第76話 クルージング
「夜まで時間がありますので、クルージングに参りましょう」
「了解」
鈴菜が立ち上がるのに合わせて、俺も縁側から腰を上げた。
今回の旅行は鈴菜からのお誘いなので、スケジュールはお任せにしている。
離れの玄関に横付けされた車に乗って、黒塗りの高級車4台での移動となった。
その際、俺の護衛の数を見た鈴菜が尋ねる。
「悠さん、護衛の人が増えました?」
「IQテストの結果で、護衛が増えたんだ」
ドラマ撮影していた頃の護衛は、日中に4人、夜間は2人ずつで2交代だった。
その後にIQテストを行い、黄川への挨拶に行った後、増員された。
増員分の費用は、黄川が出している。梨穗に遺伝子提供を約束したので、黄川が護衛を増やすのは自然かもしれない。
現段階で何人体制なのかは、俺も知らない。
だがマンションの隣室だけではなく、その隣からも護衛の人間が出てきたので、それなりには増えていると思う。
「それは増やさざるを得ませんわね」
鈴菜は、至極当然だと言わんばかりに頷いた。
「IQ160の3万人に1人って、女性にはそれなりに居るけどな」
「男性に居ることが、重要なのですわ。誘拐の可能性だってありますわよ」
前世の感覚で若干受け入れがたい俺に対して、鈴菜が言葉を重ねた。
「男女比が1対1で生まれた時代の遺伝子があるし、他国は狙わないと思うけど」
30年前には、男女比が1対1の頃に生まれた50代の男性が、沢山居た。
日本の場合は1学年につき100万人の男性が居たので、3万人に1人くらいの男性の遺伝子であれば、充分に確保できたはずだ。
日本よりも人口が多い国であれば、それなりに獲得できていると思う。
他国民と自国民の遺伝子であれば、自分の子供には自国民の遺伝子を選ぶのではないだろうか。
願望は、やや混ざっていると自覚する。
――横流しは、あるかなぁ。
国の献精システムの管理体制が、いまいちよく分からない。
預けた国の担当者が横流しすることも、有り得ないとは言えない。
その場合、逆に献精する限り俺は安全だが。
「国民も人工授精の機会を提供されている。相手が誰かは公開されていないから、宝くじみたいなものだけど、宝くじに当たらないから銀行を襲うという人は、あまり居ないはずだ……」
「ガチ恋勢、居ますわよ」
「それは、マンションのセキュリティとか警備が通用するだろう。もちろん自分から、渋谷のスクランブル交差点を歩いたりはしないけど」
ツチノコが渋谷のスクランブル交差点を歩いた場合、通行人は一斉に、スマホを向けて撮影を始めるだろう。
より積極的な人々は、堂々と群がってくるかもしれない。
すると包囲されたツチノコは、護衛が居ても、その場で動けなくなる。
交差点の信号が変わっても、密集状態は解消せず、道路は大渋滞を引き起こす。
多分俺は、渋谷警察署で怒られることになるだろう。
何も悪いことはしていないのに、解せない。
そんなことを考えている間に、車は熱海の街並みを抜けて、海沿いに入った。
温泉街の旅館やホテルが建ち並ぶ坂道を下りながら、相模湾の青い海面が車窓に広がっていく。
夏の強い日差しが海を照らし、キラキラと光る波が美しかった。
「今日は天気が良くて、花火日よりですわね」
「そうだな。雲もほとんどない」
空には薄い雲がわずかに浮かんでいるだけで、青空が広がっている。
やがて車は小さな港の係留所に到着した。
海の匂いと潮の香りが強くなり、カモメの鳴き声が聞こえてくる。
係留所には同規模の船がズラリと並んでおり、平日にもかかわらず、幾人かのオーナーが出入りしている様子も窺えた。
「あちらです」
鈴菜が指差したのは、白い船体に青いラインが入った大きなクルーザーだった。
全長15メートル、全幅6メートルほどで、幅の広さが特徴的だった。
「船の幅を広くすることで、船室が広くなるタイプだよな」
「はい、カタマラン船型(双胴船)ですわ」
船として航海するには適さないが、バカンスでは大活躍するタイプだ。
全長48フィート級でありながら、全長60フィート級の船室の広さになる。
船の係留料金は、全長で決まるところもある。
そのため48フィートは、かなりお得だ。
例えば48フィートなら年間130万円が、60フィートでは年間330万円に跳ね上がる。
青島家の場合、維持費だけを基準にはしていないかもしれないが。
「最大船速は、20ノットですわ」
カタマラン船型と聞いた俺の表情を読んだのか、鈴菜が補足した。
「意外に速いんだな」
「去年発売されたばかりの新しい国産船ですわ」
「へぇ、国産で良いのがあるんだな」
感心しながら船に近付くと、船長らしき女性に迎えられた。
「鈴菜お嬢様、お待ちしておりました」
「よろしくお願いしますわね」
乗り込んだ船は、建物であれば2階建ての構造だった。
1階には、オーナールーム1室とゲストルーム2室があり、2台ずつのベッド、化粧室、シャワールームを備えている。
2階には、キッチンやダイニングがある。
設備は、冷熱混合栓、引き出し式蛇口、電子オーブンレンジ、3口電磁コンロ、人工大理石の流し台、冷蔵庫178L、冷凍庫42L。
燃料タンク1200L、清水タンク600L、温水器60L。
船には、燃料が尽きない限り宿泊できる環境が整っていた。
――お値段は、2億円くらいかな。
青島グループなら、社員への福利厚生用として、会社で買えるかもしれない。
俺も自費で欲しいくらいだ。
「出港して下さいな」
「かしこまりました。それでは沖に出ます」
船長がツインエンジンを始動させると、俺達を乗せたクルーザーは、係留所からゆっくりと離れていった。
目的地は、相模湾である。
俺と鈴菜は船の前方デッキに立ち、熱海の街並みが徐々に小さくなっていくのを眺めた。
港を離れるにつれて、温泉街の建物群が山の斜面に広がっているのが見える。
赤い屋根の旅館、白い外壁のホテル、緑の中に点在する別荘群。
夏の午後の光に照らされた熱海の全景が、まるで絵葉書のように美しかった。
「ああ、のどかだ」
港を離れると、船速が上がった。
船体が波を切り裂って進み、海面には白い航跡が伸びていく。
海風が、心地よく頬を撫でていった。
初島がだんだん大きく見えてきたが、そこは目的地ではない。
注目を浴びすぎた今の俺は、隠れ潜むツチノコだ。
人が居ない場所で、のんびりすべきである。
「沖に出たら、ゆっくりできますわよ」
鈴菜は、俺にとって最適解のバカンスを提供してくれている。
やがて船は、熱海の海岸線から十分に離れた沖合に到着した。
エンジンの音が静かになり、船はゆっくりと停止する。
「ここなら、のんびり過ごせますわね」
「はぁ、助かる」
俺は船上で身体を伸ばして、深呼吸した。
相模湾の青い海が広がり、遠くには伊豆半島の山々が霞んで見える。
波は穏やかで、船体がゆるやかに揺れるだけだった。
海風が頬を撫でて、潮の香りが心地よく鼻をくすぐる。
「釣り具もありますわよ」
鈴菜が、船に用意されていた釣り竿を持ってきた。
「それは優雅だ」
船が青島家所有なのか、グループ所有で従業員の福利厚生なのかは知らないが、いずれにせよレクレーションの道具があっても不思議ではない。
俺は釣り竿を受け取り、リールの具合を確かめた。
「釣りをされたことはありますか?」
「小学生の時に、少しだけ川釣りをしたな」
数千円の釣り竿と、家から自転車で行ける距離にある川でチャレンジした。
釣果は、フナくらいだった。
「悠さん、何でもやっていますのね」
「生憎と釣りは、そこまで成功体験は無いかな」
鈴菜も釣り竿を手に取って、ルアーを選んで取り付けている。
手慣れた様子で、何度か経験していることが窺えた。
鈴菜のほうが、俺よりも上手いかもしれない。
準備をした後、二人で同時にルアーを投げ込んだ。
「いい感じに飛びましたわね」
「そうだな。かなり前の経験なのに、意外にできた」
ルアーが弧を描いて着水し、小さな波紋が広がった。
海中に沈んでいった後、リールを巻きながら、海中でルアーを泳がせていく。
時々、竿先を引いて、魚を誘う動作を繰り返した。
「このあたりは、どんな魚が釣れるんだ?」
「アジ、イワシ、サバがよく釣れますわ。運が良ければ、金目鯛やマダイ、ヒラマサなどでしょうか」
「へぇ、なるほど」
かなり詳しい鈴菜は、何度か釣りに来たことがあるようだった。
しばらくすると、鈴菜の竿が曲がる。
「あら、来ましたわ」
「おおっ、早いじゃないか」
鈴菜は慌てることなく、ゆっくりとリールを巻いていく。
やがて海面に、銀色に光る魚体が現れた。
「サバでしょうか」
「多分そうだろう。結構大きいんじゃないか」
なかなか食べ応えのありそうなサバが、午後の陽光を浴びて輝いた。
俺は網を伸ばして、魚を掬い上げた。
「写真を撮ったら、逃がしますけれど」
「まあ旅行中だからなぁ」
旅館に持ち込めば捌いてくれるかもしれないが、手間を掛けるのは申し訳ない。
甲板に置いたサバの傍に、鈴菜がしゃがみ込んだところをスマホで撮影して、サバはリリースした。
「最初からいい釣果だったな」
「ええ、幸先がいいですわ」
鈴菜の釣果を撮影した後、釣りを再開する。
魚群の下にでも来ているのか、俺のほうにも魚が掛かった。
「おっ、来たな」
「悠さんにも来ましたわね。どうですか?」
竿のしなり具合から見て、程々の魚のようだ。
「鈴菜ほどではないかもな」
「油断は禁物ですわよ」
リールを巻いていくと、鈴菜と同じくサバが上がってきた。
サバが群れているのか、あるいはルアーがサバ向けなのかもしれない。
俺は左手に竿を持ったまま、右手から網を伸ばして、サバを掬い上げる。
サイズは、鈴菜が釣ったサバより若干小さめだった。
釣り針を外して、手袋越しにサバの口に親指を入れて、ヒョイと持ち上げる。
「撮りますわよ」
「ああ、頼む」
俺のほうはSNSにアップする予定はないが、記念として撮影した。
撮り終わると、掴んでいたサバを海にリリースする。
投げ込まれたサバは、尾ひれを力強く振りながら、海中に潜っていった。
「釣果ゼロは避けられたな」
安堵した俺は、釣り竿を脇に置いて、椅子に深く沈み込んだ。
午後の時間が穏やかに流れていく。
俺が釣りを止めたからか、鈴菜も釣りは再開せず、代わりに船の冷蔵庫から麦茶を出してくれた。
お礼を言って受け取り、ゆっくりと揺れる船に身を委ねる。
「平和だ」
まるで陸のゾンビから逃れた気分だった。
鈴菜が隣に座って、空を指差す。
「あの雲、猫が座っているように見えませんか?」
「確かに。ちゃんと耳と尻尾があるな」
空に鎮座した猫は、その姿勢で横に向かって、ゆっくりと流れている。
「雲を見ていると、時間を忘れますわね」
「そうだな。少し休もうか」
それからしばらく、特に何もせず、のんびりと過ごした。
やがて日差しが少し和らいだ頃、船は係留所に進路を取った。


























