。
あんなもん裏切りもんや……。
そんなウソ偽りない感情もありつつ実際は自分でも感情が制御できていなかったのだ。荒れ狂う激情を持て余し、主に矢面にたってくれたイルダとコンスエラを対象として吐きだしつづけたというのが事の顛末、実際だろう。
いずれにしても天彦の愚痴は三日三晩吐き出された。言いやすかったあるいは心安かったのが災いした天彦にとって稀有な事例、という名の天彦あるあるではあるのだが。された側は正直しんどい。
だが不思議なものでトラブルこそ最上としたもの。信頼関係構築スキームに嵌っていたのか。最後まで天彦の感情を受け止め切ったイルダとコンスエラの天彦人事考課は爆上がりしていて、今やこれまでのマイナス含めた悪感情は拭い消しさられていた。
勝負に徹するのか美学を貫くのか、二択を迫られたような局面で二人は迷わず勝負に徹した。それは天彦の感性に限りなく近くとても嬉しい選択だった。さすイルさすコン感服した。表面上おふざけな彼女らも立派な頭領だったのだ。
彼女らが表面上おふざけが過ぎるように、天彦とて表面上はデレられない。勝手を許すことになるから。今や菊亭は宰相家、家格はぐんと跳ね上がり太政官の一席を占める朝廷の顔ともいうべき参議である。家内の引き締めは厳にせねば。
そんなお為ごかしで自分を偽り気まずさから今日も今日とて逃げ回っている春の空は、雲一つない大快晴。先ほどまでは忌々しかったあの空も今では少し心地よく感じる。ならば仲直りするには絶好のお天気さん、なのだろう。
と、思ったり思わなかったりしていると、
「若とのさん。どないしますの、あれ」
「あれなぁ」
雪之丞が改めて問う。周囲の“おおなんと気安く”といった尊敬100の熱い眼差しを一身に背負って。満更でもない風に。
「一の家来にして大の仲良しさんが参ったのになんですのん、その辛気臭いお顔さんは」
「そんな?」
「はい、そんなです」
「お雪ちゃんがゆーんやったら気ぃつけよ」
「そうしてください。でも若とのさん、某、元服したんですから雪之丞とお呼び下さる約束ですよ」
「ほなお雪ちゃんも若とのさんやのうて参議と呼び」
「引き分けですね」
「ほーん、身共ら勝負してたんや」
「当り前ですやん。ずっとしてます」
「あ、うん」
そういえばそんなことを言った気も、するかいっ!
天彦が景気づけにツッコミを入れようとするより早く、おお植田殿が殿相手に引き分けたぞ!
流石やとかなんとか。なぞのどよめきと感心する言葉がしきりに巻き起こって掻き消されてしまう。
「御家来衆、お雪ちゃんはすぐ図に乗る途轍も悪い癖があるからあんまし持ち上げんといて」
「はい。某からもお願いします」
え、誰。おまえさては偽物やな。
だが確かに雪之丞、元服の儀の前後ではやや大人びた感じはある。ちょっとした所作や言動に自覚が芽生えている感じが受け取れた。
しかも実質的な成長も覗えるのだ。口惜しすぎたので身長差の厳密性を問うてみれば問うて猛烈に後悔した差が生じていた。だから一応敬意は示している。ちゃんとお兄ちゃん弟と付けて呼んでいるのだ、心の中で。
「若とのさんもう一遍申しますけど、どないしますの、あれ」
再度まさかの雪之丞がキラーパスを出してくれる。嬉しっ乗っとこ。
だが菊亭は今や参議公卿家。菊亭の体裁は朝廷作法に準じるといって過言ではない家格となった。
武家ならばいざしらず菊亭は押しも押されもせぬ公家である。言い換えるなら人様の畏怖に代表される感情面だけで飯を食っているみたいなところがある。故に体裁は必要以上に必要だった。ゆーとりますけど。
ゆるく生きたい。緩く行きたい。命にかかわらないのなら。
この願望的フレーバーテキストは天彦の心中深くにがっちりと食い込んで離さず常に天彦の志向性を誘った。よって天彦、食い気味より前のめりで雪之丞パスに食らいつく。だいたいのことは身共が悪いそういうこと。の感情で、
「なあお雪ちゃんや。もし誰かさんが間に入ってくれはったらなぁ。優しいお人さん居たはらんやろかぁと思わっしゃらへんやろかぁ」
「そうですね。家中にそんな心優しいお方さんが居たはったらよろしいですね」
ですね、で雪之丞はある人物を直視した。そんなものは名指しと同じだが、すると、
「僭越なれど、お望みとあらば某が請け負いましょうか」
「おお関東管領大上杉家一の御家来さん殿。ほんにおよろしいので」
「はは、それだけ露骨に強請られたら拙者でなくとも自薦しようというもの。はっ、樋口与六。主君より仰せつかっているとおり菊亭卿への恩、積み重ねる所存にて、一向にかまいませぬ」
「おお! ……おう? なんや借りたくなくなる文言やね」
「あはは、一本奪取にござるな」
「あ! やられた。うん奪取されや。与六おおきにさん。いっつも借りてばっかしで面目次第もないさんやけど」
「何のこれしき。某が積極的に働きますと我が殿の覚え目出度くござる。これぞ両得。ご遠慮召されるな」
「ほえ与六はお利巧さんやねえ。ほな早速御頼みさん」
「では御免仕る」
樋口さんちの与六くんが引き受けてくれた。大助かり。こういった場合身内より部外者の顔の方が立てやすいとしたもの。天彦は大いに満足して与六を送り出すのだった。
因みに関東管領殿、目下武田軍との共同戦線にて関東制圧攻勢で小田原張り付きマン。反甲越同盟勢筆頭の北条勢とばちばちだった。
と、そこに一旦はけていた是知が神妙な顔つきで舞い戻り型どおり片膝をついて首を垂れた。
「失礼します。殿、先触れが参っております。ですがそれが妙でして」
「妙」
「はい。……お人払いはよろしいのでしょうか」
「かまへんよ」
「では申し上げまする。イエズス会・日本布教区京都支部から参ったと申しておりまする伴天連が、こちらから依頼があったと宣うておりまする。ですが某の預かり知るところでは伴天連の謁見申し入れはすべて謝絶の由。如何したものかとこうしてご裁可を仰ぎましてござる」
「イエズス会京都支部……、なんやろ。ぜんぜんわからん」
天彦も周囲同様の疑問符を脳裏に浮かべけっして短くない考慮に入った。
京都と言えばルイス・フロイス。だがコンマ1の可能性も残さずけんもほろろに再三に亘る申し入れを断り続けている。申し入れならまだしもあり得ない。
ならば別口。京都支部ではなく日本支部ならどうだろうか。たしかこの頃ならイエズス会日本布教区の布教長はコスメ・デ・トーレスだったはず。
「ふ、くふふ」
ややあって見方によっては怖気のするくらい凄惨な笑みを浮かべて、これでもかと冷ややかに嗤う何か得体のしれない者の姿がそこにあった。
それの影絵を作ればその造形はきっと中指と薬指を親指で結んだ二等辺三角形で、そして人差し指と小指をピンと立てた形になっているのだろう実に禍々しい気配を霧散させて嗤っている。
そして周囲のドン引きを置き去りにして最近めっきり聞かなくなった張りのある声で凛然と告げる。
「さよか。ほな会お。身共の怒りを思い知らしたろぉさんや」
「はっ」
「明日の正午。ここで会お。雁首揃えて参れと申せ」
「はっ確と託ってござる。では疾く参りまする。これにて御免」
是知は視線を下げて即応した。本来なら加点の意味で二言三言賢しい言葉を残すのに。それだけ天彦の雰囲気が違うレイヤーにあったのだ。
他方是知の背を見送る天彦に向けられる視線は寒暖敬怖様々で。だが共通しているのは、家来の誰もが短い間の退屈なひと時の終りを確信したのだろう。誰もが表情を律し毅然とする。まるで新たな波乱へと向かう心構えを早くも今から内に秘めているかのように。




