月のない夜②
ふぉん……と音もなく転移でやってきたのは、千年樹の泉だった。
不思議な力の満ちるこの場所に銀水晶を浸し、願えばいいと、始祖は言った。水晶と千年を生きる大樹の神秘が、願いに応えてくれるだろう、と――
<狼>を生んだ始祖を信じて、グレイは清廉な泉にそっと輝く水晶を捧げ、願いを口にする。
「銀水晶よ。私の願いは一つだけだ。愛しい者に、私と同じ地獄を見せぬよう――それでも共に永遠を歩む道が欲しい」
それは、無茶な願いだとわかっていた。だからこそ、この不思議な水晶に願うべき、唯一の願いだった。
三つもいらない。――一つで、いい。
<狼>のために生きる自分に必要な"個人"の願いは、この一つだけ――
パァッ――
月のない夜の底で、まるで昼間と見紛うばかりの輝きが爆ぜた。水晶を捧げた泉が輝き、七色の光を放っている。
≪哀れで寂しい白狼よ。私は始祖狼から力を与えられた魔法の結晶。始祖の望みの通りに、そなたの願いを叶えよう≫
キラキラと輝く泉から、不思議な声が響いてくる。男とも女とも取れぬその声は、静かに言葉を続けた。
≪使える力は、魔法の欠片。始祖と異なり、制約はあるが、世の理に反した願いを叶えよう≫
「あぁ……なんでもいい。この願いが叶うなら、なんでも」
突然のことに面喰いながらも、必死に言葉を紡ぐグレイの懇願に、きらきらと光る泉は少し考えるように押し黙ってから、再び不思議な言葉を紡ぐ。
≪お前の願いを叶えるために、愛しい者の魂の『生まれ変わり』を作ってやろう――≫
「……魂の……生まれ変わり……?」
怪訝な顔で問い返すと、泉は応える。
≪死した者の魂と、そっくりそのまま同じ魂を持つ者を、再び生まれさせること。それが、『生まれ変わり』――姿も、声も、心も、思考も、何もかも、鏡のような生き写しとして、生まれてくる≫
「――――!」
≪だが、これは、大きな大きな理を捻じ曲げる願い。いくつかの制約がある≫
ゆらり、と泉の水面が風もないのに揺らめいた。
≪一つ、この泉のある森の中で、生命活動を営む者であること。一つ、生まれ変わりは血のつながりのある者の中にしか発現しないこと。一つ、その生命の死後一世代以上の時間を必ず経ること。一つ、そのサイクルの短さは血の濃さに比例すること≫
「……つまり――この森の中で生命活動を営ませれば、ティアの血が続く限り、何度もティアに逢うことが出来る――?」
≪その通り。時間の制限はない。何百年、何千年経とうと、この因果は変わらない――『永遠』だ≫
「――!」
≪血が絶えれば終わり。血が絶えなければ、永遠。直系を残すのであれば、せいぜい、その種の平均寿命程度で再び見えることが出来るだろう。……永遠を生きるお前には、きっと瞬き程度のわずかな時間だ≫
ごくり、とグレイが唾を飲み込む。ゆらゆらと揺れる泉は、そのまま言葉を続けた。
≪これは、お前の愛しい者だけではなく、すべての生命が対象だ。動物も、人間も、<狼>も。皆が等しく、対象だ。永遠を生きる白狼よ。いつも自分を優先しないお前を哀れに思った始祖の想いだ。そなたの孤独を癒す一助となるよう、願っている――≫
ふっ……と不意に光が幻のように消え去り、当たりが再び闇に包まれる。
グレイは、そっと水晶を泉の中から引き揚げた。
今のは幻だったのか、それとも――……
ぎゅっ、とその冷たい水晶を握り締めて、グレイは静かに空を仰いだ。
真っ暗な夜の底で――たった一つの、希望を得た日だった――
どんなに苦しい地獄の底も、きっと歩んでいける――
「おい、坊主。最近の<夜>の暴走は目に余る。何とかしろ」
「まぁまぁクロード。坊やも一生懸命やってるんだからさ」
定例の族長会議で、焦れたように荒い声を上げたのはクロードだった。レシィが納めるものの、イラついた様子は隠しきれない。
「あいつが無力なくせに夜水晶片手に突っ込んで行くせいで、前衛の灰狼たちが迷惑をこうむる。……同じく前線に配備される黒狼どもは大して力にならんしな」
「小僧……貴様……!」
「落ち着け。ここで内輪もめをしてどうする」
すぐに喧嘩を始めようとするクロードとセシルを取りなし、納めていると、クスクスと妖艶なレシィの声が響いた。
「でも、坊や、なんてもう言えないねぇ。……五倍速の成長記録、中途半端で止まっちゃったんだけど」
「……それに関してはすまなかった」
「ふふっ……いいよ、別に。それが始祖の望みなら」
紅を引いた魅惑的な唇を笑みの形にゆがませて、流し目と共に許しを与える。息をするように男をたぶらかす才能を持った女だろう。
「<夜>のことは……何とかする。私も、さすがに頭が痛くなってきたからな」
「おや。坊やでもそんなこと、あるんだ?」
「私をなんだと思っている。お前たちと変わらない<狼>だ」
「永遠の命をもらった、か?」
ふん……と鼻を鳴らして皮肉ったのはセシルだった。
始祖にも彼の息子たちにも一番近い能力を持つといわれるのは黒狼だ。もしも一族を託されるとしたら自分こそが、という思いがあったのかもしれない。
三者三様、どれも癖のある連中の集まりなのは事実だが――それでも、彼らほど頼りになる仲間はいなかった。
グレイは苦笑と共に、口を開く。
「お前たちに提案だ。この大戦に決着がついたら――<狼>の一族総出で、千年樹のある森に行くのはどうだろう」
「……?何故だ」
クロードが三白眼をいぶかし気に歪めて尋ねる。ふ、とグレイは口の端に笑みを刻んだ。
「大戦に、勝とうが負けようが、もう我々はヒトと共には歩めぬだろう。あの険しい山岳地帯に、ヒトは容易に分け入ってこない。気候も年中安定していて、動物も豊富で、食料にも困らない。千年樹の下には、始祖狼が眠っている。……我らが穏やかに過ごすには、ちょうどよい場所ではないか?」
本当は――お前たちが死んだ後にも、また、お前たちに逢いたいのだという言葉は、心の中に仕舞い込んで。
グレイは、年齢に似つかわしくない、長老のような穏やかな表情で、笑ったのだった。
そこへ飛ぶには、勇気と覚悟がいる。
転移の前に、三度大きく深呼吸をしてから、グレイは座標を思い浮かべて、戒を発動させた。
ふぉん――
「グレイ!」
見慣れた部屋の中、パッと華やかな黄金の髪が弾けるように振り返る。
きゅぅ――と愛しさに胸が切なく締め付けられた。
「ティア。久しぶりだな」
「本当に……!なんで、急に来てくれなくなったの!?」
「すまない……戦況が思わしくなく、忙しくてな」
ぎゅっと眉根を寄せて責め立てるティアをなだめる。
始祖によって永遠の命を与えられたその日を最後に、グレイは最低限の用事があるときしかここを訪れなくなった。
来訪するのは必ず昼間。用事を終えたら、すぐに帰っていく。――そんな、日々。
「今日は、新しく薬をいくつか貰いに来た。ルナート領主はいるか」
「っ……待って!」
部屋を出ようとすると、焦ったように手をつかまれる。
「お父さんに会ったら――また、すぐ、帰っちゃう――!?」
「……忙しい身なんだ」
「でもっ……!」
ぎゅぅっとティアの眉根がさらに寄る。
それは、怒りではなく――涙をこらえる、表情だった。
「ティア。……言っただろう。笑ってくれ。お前には、いつも、笑顔でいてほしい」
しわが寄った眉間を伸ばすように指で触れて、困った表情で告げる。
「グレイが……一緒にいてくれたら……笑える……」
「……それは困ったな」
心底困り果てて、グレイは苦笑を刻む。
一緒にいたいのはやまやまだが――そうも言っていられない。
グレイはすでに、覚悟を決めている。
(ティアが平均寿命まで生きるとしても、あと、たかだか八十年足らず――…)
<狼>にすれば、瞬きする間に過ぎ去るような、一瞬のひと時。
彼女と一緒に永遠を歩むためには、そのわずかな時間で、彼女らをあの森の中へと連れて行かねばならない。
彼女一人を連れて行くのでは意味がない。血をつないでいくのに十分な人数を連れていく必要がある。
そう――この、ルナート領にいる者たち全てを。
(そのためには、早急に戦争を終わらせて、何か彼らと<狼>を納得させる理由を用意して――)
やることは山積みだ。タイムリミットがあるのだから。
それになにより――
(あまり一緒にいて、理性が揺らいでも困る)
時折、不意に、堪え切れなくなって、その首筋にかじりつきたい欲望が湧き出るときがある。
すべてを捨てて――<狼>からの反対があろうと、ティアを悲しませる結果になろうとも、どうでもいいと――とにかくこの愛しい存在と、いつか生まれ変わりが誕生するとわかっていても一度でも死別を経験することなど出来ないと、次までのたかだか百年ごときのわずかな間すら彼女を失うことなど耐えられないと、衝動的に番いたくなる時があるのだ。
「グレイに、聞いてほしいことがあるの――!」
「すまない、ティア。今日は、本当に急いでいる。次に来た時、必ず聞くから――」
そういって、するりと華奢な手を逃れ、部屋を出る。ティアの、痛ましげな表情は見ないようにして振り切った。
大丈夫。――大丈夫。
とにかく優先すべきは、タイムリミットまでにすべてを終わらせることだ。
人間の命は短く、脆く、儚い。
(それまでに、ヒトが間違ってもルナートの民に――ティアに危害を加えないように、戒で密かに守りを固めて……)
グレイはやるべきことを頭の中で列挙しながら足を進める。
大丈夫――この世のどこかに『月の子』が笑顔でいる限り、どんなに暗い絶望の世界も、歩んで行けるはずだから――




