第56話 ベルフェス初日
金曜日の昼下がり。
連泊中のホテルを出た俺は、搬入用のトラックに乗って、スタッフ用の入口からメイン会場に入った。
そのような入場をしたのは、会場を混乱させないためだ。
大きめの待機室に入ると、既に咲月と鈴菜が居た。
「お待たせ」
「ごきげんよう、悠さん」
「悠さん、おはようございます」
俺が出演するメインイベントは、20時だ。
5時間前の会場入りは、かなり早いのではないだろうか。
社会人が朝9時に出勤した場合、5時間後は14時だ。そろそろ退社後のことを妄想し始める頃合いである。
とりあえず今世は、サラリーマンにはなりたくないと思った。
「こんなに早く来たら、疲れないか?」
「わたくし達は、自由に動けますから」
「それもそうか」
正体がバレて捕獲騒動になるツチノコの俺は、一般客が立ち入り禁止のエリアに引き籠もらざるを得ない。
だが鈴菜達の場合は、同性のファンは居ても、異性のガチ恋勢は居ないので、俺ほど熱心に追われたりはしない。
変装すれば客に紛れ込めるし、正体に気付かれても見逃してもらえそうだ。
フードコートで食べ歩きをしても良いし、販売会場でグッズを眺めても良い。
夏祭りや文化祭で楽しむ時間なら、仕事のように疲れたりはしない。
――会場の雰囲気を味わうことも必要かな。
咲月や鈴菜の出演は、1時間だ。
俺が楽曲提供した曲以外にも持ち歌があるし、演奏もできるが、1時間歌い続けるわけにはいかない。
歌の合間にトークを挟むことになるので、会場の雰囲気を味わっておくことも、多少は必要だろう。
王道は、曲制作のエピソードを紹介してから、その曲を演奏することだが。
「お客さんの入りは、どうですか?」
「金曜日の日中なのに、もう5万人を超えていますよ」
咲月に尋ねると、微笑みが返ってきた。
「去年は、3日間で12万人弱でしたよね。結構良いペースですね」
12万人を3日で割れば、1日4万人。
既に5万人であれば、昨年を上回るペースだ。
それに金曜日は、仕事が終わった人達が夜に来る。
これから2万人くらい増えるとすれば、初日で7万人だろうか。
土日のほうが来場者は多くなるので、合計で20万人を越えるかもしれない。
「近年は下がり気味でしたけど、今年は過去最高になるかもしれません」
「それは良かったです」
宣伝した甲斐があったというものだ。
「それでCDの売り上げは、どうですかね」
そう言いながら、待機室にいくつも置かれているモニターを眺めた。
モニターには、会場に設置されている各カメラの映像が映っていた。
その一つには、CDを売っている臨時販売所の様子が表示されている。
「あれは、グッズ販売会場の外ですか?」
「はい。会場内だと対応できないと判断されて、外に作られました」
そこは、コミケ会場の外側に設けられた人気サークルの販売所のようだった。
列が連なっており、その先にはテーブルが2ヵ所あって、それぞれのテーブルの上にCDが山積みにされている。
テーブル側には、お金を受け取る役、CDを渡す役、追加のCDを運んでくる役の3人が居て、警備員も立っている。
客の列は整然と進み、手際よくお金を渡して、CDを受け取っていた。
「かなり売れている感じですかね」
「販売価格は税込み2000円ですけれど、すごく売れていますよ」
CDはシングルで、歌有りと歌無しの2曲しか入っていない。
それで2000円は、安いとは言えない。
会場限定品であり、ジャケットが未出の俺写真で、メンバーシップに入っていても聞けないので、買ってもらえる価格ではあるが。
それと税込み2000円なら、小銭のお釣りが不要だ。
計算も楽なので、間違いも少ないだろう。
「朝10時から売っているのに、購入の列が途切れないんですね」
「新しく来場するお客さんが居ますから。それに1回の購入制限は24枚ですが、何度も並ぶお客さんも居るみたいで」
「24枚……ああ、5万円未満なら印紙が不要だからか」
5万円以上と未満とでは、少し面倒な線引きがある。
領収書は、客が求めなければ不要だが、客が求めた場合には発行義務がある。
そして5万円以上の領収書には、200円の収入印紙を貼らなければならない。
領収書は民法第486条、収入印紙は印紙税法第8条だ。
貼り付けしなかったら『一年以下の拘禁刑又は五十万円以下の罰金に処する』と印紙税法第22条で定められている。
ベルゼは売れまくっているので、ここでケチが付いては困る。
だから購入を24枚までに制限して、合計5万円未満に抑えているのだろう。
客が勝手に並び直して買う場合、5万円未満の売買が毎回成立するだけなので、収入印紙は不要だ。
「転売用の大量購入で、領収書を発行するように求められる可能性があったから、購入に制限を設けた感じですかね」
「そんな感じですね」
1枚4000円で転売すれば、仕入れが2000円、販売サイトの手数料が1割で400円、ゆうパケットが250円で、差し引き1350円の儲けになる。
CDケース入りのCDは、1枚50グラム。
10回買っても240枚で、2歳児の体重ほどの12キログラムなので持てる。わざわざ抱える必要もなくて、キャスターバッグを使えば楽に運べるだろう。
240枚を転売すれば、32万4000円になる。
下手をすると月収を超えるので、それは往復したくもなる。
モニターの先では、明らかに手慣れた人達が、効率的に往復を繰り返していた。
「それで結局、何枚作ったんですか」
「15万枚になりました。6トントラック3台で搬入しています」
「それだけあれば、値段は吊り上がらないでしょうね」
ベルゼは会場にお客さんを呼び込むために、会場限定グッズとして販売したい。そのため通販で売る気は無い。
一方で北海道や沖縄に住んでいるファンは、静岡県は遠くて旅費が高い。
そもそも仕事があって、来られない人も居る。
会場には行けないけど、どうしても欲しいという人は、転売で買うだろう。
新品のCDを転売することは、法律で禁じられていない。
販売の説明欄に「友人用に買ったけど友人も買っていたのでお譲りします」などと書いたら、単に友人が多い人という扱いになって、法的な対策も完璧だ。
「プロだなぁ」
それからロケ弁当をもらい、ほかのアーティストの曲をモニター越しに眺めているうちに、出演時間となった。
今日の主役は鈴菜で、俺と咲月は脇役だ。
俺は出番まで待って、『白の誓い』のタイミングで登場する。
ジャパン交響楽団のプロ達も加わって、シンセサイザー、ピアノ、バイオリン、ビオラ、チェロ、ツリーチャイム、アコースティックギター、ドラム、タンバリン、エレクトリックベース、スレイベルが揃う。
観客が最高の盛り上がりを見せる中、前奏が流れ始めた。
刹那、照明がふわりと落ち着き、中央ステージに淡い白光が射した。
天井から雪のように細かい紙吹雪が舞い降り、幻想的な光景を創り出す。
歌詞のとおり、世界が白に染まっていくかのようだった。
鈴菜は、一歩、ゆっくりと前に出た。
純白のドレスは、舞台照明の白に染まり、身体の輪郭すら柔らかくぼかす。
胸元には、氷の結晶を模したような透明な装飾が揺れている。スタンドマイクの前に立った彼女は、そっと目を閉じた。
そして、歌い始めた。
「積もる雪に、足跡並べ。静かな街並み、君と歩んでる」
最初の一節が放たれた瞬間、会場全体が息を呑んだ。
ホールを包んでいた熱狂の熱が、雪に触れたように、一瞬で静寂に包まれる。
鈴菜の歌声は、透き通っていた。
澄んだ冬の空気のように冷たく、美しく、そしてどこか切なさを帯びていた。
それでいて、温かかった。
白い吐息のように、観客にそっと触れて、心を解かしていく。
「肩を並べ、二人でずっと。歩んでいけたら、良いなと想う」
スポットライトが俺を照らし、舞台に二人分の影が浮かぶ演出が起こった。
観客の一部が思わず歓喜の悲鳴を上げる。
だが多くの観客は、自分が歌詞のヒロインになったような気持ちで、鈴菜の歌声に心を委ねていた。
「雪が、深く降って。白く、景色染める」
舞台上では白い光がゆるやかに回転し、まるで観客席まで雪が届いているような視覚効果を生み出した。
静謐な音の広がりと、繊細なストリングスの旋律が交わり、鈴菜の歌声が空間全体を包み込んでいく。
「白い景色、街並み染めて。冬の冷たさ、頰を撫でていく。二人の息、白く溶け合い。温めあって、幸せあった」
そこにあるのは、現代では滅多に語られなくなった、けれど本能が深く欲してやまない感情、信頼と温もりがあった。
男が希少な世界で、『白の誓い』は、かつてあった確かな愛を、リアルに浮かび上がらせる。
サビに入ると、音響は広がりを増して、天井の照明が一斉に輝きを変えた。
「冬の夜が包んで、二人世界作り。いつか暗い闇も、晴れて彩った春に向かう」
ステージの背後に設置されたスクリーンが、ゆっくりと夜明けを描き始める。
雪景色が少しずつ薄紅に染まり、凍った地面に柔らかな朝陽が射してゆく。
そんな映像演出が、観客の心と完璧に同期していた。
観客席には、涙を浮かべる者すら居た。
冬の寒さに肩を寄せ合った夜。手を繋いで歩いた帰り道。言葉にできずとも確かに伝わっていた温もり。
それらが歌声に導かれて、観客の脳裏に浮かんでいく。
「静かに積もる、白の誓い。白い愛の結晶。溶けて消えたりはせずに。二人の絆繋ぐ。二人で育んだ冬、白く冷たい世界、それが愛を紡いだ」
照明は淡い青白さを保ち、まるで雪景色の中に居るかのように感じられた。
隣に居た恋人の頬に落ちた雪を、そっと指先で払った。
「冬の夜が包んで、二人世界作り。いつか暗い闇も、晴れて彩った春に変わる」
この曲には、ただ甘いだけではない、冬という試練がある。
二人で越えた静かな夜、何も言えずともそばにいた時間。不安や孤独を、恋人の存在が和らげてくれるという歌詞が胸を打つ。
「雪が、彩る世界覆う。君と、連れ添って。温め待つ、溶けるまで。二人の仲、深くなった」
この歌の中に現れる君という存在に、観客達は自分が思い描く理想の姿を重ねていく。
その人と寄り添う未来を、雪に染まる空間に思い描いていく。
「溶けるまで待って、いつか彩る世界を、幸せに描いてく」
観客は、おそらく誰もが一度は、理想の恋人を思い描いたことがある。
その理想が、男性作曲家の俺が女性歌手の鈴菜に贈った歌詞によって、現実味を帯びて鮮やかに浮かび上がっていく。
「冬の街、絆繋ぎ。重なった、白の誓い。春になっても溶けずに、この世界彩る。これからは、もっと、深く……」
ラストのフレーズが静かに消えていった。
消えていく間の静寂、そして余韻が会場を満たしたのち、嵐のような拍手と歓声が、観客席を包み込んだ。
誰もが立ち上がり、涙ぐみながら、心からの称賛を送っている。
それに対してステージ上の鈴菜は、深く、静かに一礼した。
その姿は、雪の結晶のように清廉で、美しく輝いていた。


























