夢の終わり①
「マシロぉおおおお。新しい酒瓶取ってぇええええ」
「わっ!ちょ……もう!お姉ちゃん!さすがに飲みすぎだよ!!?」
風呂から上がってリビングを開けた途端、ゴロゴロと転がっている酒瓶に驚いて、慌てて吞んだくれている姉からグラスを取り上げる。
「も~~~うるさいなぁ~~。酒くらい好きに飲ませなって」
「いやいやいや、ちょっとお風呂入って目を離した隙にどんだけ飲んでんのよ!?も~~……また明日頭痛くなっても知らないよ!?」
「ハハッ、可愛い可愛いマシロたんが治癒してくれるから大丈夫ですぅ~~~」
「そんなことばっかり言ってると、治してあげないからね!?」
<狼>には敬遠される酒も煙草も、適量をはるかに超えた量で嗜むシュサは、時折こうして自分の限界を超えることがある。鼻が利かないマシロだから平気だが、きっと他の赤狼がこの場にいたら、シュサの口から漂う酒気を帯びた吐息の臭いに顔を顰めることだろう。
「次の日辛くなるのがわかりきってるのに、何でそんなに飲むの!?」
「う~~ん……?何それ、哲学?」
「常識を求めてるの!!!」
「ハッハッハッ、お子ちゃまにはわかんないよ、この悦楽は」
ドンッと水差しを置いてやるも、シュサは気にした様子もなく酒の入ったグラスを再び傾けた。
「まったく……昔お姉ちゃんがあたしみたいに気まぐれで拾ったっていう男の子も、困ってたんじゃない?毎度毎度……」
「ん~?ハハハッ……ぜ~んぜん。あいつは、あたしに逆らったりできなかったからサ。マシロみたいに、正面切ってモノ申したりできなくて、鼻が曲がる~って涙目になりながら、上目遣いでプルプル震えてたよ。そんな顔で見られたらさ、オネイサン、あんまり可愛くて、ついつい意地悪したくなっちゃうよね」
「うわ、可哀想……」
半眼で呻くように自分と同じ境遇だったであろう見知らぬ少年に同情するマシロに、ハハッとご機嫌なシュサの笑い声が響く。
「もー、そんな性格悪いことばっかり言ってるから、いつまで経っても番にしてくれるような人が現れないんだよ。いつも年齢教えてくれないけど、結構いい歳でしょ、お姉ちゃん」
「ぉ?喧嘩か?喧嘩売ってんのか?三割増で買い取っちゃうよ?」
見事な絡み酒の姉に呆れながら、ため息と共に転がっている酒瓶を片付ける。この量はきっと、明日の朝には絶対に二日酔いで潰れているだろう。
「そういえば――番って、何か、運命的な出会いをするものなんでしょ?」
「ん~?」
「ビビビッてくるんでしょ?<狼>の雄は、第六感的な何かで、これが自分の番にしたい相手だって確信する、って言うじゃん。――あたしにもいるのかなぁ……」
少しうっとりと目を細めるマシロは、年相応の恋に恋する少女の横顔をしていた。人工的に造られた存在である自分にも、そんな相手がいるのか、という不安と、いたら嬉しいという憧れもそこには同時に込められているのだろう。
「さてねぇ……事故、なんてのがあるくらいだから、誰もが必ずしも『運命の相手』とやらと番えるってわけでもないでしょ」
「夢がない……!夢がないよお姉ちゃん!」
「ハハッ……可愛い妹に、現実を教えてあげるのもお姉ちゃんの役目でしょーが」
笑いながら、煙草を一本取り出して慣れた手つきで火をつける。一息肺に吸い込んでから、ふぅっと煙を吐き出した。
「首に齧りつけば誰でも強制的に番になるんだ。齧りつかれる雌側の意思なんて関係ない。雄のエゴで番にされることもあるでしょ。――灰狼の族長なんか、わかりやすい例でしょーよ」
「な、なによ…ちょっとくらい夢を見せてくれたっていいじゃない……」
ぶつぶつと不満げにつぶやくマシロに、フッと紫煙が揺れる。
「愛情、なんて目に見えないもの、どうして信じることが出来るのさ。昨日まで世界で一番愛してる、お前と一緒に死ぬまで生きていきたい、とか歯の浮く台詞言ってても、環境や状況が変われば裏切られることなんか全然あるでしょ」
「う、嘘。聞いたことないよ、そんなの――」
「ハハッ……まぁ、そりゃ、少数派だとは思うけどさ」
言いながら、シュサはもう一度ゆっくり肺の中の空気を吐き出し、ぼんやりと立ち上っていく紫煙を眺める。
「結局、信じられるのは自分だけ。愛だの恋だのくだらない……番だって、結局は優秀な子孫を効率よく残すための制度でしかないんだから。だったら、目に見えない不確かなものなんか置いておいて、遺伝子的に優秀な相手を狙って落として番にしてもらう方がよっぽど生産性があると思うけどねぇ……」
「ほ……本格的に夢がない……!」
ガラガラとまだ見ぬ憧れの『運命の番』への幻想を打ち砕かれて、マシロが悲痛な声を上げる。
くっくっとシュサは声を上げて笑いながら、その隻眼でマシロをとらえた。
「だからあんたも、番を選ぶときはちゃんと相手が優秀かどうかを見極めなね。間違っても、格下の相手なんかと番っちゃダーメ。アンタよりも優秀な個体を選んで、自分から番にしてくれってアピールしに行きな。そうすれば、相手の性能を自分も手に入れることが出来て、あんた自身が総合的に優秀な個体になれる。――そのあと、相手が自分を捨てても、独りで生きていくのには十分な力が手に入るでしょ?」
「何その、離婚する前提で結婚する、みたいなわけわかんない理論……」
「あっはは!確かに!」
施設育ちのマシロは、まだ<狼>としての常識よりも人間界の社会通念の方が馴染み深いらしい。わかりやすい例えを受けて、シュサは膝を打って笑い声をあげた。
それは、何気ない『夢』の一幕。
もう二度と戻ってくることのない、愛しい愛しい、日常の欠片――
(どうして今、こんなことを思い出すの――!?)
「ガァッ!」
ヒュンッ
獣型のまま鋭い咆哮を上げて、戒を解き放つと、上階から矢を番えている兵士の首から鮮血が溢れた。
少し幅のある通路の中――目に見える敵はクロエが大半を戒で一掃し、匂いであたりをつけた隠れた相手はグレイが始末し、討ち漏らした少数をマシロが確実に仕留めていく。
特にグレイとクロエの連携は見事としか言いようがなく、大した意思疎通がなくともお互いがお互いを補うように、阿吽の呼吸で瞬く間に敵をせん滅していった。
(黒狼の戒で操られて、普通の『人間』の何倍も強くなってるのに……)
心の中で呟き、ふるっ……と小さく震える。
兵士たちは、全員もれなく白目をむいて、尋常ではない様相を呈していた。おそらく、怒気を纏ったグレイや戦闘で目を爛々と輝かせる狂気を孕んだクロエを前に、まともな人間なら腰を抜かして立ち上がれなくなるか、敵前逃亡をするだろうと予想したためだろう。
痛みも恐怖も感じることなく、ただやってくる<狼>を迎撃せよという命令をこなすだけの木偶と化した兵士たちは、目前に死が迫っていても何一つひるむことなく攻撃の手をやめない。訓練された兵士たちの連携も見事なものだ。
だが――それでも、グレイとクロエの敵ではなかった。その身にかすり傷一つ負わせることすらできぬまま、あっさりと断末魔の悲鳴すら上げることなくその木偶としての役割を終えていく。
大戦を生き抜いた千年を生きる白狼と、歴代最強の灰狼の異名は伊達ではなかったようだ。
ヴンッ……
最後の一人をクロエが不可視の刃を飛ばして絶命させたのを確認し、ふぅ、と息を吐いて人型に戻ると、どこかで誰かを仕留めていたらしきグレイもまた、ふぉん……と無音で転移して合流した。
「これで全部?」
「あぁ。……血臭がひどいが、周囲に『人間』の臭いは感じられない」
スン、と鼻を鳴らしてクロエが言い切る。嗅覚に優れた彼は、この血だまりの中でも、微かな臭いをかぎ分けられるのだろう。
「――ティアの、匂いは」
「……相変わらず、どこからもしない。すぐそこのバカでかい扉の向こうに<夜>と思しき臭いがあるのと――<朝>の番とかいう女の臭いが、反対側から近づいてきているな」
「……お姉ちゃん……」
ぽつり、とマシロの口から声が漏れた。いつもは快活に見開かれている大きな瞳が、物憂げにそっと伏せられた。
そして、ふと、あることに思い至って口を開く。
「……ねぇ、グレイ」
「何だ」
「私にはわからないんだけど――<狼>が、一度番になった相手を裏切るって――あり得るの?」




