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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
壱章 百折不撓の章

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#19 鳳雛、ちゃんとキレる





 



 永禄十一年(1568)十月二十六日(旧暦)今出川殿奥



 



今出川殿。


 対面所といわれる応接間。その西向き横から伸びた奥向き廊下(渡り廊下)を進めばそこから先はすべて男子禁制の奥(女性専用居住スペース)である。

 奥向き廊下を渡ってすぐは畳み六十八畳敷の大広間、即ち正室の間、菊御料人の私室である。

 しかし童でさえ踏み入ることが許されていない奥の、家族でさえ入室を憚られる正室の間にずけずけと土足で踏み入る侍の姿があった。


 大勢の血気盛んな侍衆を引き連れるのは眉目秀麗なお公家様、西園寺近衛中将実益であった。

 実益はすっかり顔色を失ってしまったこの部屋の主に言う。


「ほら見てみい。居ったやないか」

「妾は存じませぬ」

「しらこいこっちゃな」

「知らんもんは知らんのや」

「さよか。どうでもええわ」


 目は口、いや膝は口より物を言った。菊御料人の膝は激しく震えていた。

 一方、実益の方も震えていた。怒りや悲しみといった複数の負の感情を双眸に滲ませて。


 実益は怒りのぶつけどころを定めた。殺気立つ侍衆を目配せで更に煽り、まだ不足とばかり警戒を促した。そしてこれ以上ないほど最上級に気張らせると、家探ししてようやく発見できたお目当ての人物にそっと優しく手を差し伸べた。


「子龍。吾や」

「さ、ね……」


 常なら凛々しくもやや険しい双眸に不意に差し込まれた柔和な笑み。

 もうそれだけで宮廷女房の黄色い歓声が幻聴しそうな仕草だが、手を差し伸べられ笑顔を向けられた人物の相貌には微塵も笑みは浮かんでいない。

 それどころか双眸の色味はくすんで濁り、ともするとこの世の怨嗟を瞳に宿しているような錯覚さえ思わせる。


「子龍。よう頑張った」

「さね、……ますぅ」

「喋らんでええ。もうええんや。全部済んだ。みーんな終わった」

「お、……おゆ、き」

「ゆっくり休み」

「お、ゆき、は」

「休め」

「むり、や」

「無理でもや。ゆっくり休むんや。な、頼む、子龍、我が子龍よ。いっぺんくらい吾のゆうこと聞いてくれ。お願いや、天彦」

「そ、んな……」


 実益はいやいやをする天彦を強引に抑え込み抱きかかえた。

 そして嗚咽を押し堪えながら、不細工が輪をかけて不細工なこっちゃ。声にならない声を張った。


 その裏腹で切実な思いが大広間に鳴り響く。

 家来を思い慟哭する主君。この場にいる者ならその崇高な思いに何かを感じないはずはない。


 だが、


「知らん知らん。なんやこれは。妾はまったく知らんでおじゃる」


 一人、まったく感化されない人物がいた。


 実益は一瞥すると天彦に視線を戻す。

 気丈に振舞っていた天彦だったが、遂に力尽きたのか。全身を弛緩させると実益に身を委ねて意識を手放した。

 実益は首を上下に振るだけで言葉にはせず、天彦の顔をそっと抱き寄せ受けとめた。立派な衣装が血に塗れて汚れてしまうことも厭わずに。


 実益は、全身を血に塗れさせ負ったばかりの打撲痕が痛々しくも生々しい天彦をじっと見つめて、


「土井、医師に見せたって」

「はっ」

「大丈夫やな」

「必ずや」

「頼むで」

「お任せあれ」


 天彦が実益の手を離れ丁重に運ばれていく。


「亜将、参られました。如何なさいますか」

「通したり」

「はっ」


 そのタイミングでようやく屋敷の主が姿を見せた。

 我が家でありながらまるで敵地に踏み込んだかのようなアウェー感に圧倒された天彦パッパは、これは何事かと家令に目で問う。

 家令堀川有具はすかさず何事かを耳打ちする。すると天彦ぱっぱはハッと息を飲んで数舜考え込むような表情を浮かべた。

 だがそれも束の間即座に態度を改め、最上位の礼を示して実益に向かった。

 位・職ともに格上である屋敷の主人だが、自ら進んで下位者の立場を表明したのであった。


「これはご丁寧に。お早いご登場やな、大納言さん」

「亜将、これは如何なる仕儀におじゃりますのや」


 実益は天彦ぱっぱ大納言晴季を見咎める。

 その冷ややかな視線はさながら寒風吹き荒ぶ真冬の荒野を想起させた。


「如何なるやと。はは、大納言さん、一つはっきりとさせとこか」

「何なりと」

「お宅は当家の敵か味方か。いやあんたさんは吾の敵か味方か」


 途端、空気が張り詰めた。何か一つの切っ掛けですぐにも張り裂けんばかりの張り詰めようだ。

 実益の侍衆は天彦ぱっぱに胡乱を隠す気配も見せず、堂々得物に手を添え厳戒態勢を顕在化させた。


「おお怖い。亜将はちょっと気が短いでおじゃりますなぁ」

「そや。戦国を生き抜く公家やさかいな。それがどないした」

「そう急かんと。物事は二つに一つとは限らへんで」

「二つに一つ、限るんや」

「そんな聞き分けのない駄々っ子みたいに、亜将らしいないでおじゃるな」

「吾らしいとは何ぞ。大納言さん、教えてや」

「……意地悪なこっちゃ。言葉の綾でおじゃる」


 嫌がらせをさせたら実益の右に出る者は滅多といない。を実証した。


「意地悪はお互いさんや。大納言さん、そう悩むことでもあらへんやろ」

「亜将、もっと視野を広うにもって、心穏やかに務めるでおじゃる」

「そうすればあんたさんのようになれるんやな。そらええこっちゃ」

「うむ、そうでおじゃる」

「言いたないんかい」

「空気読むん得意なんやろ。宗家の御曹司、いい加減にして空気読んだりや」


 まさしく空気が凍った。


「舐め腐りおって、吾は清華家筆頭西園寺嫡子、従三位近衛中将実益なるぞ」


 実益の侍衆が一斉に鯉口を切った音が大広間に響く。裏を返せば舌戦の敗北を意味する口上である。

 だが威嚇ではない。発言次第では畳が真っ赤に染まるだろう。誰もがそれを確信する息苦しいほどの殺気が部屋中に充満していた。


 天彦ぱっぱは直ちに威儀を正しその場に膝を屈して折れた。


「ははっ、この通り、宗家の意に従うでおじゃりまする」

「そんな当然のことは訊いてへん。敵か味方か二つに一つやっ」


 実益は容赦なく迫った。おどれだけは逃がすかボケ。

 その鬼気迫る怒気は、宮廷を軽やかに渡り歩く寝業師天彦ぱっぱをして、怯ませるに十分な迫力だった。


「御味方でおじゃりまする」

「さよか」


 それだけ言うと実益は薄く笑った。まるで血に飢えた狼のような眼をして。


「おいくそったれ、あんた天彦が邪魔なんか」

「くそっ……、とはさすがに無礼でおじゃろう」

「ほならなんや。小便垂れか」

「随分と粗いことで。そやけどアレも悦んでおじゃりますやろ。実益さんにそこまで可愛がられたら」

「下衆の勘繰りはやめい」


 なんやっ、なんやとっ、無礼千万。


 実益本人より実益の家来衆が殺気立った。


「死にたいんか、大納言」

「失言を認めるでおじゃる」


 一応の謝意に実益は応じる。


「まあええわ。そんなことより、今出川に要らんのなら西園寺で引き取るわ。それで手打ちとしたろか、どや」

「いくら何でもそんな勝手な。長子の移籍は御扱案件でおじゃります」

「さよか。……そやな。つまり天彦の身柄は主上さんの一存や。言い換えるなら朝廷でも詮議せなあかんほど、それほどの大事なんや。臣たる我ら、大事にせな道理が通らんな」

「屁理屈を仰せになっても困るでおじゃる。と、臣ならば皆思いまする」

「理屈や。と、宗家嫡子はゆうた」


 睨み合うこと数舜。


「誠に。同感でおじゃります」


 圧倒的大差で天彦ぱっぱは折れてまがった。

 白々しいことこの上ないが和解は成立。だがさすがに言質は取らせないか。

 それでも収穫がゼロではない。恒常的とは言い難いが当面の安全は担保されたはず。


 実益はこれが最善の落としどころと信じて、


「ほな往ぬわ。邪魔したな」

「ようお越しくださったでおじゃる」


 塩撒いとき。盛大に。有りっ丈撒いとき。


 そんな声を背中越しに実益は正室の間を出ていった。そして、くそじじい。いつか覚えとれよ。


 悪し様な言葉を胸に秘めて今出川殿を後にした。
















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