月の子③
ふと、胸のあたりに温かなぬくもりを感じて、ぼんやりと意識が浮上する。体全体が鉛のように酷く重い。
あまりの重さにもう一度意識を闇の中に落としそうになって、寸でのところで堪え、瞼を無理やり押し上げる。
「――――」
部屋の中は暗く、今が夜の時間帯であることだけはすぐにわかった。窓から差し込む月明りが、深夜であると告げている。
(――――なんだ、コレは)
血を失いすぎたせいか、いつもより回転が鈍くなったように感じる頭で周囲の状態から己の置かれている現状を理解しようとしたグレイは、ある一点――獣型のグレイの胸に顔をうずめるようにしてスヤスヤと寝入っている『人間』の少女に目を止める。
視線と共に一瞬思考も停止した。
――意味が分からない。
理解が及ばない現状に混乱しつつも、何はともあれ身体を起こそうとして、全身に激痛が走る。引き攣った痛みに、自然と尻尾がぶんっと振れた。
ぽふっ……
「……ん……?」
顔の当たりに尻尾が直撃したせいだろう。黄金の糸のような美しい髪を持った少女が、ゆっくりと瞼を押し開く。瑠璃色の瞳が、薄暗い室内の中でも妙に印象的だった。
「ぁ……起きた?<狼>さん……」
寝起きだからか、少し甘えた声で目をこすって身を起こす姿は、少女特有のあどけなさを感じさせる。
(敵意は――ない……?)
視線だけは鋭く走らせながらも、混乱する頭で考える。
胸に顔をうずめられているとわかった時は正直ひやりとしたが――どう考えても規則的で穏やかな呼吸音は、彼女が熟睡していることを示しており、グレイに危害を与えようという意思は感じられない。それどころか、グレイによって危害を加えられる可能性があることを微塵も考えていないような、暢気すぎるとしか言えない態度だった。
こうして目を覚ました後も――<狼>さん、などというふざけた呼称で呼びかけるほどに、暢気な様子だ。
「何だ、貴様は……」
低く呻くようにして尋ねる。闇の中で、瑠璃色の瞳が驚いたように見開いた。
「しゃ――喋れるの――!?」
(…………なんだ、こいつは)
今日何度目かの疑問を抱いて、グレイは怪訝に眉を寄せる。
スン、と念のために鼻を鳴らしてみるが、どう考えても目の前の少女は『人間』である。それなのに――この、ひどく毒気を抜かれる感じはなんなのか。
今度こそ痛みに耐えながら体を起こすと、ハッと少女が慌ててそれを制した。
「だっ、駄目だよっ……!まだ怪我は治って――」
少女の声を無視して体を起こすと、はらり、と身体に巻き付いていた何かが落ちる。
(――包帯……?)
どうやら、止血用にまかれていたらしい。どす黒く染まったそれは、すでに乾いてパリパリになっていた。
「わ、ちょっと待って、新しいの持ってくる!」
「おい、待て――」
引き留める言葉を聞くそぶりもなく。
少女は、慌てた様子で身をひるがえして部屋から出て行った。
「……なんなんだ、いったい……」
困惑しきった状態で、ひとまず人型に戻る。――戻れた。
それを起点に、意識を失う前の記憶がざぁっとよみがえってくる。人型に戻る力すら残っていなかった時のことが。
(そうだ……戦場から撤退する途中で、今の女が現れて――)
――助けた、のか。
確かに彼女が、グレイを取り囲んでいたヒトを弓矢で射抜いて退けた。それのみならず、血まみれの獣を前に、涙を流して謝罪し抱きしめ――そこから記憶がない。だが、室内に寝かされていることや、包帯が身体のいたるところに巻かれている状況を鑑みるに、少女がここへ連れてきて、グレイの怪我の手当てをしたらしい。
(何故――……?)
まぎれもない、『人間』。<狼>種族の天敵。
その彼女がどうして、<狼>であるグレイを助けているのか、全く以て度し難い。
「お、おまたせっ!怪我を見せて――って、あ、あれ……?」
部屋に駆け込んできた少女は、目をぱちくりと瞬いた。
狐につままれたような顔をして、きょろきょろと室内を見回す。
「私が<狼>だ」
「へ……?」
獣型が見えなくなって見知らぬ男が部屋に現れた事態に混乱しているのだろうと判断し、呆れて嘆息しながら告げると、瑠璃色の瞳が再び大きく風を送った。
「――こ……子供――?」
「……失礼な奴だな」
若干の苛立ちを込めて突っ込む。無邪気にコンプレックスを刺激され、ひくり、と頬が軽く引き攣った。
「これでもお前より遥かに年長者だ」
「え……嘘。どう見ても十歳くら――」
「<狼>をお前達の基準で考えるな。優に五十年以上生きている」
本当はつい先日ちょうど五十年が経った、くらいなのだが、くだらないプライドが少しでもと鯖を読ませた。
だが、少女の感想も当然と言えば当然だろう。人型になったグレイは少年としか言いようのない外見をしている。声変わりもまだなのか、声もとても男性とは思えないくらい高い。
「我ら白狼の平均寿命は五百年だ。お前達人間とは成長速度も何もかもが違う」
「……ってことは、人間で換算したらやっぱり十歳くら――」
「それ以上年齢のことに触れるな。噛み付くぞ」
声変わり前の可愛らしい声を目一杯低くして犬歯をむき出しにする。少女は、驚いたように目を瞬かせはしたものの、恐怖した様子はなかった。
(……完全に、嘗められているな、これは)
毒気を抜かれる少女の様子に、グレイは対応を考えあぐねる。
<狼>であれば、己の有能さを誇示すればいい。敵であれば、己の圧倒的な力でねじ伏せればいい。
だが、まったく無害な人間――<狼>を助けるという奇特な行動をし、恐怖するそぶりも見せない謎の少女には、いったいどうやって対応するのが正解なのか。
「まだ、傷、痛むの?」
少女の声に顔を上げると、あどけない中でも十分に整っているといえるその面に心配の色を濃くして、グレイの顔を覗き込んでいた。どうやら、グレイが頭を悩ませ考え込んでいる表情を、傷の痛みによる苦悶の表情ととらえたらしい。
「いや……大丈夫だ」
それは、強がりではなかった。もちろん、完全に痛みがないわけではないが、一番酷かった時のことを思えば、かなり回復しているといえる。回復のために体力を使ったのか酷く体全体が重たく、一番深い背中の傷だけがまだじくじくと痛みを発しているが、この分なら群れまで転移するだけの力は回復しているだろう。群れに戻れるのであれば、赤狼の治癒を受けられる。
「私はどれくらい眠っていた?」
「えっと……三日、かな?」
指折り数える少女を前に、鼻の頭にしわを刻む。――予想以上に眠りこけていたらしい。
(その間――こいつは、ヒトに引き渡さなかったのか)
気を失って瀕死の重体だった、幼年の優秀な白狼――あの忌々しいヒトに引き渡せば、人間界では法外と言える報酬が出ただろう。
それでも、この少女は、決してそれをしなかった。
(……認めるべきか。この少女に救われた、という事実を)
酷く悔しいが、仕方ない。――白狼は、四つの種族の中でも、最も義理堅い個体の集まりだ。
「女。――礼を言おう」
「へ……?」
「私は群れへ帰る。――ここで怪我を手当てしてくれたこと、感謝する」
「あ、ううん。そんな、それは全然――」
言ってから、ふにゃ、と少女の顔が曇った。――泣きそうな、顔。
「?……どうした」
「ごめんね……『人間』が、酷いこと、して……」
「――――……」
ふと、意識を失う直前、彼女が大粒の涙をこぼしながら何度もつぶやいた言葉を思い出した。
なんと返すべきか一瞬迷うが、少女は言葉を重ねた。
「私たちは、昔から、オオカミと共に生きた一族なの」
「……ふむ……?」
「山に入って共に狩りをし、恵みを分け合い、互いの一族を増やしてきた。オオカミが<狼>さんになっても、一緒だよ。――でも、十年前に始まったこの戦いのせいで、<狼>さんたちも、私たちを信じられない、って言って、この領地を去っていっちゃった……」
少女の言葉に、グレイはやっと彼女のバックボーンと、彼女がなぜ<狼>を怖がらず助けを差し伸べたのかに思い至った。
「……ふむ。……となると、ここはルナートとかいう集落か?」
「集落……うん。私たちは、領地、って言うけど。――<狼>さんを滅ぼせって言っているシュリ帝国とは違う国だよ」
「なるほど」
<狼>は、種族全体が始祖を起点とした序列につながる一枚岩の組織なので、『人間』の生態を理解しがたいが、知識として、『人間』たちは集落ごとに思想や文化、価値観が大きく異なるとグレイは聞いたことがあった。
ひとくくりに、『人間』だからと言って判断が出来るものでもないのかもしれない。
「では、お前を信じ、なんでも一つ言うことを聞くと約束しよう」
「えっ……!?」
「助けられた礼だ。――私たち<狼>は、お前たち『人間』などよりよほど義理堅い。借りを作ったままでいるのは性に合わん」
「い、いいよ、そんなの!もともとは、私たち『人間』が<狼>さんを裏切ったことから始まったんだし――…それに、いくら本当は五十歳を超えてるって言われても、見た目は年下の男の子に何かしてもらうっていうのも――」
「喧嘩を売っているのか?」
半眼で呻く。年齢のことにはこれ以上触れるな、と先ほど言ったはずなのだが。
「私が操れるのは、時間と空間だ。何か欲しいものがあるならば、空間を渡り手に入れて見せよう。時の流れを弄りたいものがあれば、操って見せよう。スピードを速めることも、遅くすることも可能だ」
グレイの説明を聞いた少女は、困った顔をした。
「どうした」
「……ん……困ってないから……困ったな、って思って」
「?……富も、若さも、自由に手に入れられるのだぞ」
例えば白狼の時間を遅らせる戒を物体に掛ければ、消耗による破損を防ぐことが出来る。宝石に掛ければ、特に手入れなどしなくとも、いつまでも曇りなく美しいままで保存できる。珍しい石だと言って高額で売れるだろう。枯れない花、などという珍しいものを作っても同様だ。
人体に掛ければ、老化のスピードを遅くすることも出来る。衰えぬ若さを手に入れたい、という望みもかなえられよう。
強欲な『人間』であれば、喉から手が出るほど欲するであろうそれに興味を示さない少女に、グレイは怪訝な顔をした。
少女は少し考え――思いついたように顔を上げた。
「あっ……じゃあ」
「?」
「私たちルナートの民にも、<狼>さんのお手伝いをさせてほしい――!」
「……何……?」
グレイは怪訝に眉をひそめた。しかし、少女の顔からは、冗談を言っているようなそぶりは感じられない。
「私たちは、ずっと、助け合ってきた。だから、今、<狼>さんが困っているなら、助けたいの。怪我したときの駆け込み場所として使ってくれてもいいし、シュリ帝国を攻めるときの拠点にしてくれてもいい。『人間』の協力がないと手に入れられない物資や情報があるなら、惜しみなく力を貸したい」
「――――……」
グレイはじっと言い募る少女を眺めた。瑠璃色の瞳は、至極真剣で、その言葉に嘘偽りがないように見える。
(だが――この子供だけが、好意的に思っているだけかもしれん)
見たところ、少女は十代前半といった外見をしていた。彼女自身は純粋にかつて共に生きた<狼>を大事に思っていても、この集落の大人たちも同じとは限らない。
グレイは、警戒心を不必要に解かぬようにしながら、慎重に口を開いた。
「お前の申し出はありがたいが、お前ひとりならともかく、お前たちの一族全てを信じろと言われると難しい。お前たちの一族の長を出して、正式に交渉しろ。話はそれからだ」
「わ、わかった!――あ、でも、今日は遅いから、明日でもいい?」
「……もちろん。私はいったん群れに帰るが。そのうちに話を通しておけ」
あまり期待せずに告げた言葉に、色よい答えが返ってきて困惑しながら告げる。
(『人間』側に協力者が得られることは、悪いことではない――……子供の甘い戯言に耳を傾けるような大人がいれば、だが)
シュリ帝国は、世界でも有数の力を持った国だ。そこに歯向かう、と言っているも同然なのだ。領地の長として、過去の<狼>との経緯だけを理由に、その決断を下すのは難しいだろう。
「もう帰っちゃうの?」
「あぁ。……今、我らの群れでは、次代の族長選抜の真っ只中だ。早く帰らねば、長になり損ねる」
「えっ……!?お、長――!?あなたが――!?」
「…………お前今、また子供扱いしようとしただろう……」
不愉快そうな低い声が響く。少女はギクリと肩を跳ねさせた。――図星だったらしい。
「年齢は関係ない。男女も関係ない。全ての白狼が対象だ。選抜基準は単純――選抜期間中に、最も長にふさわしい行動をとったもの。それだけだ」
グレイの今回の子供たちを救った件は、間違いなく高い評価を得るだろう。十分に族長として選抜される可能性は高い。
もともと、神童と言われ、次期族長候補として最も有力とされているのがグレイだった。最年少での族長選抜の可能性と謳われ、期待と、ライバルからの妬みとを一身に背負っていた。
(早く帰らねば――手柄を横取りされかねない)
「一週間後、日が一番高く登るとき、またここに来ると約束しよう。――私の名はグレイ・アークリース。覚えておけ」
「グレイ……うん。約束だよ、グレイ」
にこり、と少女は嬉しそうに笑った。
陽だまりに咲いた一凛の可憐な花のように美しい笑みに、ふ、と心の奥が緩むのを感じた。
「――お前の名は、何という」
ふと――こんなことを聞かなくてもよいはずなのに、気づけば質問が口をついていた。
ぱちり、と瑠璃色の瞳が驚いたように瞬く。
少女は、花弁のように可憐な唇を開き、音を乗せた。
「ティア。――ティア・ルナート、だよ。――よろしくね、グレイ」




