第44話 感染者侵入
校庭から悲鳴が聞こえた瞬間。
絵理が振り返って早歩きで窓際に向かい、開いていた窓から校舎に入った。
「あっちは保健室」
咲が慌てて動き出そうとしたので、俺はとっさに咲の手を掴んだ。
「待て」
家庭科室にいる10人の女子が一斉に俺を見た。
困惑と不安の表情を浮かべる彼女達に、俺は状況を説明する。
「悲鳴の後に恵美が保健室に向かった。恵美以外にも重症化した人間が居て、誰かが襲われたのかもしれない。つまり相手は2人以上居る」
咲は俺を見上げ、判断を委ねる視線を向けた。クラス委員長の優奈が確認のために声を上げる。
「どういうこと?」
「さっき小春が、これがゾンビウイルスだと言っただろう。有効な治療薬も無い。わざわざ行って噛まれて感染したらどうする。咲は行くな」 「それなら、どうするの?」
俺は家庭科室を見渡した。内側から鍵を閉められるドアの後ろにテーブルを置けば、誰も入れられない。
「内側から鍵を掛けて、ドアの後ろにテーブルを置く。先生達が解決するか、警察や救急が来て安全になったら開ける」
優奈は咲を一瞥した。咲は少し考えた後、俺のほうを向く。
「悠君、とても言い難いんだけど」
咲は俺を家庭科室の端に連れて行き、手を耳元に当てて小声で尋ねた。
「立て篭もったら、お手洗いどうするの」
俺は呆然とした。家庭科室には流し台、電気、ガス、水道、調理器具、食材、冷蔵庫まであるが、トイレはない。
「トイレの場所は?」
「家庭科室から出て、3教室分離れたところ」
「それは大問題だな」
俺は方針転換を告げた。
「前言撤回する。入口は塞がない。感染者が来たら、奥の準備室に立て篭もってくれ。男は感染しないらしいから、立て篭もるまでの時間は俺が稼ぐ」
咲の顔が曇った。心配を訴える目をしている。
俺達が戻ると、優奈が咲を端へ引っ張っていき、小声で問いかけた。
咲が優奈の耳元に手を当てると、一瞬で優奈の頬が赤く染まった。
しばらくすると、校内放送が流れてくる。
『教頭先生の黄色い車を中庭に移動させてください』
「この放送は何だ?」
「学校の隠語の緊急放送。教頭が不審者、黄が避難しろ、中庭は体育館に避難という意味」
優奈が説明してくれた。不審者が出たので体育館に避難しろという指示だろう。
「校外から入ってきた人間が居るわけか。今日の状態なら、ゾンビの症状になった人が勝手に入ってきたのかもしれない」
「どうしようか?」
咲が俺の袖を引っ張りながら小さな声で尋ねた。俺は過去の事例を挙げた。
「東日本大震災の大川小学校では、裏山に避難した児童を教師が校庭に呼び戻し、50分待機させられた児童の9割以上が死亡または行方不明になった。後ろにいた数人だけが裏山に逃げて助かった」
重い言葉が静かに教室に響いた。
「今の恵美は感染者だ。感染者がうろつく校内を体育館まで移動するのは危険だと思う。咲は残れ。もしもゾンビ状態の感染者が襲ってきたら、感染しない俺が、ここにある包丁で相手を刺してでも守る」
咲は迷いがちな表情を見せながらも、決意を固めたように頷いた。
「分かったよ」
俺は残りのクラスメイト達に視線を向けた。
「優奈達も残るなら守る。だけど俺が100パーセント正しいとは保証できないから、強制はしない。ここに残るのと体育館に避難するのと、どっちでも良い」
「どうして咲は強制なの?」
優奈の問いに、俺は答えた。
「俺達は電車通学だ。親の車で迎えに来てもらうまで、ゾンビが居る校内を移動するよりも安全な場所に居たほうが良い」
納得した優奈はクラスメイト達を見渡した。
「先生も居ないし、みんなの自由で」
静寂が広がった。それを破ったのは千尋の声だった。
「優奈はどうするの?」
「悠くん、あたしも守ってね。わりと遠くからの電車通学」
「一緒に居るなら守る」
優奈は千尋に視線を戻した。
「千尋はどうするの?」
「それじゃあ、私は体育館に避難するね」
千尋は少し考える素振りを見せた後、別行動を宣言した。
「悠君、教室からわたしの鞄を取ってきて。後ろのロッカーのリュックサックも」
「あたしの荷物もお願い。スマホと充電器が入ってる」
咲が躊躇いがちに鍵を差し出し、続いて優奈も鍵を渡してきた。
家庭科室にはコンセントがあるので、充電器があればスマホを使い続けられる。情報収集と暇潰しに重要だ。
「分かった。咲と優奈は準備室に立て篭もっていてくれ」
「それじゃあ、私達と一緒に一度教室に戻るね」
千尋が同行を申し出たので、俺は頷いた。
周囲を見ると、咲と優奈以外の8人は教室に戻るようだった。
規律正しい日本人らしい判断だが、石巻市立大川小学校では児童78人中70人が死亡、4人が行方不明になっている。
「ごめんね。判断できないから」
「問題ない。俺にも100パーセント正解だという確信は無いからな」
千尋の謝罪に、俺は謝罪不要と伝えた。
俺達は校内を移動し、自分達の教室エリアへ向かった。
誰ともすれ違わない廊下を慎重に歩く。突き当たり付近で制服姿の列が視界に入り、別のクラスの最後尾が廊下の角を曲がって消えていくところだった。
「良いタイミングだったね」
「どうしてだ」
「先生に見つかったら、荷物を持たずに逃げろって言われたから」
安堵した俺達は素早く教室に駆け込んだ。俺は自分の鞄と咲、優奈の鞄を机の上に置き、後方のロッカーに向かった。
「優奈のロッカーは、こっちだよ」
小春が隣のロッカーを指差した。
俺が優奈のリュックサックを取り出すと、小春がロッカーの中をチェックして俺を止めた。
「あー、待って待って」
小春がリュックの奥に手を伸ばし、ビニールのパッケージを取り出してリュックに滑り込ませる。
「助かる」
「咲ちゃんのほうも確認するから、鞄貸して」
俺は仏頂面で礼を述べながら、小春に鞄を差し出した。
後で聞かれた時に説明できるのはありがたい。
3人分の荷物を集め終えると、一緒に来た8人も荷物回収を終えていた。
「それじゃあ、気を付けてね」
「ああ。千尋達も気を付けろ」
千尋が手を振った直後、新たな校内放送が流れた。
『理事長先生の赤い車を速やかに移動させて下さい』
放送を聞いた俺は意味を考えた後、千尋を見た。
千尋は教室の窓に駆け寄り、校門を見る。
「校門、開いてる!」
驚きと焦りが混ざった声が響いて、残っていた女子が窓際に集まった。
そこには生徒でも教職員でもない複数の人間が校門からぞろぞろと侵入してくる姿が見えた。
年齢層はまばらで服装も統一感がない。
その動きは常軌を逸していた。
校門脇の守衛が三人に押し倒され、噛み付かれている。
「さっきの黄色い車の校内放送で、近所に声が響いたのかも」
千尋が呟いた。
「今の2回目の放送で、もっと来るかも」
それは最悪の予想だった。
学校の指示に従うのは、もう駄目だろう。
だが最初の方針を変えるには勇気が必要だ。
頭ごなしの否定ではなく、メリットのある提案なら乗り易いのではないか。
「千尋。俺と一緒に家庭科室に避難するなら、可能な限り守ってやる」
千尋は振り返って周囲を見渡した。
残っているのは瞳子、実弓、小春だけだ。
「男は感染しなくて、感染者は意識が朦朧としている。準備室に立て篭もるなら、家庭科室に来た連中は俺が全て排除する」
提示したメリットは、安全地帯、感染しない人間のサポート、そして男性の誘いだ。千尋は飛び付いては来なかった。
「人数が多いと、集める食料とかが大変になるけど、大丈夫?」
「襲われた時に人数が多いと、リスクが分散して全滅を避けられる可能性が高くなる。咲のリスクも減るから構わない。保険だと思って、気にせず来い」
「分かった。それじゃあ戻ろう」
千尋には後ろめたさがあったらしく、俺の言葉で納得したようだった。
「サクサク戻るぞ」
俺は窓の外の光景を見て強張っている瞳子達にも声を掛けて、教室を出た。


























