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<月飼い>少女は<狼>とともに夢を見る  作者: 神崎右京
第四章

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夢の終わり⑩

「坊や。眠らないのかい?」

 ベッドの中から、布団を軽く持ち上げて誘うも、蒼い月光を背負った黒髪の青年は小さく微笑して緩く首を振った。

「僕には構わず、寝ていいよ。――少し、考え事をしたいんだ」

「――――そう」

 始祖の下へ行ってからだ。――<朝>はこうして独り、窓辺に腰掛けて、外を眺めながらじっと何かを考える時間が多くなった。

 昔は頑なに、絶対に一緒に、と煩かったはずの食事も睡眠も、最近は別々に取ることの方が多い。――元々、彼にとっては大して必要のない行為なのだから、心配するようなことではないということはわかっているが。

(寂しいねぇ……ま、今はゆっくり自分と向き合う時間も必要だろうから、仕方ないけどさ)

 シュサは胸中で呟き、今日も独りで寝台へと入る。本当は、シュサもまた睡眠や食事を取らずとも生きていける身体になったはずなのだが、長年の習慣を切り替えるというのは難しい。つい癖で、いつも通り食事を食べ、睡眠を取ってしまうのだ。

 始祖狼が死んだ――という報が入ったのは、つい先日のこと。

 シュサと<朝>が根城に赴いて数日後のことだった。

「何かあったら、言うんだよ。――あたしは、坊やの願いを叶えるための相棒なんだからさ」

「……うん」

 静かに声が返ってくるが、視線がこちらに向けられることはなかった。

(不思議なもんだね。最初は、坊やの方がずっとあたしを好いて、あたしに依存していたのに――)

 戦争が始まってから、少しずつ――少しずつ、何かが変わっていった。

 身体だけは大きくなったが、精神はいつまでも幼い少年のままの彼は――静かに、ゆったりと、壊れていった。

 瞳に昏い光を宿すことが多くなった。くるくると変わる表情が乏しくなった。

 シュサ、と言って笑うことが――少なくなった。

(何を間違えたのかな――……)

 始祖の下から帰ってきてからは、それが顕著になった。今では、立場が逆転しているんじゃないかと思う時すらある。シュサの方が<朝>を必要とし、彼の存在に依存しているようだった。

(いいや。考えるの、やめよう)

 一つきりになった瞳を閉じて、眠りの世界へと旅立つ。

 何をどうしようとも、彼と共に永遠を歩むと決めたのだ。それが、”番”として選ばれたシュサの答えだ。

 ――もう、後戻りは、出来ない。



「……一度だけ。一度だけ、<夜>と逢おうと思うよ」

 彼がそう言いだしたときは、驚いた。何度か意思を確かめたが、青年の決意は固かった。

 仕方ないので、参謀であるシュサは兄弟の対話に向けてお膳立てをした。いつも、最弱のくせに最前線に水晶片手に突っ込んでくる<夜>を罠にかけることなど、造作もなかった。

 <夜>のお守りは黒狼と決まっていた。灰狼は、強さのない者に従うことを嫌う。戦場で、事故に見せて背後から<夜>を強襲したのは、灰狼ばかりだった。故に、血統を重んじ、最も<夜>に従うことを許容出来る者が多い黒狼がその周囲を固めるのが常だった。

 戦場で罠にかけ、<夜>を黒狼の一団ごと孤立させ、大量の兵士で取り囲む。始祖から聞いた夜水晶の秘密を考慮し、<狼>もどきではなく、あえてヒトの兵士ばかりを集めた。――<夜>が水晶に頼って敵を攻撃すれば、すぐにその効力を失うように。

「――やぁ。久しぶりだね、<夜>」

「貴様――<朝>……!」

 みっともなくヒトの兵士たちに取り囲まれた状態で、<夜>は犬歯をむき出しにして叫ぶ。

「この戦いも、長く続いた。戦況は、もう何年も一進一退で、膠着状態だ。そのうえ、始祖も死んでしまった。――僕も君も、いい加減大人になろうかなと思って」

 <朝>は、乏しい表情のまま、淡々と言葉を続ける。

 その顔に、感情らしいものは何一つ見えなかった。

「これが、最後通牒だよ。――君が、<狼>たちを連れて、北の山岳地帯へ引き上げると言うなら、僕はもう君たちを追わない。もう二度と、永遠に、だ。君と<狼>とは袂を分かつけど、君たちは山で、僕はヒトの世界で、互いに不干渉を貫き、それぞれ思うままに生きればいい。……信じられないなら――君たちが望むなら、僕の戒で、ヒトから<狼>の記憶を消してやってもいい」

「な――!」

 ガラリ、と顔色を変えたのは、一団の中にいた老年の黒狼――セシル・ラウンジールだった。

(あいつは話が分かるようだね……)

 静かに観察していたシュサは、その顔を見て察する。

 <朝>が数日考え続けた妥協点が、これだった。

 始祖の言葉通りに<夜>と手を組むことはどうしても感情が許さなかった。だが、始祖が言う通り、優しく非情になり切れない<朝>が最後に出した結論は、互いの不干渉をもって手切れとする、というものだった。

(これを飲まない手はない。<狼>たちにとっては願ってもないはずでしょ)

 胸中で呟き、相手の出方を見る。

 ヒトにとっては住み辛く物資が豊富なわけでもない山岳地帯だが、もとは獣であり肉食の<狼>たちにとっては暮らしやすい土地だった。彼らが敬愛する始祖狼が眠る千年樹もある。

 逆に、ヒトとの戦いに勝ったところで、<狼>が得るものは少ない。領地や金といったものに興味があるわけではなく、ヒトの国家間の政治思想にはもっと関心がない。せいぜい、自分たちを脅かす唯一の存在である<朝>という存在を潰せる、というだけだ。たったそれだけのために、すでに尋常ではない同胞たちを失っている。

 ――結論は、明らかだった。

 セシルはすぐにそれに気づいたのだろう。口を開こうとして――

「ふざけるな!俺が、そんな申し出を受けると思うのか!?」

「<夜>――!?何を――!」

「お前に屈して背を向けて逃げるなど、出来るはずがない!最期の最期、たとえ<狼>種族が俺一人になったとしても、必ずお前の喉笛にかみついて、お前を殺してやる……!」

 さぁっ――とセシルの顔が青ざめる。

 血統を重視する黒狼の族長が――初めて本気で、「この男について行くことは出来ない」と実感した瞬間だった。

「そうか。どこまでも愚かで不出来な、身勝手な弟よ。――交渉は決裂だ。今この瞬間より、僕は君たち<狼>種族を敵とみなして、徹底的に叩き潰すと約束しよう」

「ま――待て――!」

 セシルが蒼い顔で口を開くが、<朝>は冷たい一瞥をくれただけだった。

「恨むなら、馬鹿な大将を据えている自分たちを恨め。僕は最後の慈悲を与えた。それを蹴ったのはお前たちだ。――始祖が命を賭してまで造ったお前たちには、優秀な個体も多いだろうに、残念だ」

「待ってくれ――!」

「セシル!貴様、敵に寝返るつもりか!?」

 <朝>は、内輪もめを始めそうな相手に取り合うことなく軽く手を掲げ、戒を解き放つ。――<狼>たちを取り囲んでいる兵士たちを、恐怖を抱かぬ傀儡として、一斉に敵へと襲い掛からせた。

「くっ……!夜水晶!」

「下がれ、<夜>!数が多すぎる!」

 ザッと黒狼たちが<夜>を守るように背に庇い、セシルは獣型へと姿を変えて大気を震わす渾身の遠吠えを放った。味方を呼ぼうとしているのだろう。

 黒狼たちに庇われながら、もう遠目には視認することも難しいほど小さくなった水晶に縋る弟を、<朝>は蔑んだ目で眺めた。

「愚かだな……だが、一番愚かなのは、始祖だ……」

「坊や……?」

 青年のつぶやきをとらえ、隣のシュサが聞き返す。<朝>は答えることなく苦々しく顔を歪めて嘆息すると、くるりと踵を返した。

 最後に、チラリと一瞥をくれたのは、この期に及んでまだ序列の最上位にいる<夜>を守ろうとその身を庇う黒狼だった。

「哀れだね、黒狼。僕らと一番近しいお前たちが、とっても哀れで仕方ない。……お前たちが<夜>を守って流す血で、最後に水晶は力を取り戻すかもしれないね。皮肉なものだ」

 去り行く<朝>の呟きが、耳に届いたのかはわからない。

 だが、その言葉通り、身を挺して<夜>を庇った<狼>の血をまともに浴びた夜水晶は――再び大きさを取り戻す。

 それを見た<夜>の口の端が、ニィッ――と吊り上がった。


「な――なんだこれは……セシル、説明しろ!」

 遠吠えを聞きつけて転移してきたグレイが見たその光景は――地獄絵図そのものと言って、差し支えなかった。

「小童――儂はもう、アレについて行くことは出来ん……」

「ハハハハハハハハハ――!」

 けたたましい、壊れたおもちゃのような、声変りもしていない甲高い声で笑う<夜>の手には、力を取り戻した夜水晶。その力を使い、ヒトを屠っていく。

 そして、小さくなれば、手に掛けるのは――己を守る、黒狼。

「頼む――頼む、グレイ。あいつを止めることが出来るのは、お前だけだ――」

 それは、初めてセシルがグレイを名前で呼んだ日。

 血統を重んじる黒狼が、明確に<夜>へ反旗を翻すことを意思表示した日だった――


 そして、グレイは下剋上を決意する。

 多大な犠牲をもって<夜>を封じ――敵陣のど真ん中、シュリ帝国の玉座へと、訪れた。


「<狼>種族は、<夜>を封じた。今の長は、私だ。グレイ・アークリースの名をもって、戦争終結の話し合いの場を設けたい」

 玉座で対峙したのは、傀儡となっている国を統べる王と、<朝>の二人だった。シュサは、『影』に紛れて様子を物陰から伺い、いつでも転移で何事にも対応できる位置から行方を見守る。

 同席しようか、との申し出を却下したのは<朝>本人だった。

 これは、<狼>と僕の問題だから――と言って。

「こちら側が提示する終結の条件は、以前そちらが示したものと遜色ない。千年樹のある北の山岳地帯に我々は撤退する。ヒトの方から攻め入られでもせぬ限り、未来永劫、決してヒトの世界に関与しないと誓おう」

「ふぅん……<夜>は?」

「黒狼の寿命を代償に、千年樹の下に封じた。奴の力の象徴たる夜水晶にヒトの血を吸わせ続ければ、封印は保たれる。……我々に協力していた人間たちを、<月飼い>と名付け、封印を保たせるため、連れて行く。それだけは許容してほしい」

「……ふぅん……わかった。好きにしたらいいよ。興味、ないから」

 告げる<朝>の声は、どこまでも平坦で、心から興味がないと誰にもわかるほどだった。

 微かにグレイの眉が怪訝そうに寄るが、すぐにそれは消えた。すっと静かに腰を折る。

「……寛大な処置を、感謝する」

「ハハッ……すごい。ちゃんと、優秀な奴がいたんだね。<狼>にも」

 <朝>は嘲るように笑って、白銀の髪を持つ男を玉座の上から見下ろした。

 たとえ、<夜>の無能が招いたこととはいえ、ヒトの勢力に数々の同胞を殺されたことに変わりはない。すなわち、<朝>は憎い敵の親玉だ。その相手に、プライドを捨てて頭を下げられるのは、<狼>種族を背負っているという自負があるからだろう。

「……ねぇ。グレイ、だっけ」

「あぁ」

「――どうして、<夜>を殺さなかったの?」

 ぽつり……と。

 広い玉座の間に、青年のテノールが虚ろに響いた。

「……殺せない」

「へぇ。どうして?」

「そもそも、不死身だ。どんな傷も自然に回復する。殺す方法がない」

「毒は効くよ?――まぁ、死ぬかどうかは知らないけど」

「死なん。……以前戦場で、普通の<狼>ならば即死するような毒矢を射掛けられても、のたうち回って苦しむだけで死ななかった。殺害することは不可能だ」

「……それだけ?」

 ふっ……と<朝>の口元が微笑の形に歪む。

 グレイはそれを見て、不愉快そうに眉をひそめた後、ゆっくりと口を開いた。

「――――始祖の」

「うん」

「始祖の望みは、貴様と<夜>が蟠りを解消し、手を取り合って世界を統べ、お前たち兄弟も、<狼>たちも、全員が幸せを享受し、笑って暮らせる世界を作ることだった。何万年経とうと、あの劣等感を死ぬほど拗らせた阿呆がそんなことを許容するとは思えんが――始祖の望みを無に帰すようなことは出来ん」

「ハハハッ……うん。どうせ、そんなことだと思ったよ。――虫唾が走るね」

 無邪気に吐き捨てる<朝>に、グレイは顔を顰めて目を眇める。

「それでも、だ。死の間際、最期の瞬間まで、始祖は<狼>種族とお前たち二人の幸いを願っていた。――私が託されたのは、その行く末を見届けることだ。始祖の願いを叶えるため、私はこの永遠に続く地獄の底を歩き続ける」

「地獄の底――ハハ……うん。なるほど。確かに、その通りだ。いいことを言うね」

 今度の笑いには、力がなかった。<朝>は一度うつむいた後、小さく口を開く。

「……<夜>はさ」

「……?」

「お前のこと、嫌いだっただろう?」

 グレイの黄金の瞳が、数度静かに瞬かれる。

「……そうだな」

「ハハッ……だろうね。すごく想像つくよ。――僕も、君が、嫌いだ」

 <朝>は<狼>を代表するその男を玉座から見下ろし、虚ろな笑みで告げる。

「君はとっても――始祖に似ていて、虫唾が走る」

「――――……ふむ。誉め言葉と受け取っておこう」

 静かにうなずき、くるりと踵を返すと、ふぉんっ……と音もなくその場から転移で姿を消す。

 ――それが、グレイ・アークリースが、宿敵である<朝>と会話を交わした、最初で最後の機会だった。



 そして、その日を境に、<朝>から全ての笑顔が消えた。

 シュサが何をしても、言っても、虚ろな表情が変わらない。

 そうして、少年の心を持った青年は、虚ろな瞳で愛しい番を見上げる――



「ねぇ。――――僕は、どうやったら、死ねるのかな」



 ――夢の終わりが、近づいていた。


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