表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<月飼い>少女は<狼>とともに夢を見る  作者: 神崎右京
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/90

お姉ちゃん①

 こんな時に、いつも思い出す――

 もしも、あの人だったら、どう考えるだろう。


 いつだって、自分よりも圧倒的に優秀な頭脳を持っていた、あの人だったら――


 カサ……

 小さく草を踏みしめる音が響いて、視線を上げる。すらりとした大人の色香を纏う、人形のような美女がいつものように儚い笑みを湛えてそこにいた。手に持った湯気の立つマグカップをそっと差し出してくる。

「あ。ありがと」

 相変わらず無言のままのナツメからそれを受け取り、小さく礼を言う。確かに、少し冷えてきたと思っていたところだった。ありがたい。

(ほんと……クロくんにはもったいないくらい出来た女よね……)

 感情らしい感情が見えない虚ろな瞳と人形のように整った顔に浮かぶ形ばかりの笑みを初めて見たときは、本能的に背筋が寒くなったものだったが――そして時々、今も寒くなるが――物静かなその美女は、意外と面倒見がよく、族長会議のたびに食事の用意を買って出てくれたり、こうしてよく気付いては気を回してありがたい気遣いをしてくれる。

(そういうところに惚れたのかな?――あの、クロくんが?ちょっと想像つかないけど)

 ふぅ、と軽く息を吹きかけて冷ましながら、両手でマグカップを握って暖を取る。

 星も月も厚い雲に覆われた、光のない漆黒の夜。木枯らしが吹こうかというこの時期は、夜を外で過ごすには寒い季節だ。どれくらい前に朽ちたのかわからない巨木だったらしい地面に横たわる丸太の上に腰掛けるマシロの隣にナツメも座ってきた。ぶ厚いショールを肩にかけて防寒はばっちりだ。

「クロくん心配しない?家の中で大人しくしてた方がいいんじゃないの?」

 返事らしい返事が返ってくることは期待せず、一応声をかけると、ふるふる、とナツメは首を横に振った。イエスかノーで答えられる質問には素直に答えてくれるからありがたい。

「まぁ、何かあった時に、人手があった方が助かるのは確かだけど――あんたに何かがあった時の方が、怖いわ。主に、クロくんの暴れっぷりが」

 半眼でうめくようにして呟き、ずず……と適温になったマグカップに口をつける。中身が苦いコーヒーではなく甘いミルクティーなのは、ナツメがマシロを子ども扱いしているからかもしれない。

 昼間に千年樹のほとりを出発して、灰狼の群れに着いたのは日没前。何者かの襲撃に備えて、一番危険な夜の時間帯をクロエが警護すべきだとなり、到着後すぐに仮眠をとった。とっぷりと日が暮れてから起きだして、精鋭たちを中心にしたメンバーで群れの周囲を巡回して警戒することになった。鼻が利かないため敵襲に気づき辛い上に、戦闘では大した役に立たないマシロは、集落の一角にある広場でこうして万が一の襲撃によって負傷した<狼>を治療するために待機している。

 クロエも当然警備の巡回に加わることになったが、まさか、その最前線ともいえる場所でナツメを連れ歩けるはずもない。幾人かの灰狼に厳重に警護させた族長の家――クロエとナツメの愛の巣とも言う――に匿おうとした過保護なクロエに、ナツメが異を唱えたのだという。

 事前の打ち合わせ通り広場に待機したマシロは、ナツメを伴って現れたクロエに、心底びっくりした。

「……俺は未だに嫌なんだが」

 いつもの三白眼を少し伏せながら、苦い顔で控えめに抗議するクロエを、むっとした顔でナツメが睨むと、少し困った顔をして、はぁ、とため息を吐いた後、ナツメをマシロへと引き渡したのだ。

(何が驚いたって――まさか、あのクロくんが、尻に敷かれてるとは思わないでしょ……)

 負傷者がたくさん出るような事態になれば、この広場は大変なことになるだろう。灰狼たちは、基本的に戦闘狂集団といって差し支えない。今警備に当たっているメンバー以外の全員が起きだして、強敵の出現に目を輝かせながら嬉々として戦闘に加わり出すだろうことはもちろん、負傷者として運ばれてきた<狼>も、治癒した傍から動けるようになった途端に再び前線に舞い戻ろうとするような、生粋の馬鹿どもだ。――少なくとも、マシロの中での認識はそうだ。何せ、族長が本当に気が狂っているとしか思えないほどの戦闘狂なのだから。

 だからこそ、人手をもらえるのはありがたかった。マシロとて、何人も同時に治癒が出来るわけではない。致命傷を負ったようなものが複数来た時には、最低限の応急処置をしてくれる人材がいるだけで、<狼>たちの生存率が大きく跳ね上がるのは確かだ。ナツメは、それを見越してここに詰めると言ったのだろう。――クロエは最後までひどく嫌そうだったが。

(まぁ、グレイと違って、器用に女の子を守りながら戦うとか出来なさそうだもんね、クロくんは……)

 一回戦闘が始まると、その血を滾らせ狂戦士となるクロエは、敵を屠ることにすべての神経をつぎ込んでしまう。敵を屠りながらも背後や周囲に気を配り、その圧倒的実力をもって自分とすぐ後ろにいる女がいる場所から半径数メートル以内を絶対安全圏にしてしまえそうなグレイのようにはいくまい。

「なんか……あんたが昔、クロくんのお姉ちゃんだった、っていうの、何となく想像ついたわ」

 頑として<狼>たちの役に立つのだ、という意思を見せた美女を思い出し、ふっと笑みを漏らす。きょとん、とナツメはマシロを振り返った。

「あたしにもね、お姉ちゃんがいたんだ。――本当の、血がつながったお姉ちゃんじゃないんだけど。施設から逃げてきて、森でぼろ雑巾よりもひどい身体になってたあたしを拾って、南の赤狼の集落に入れてくれた人」

 ふと、空を仰ぐ。

 真っ黒な空は、星の一つもなく、ただマシロの声を吸い込んでいくだけだった。

「お姉ちゃんは『申し子』でね。治癒の戒は人並みにしか使えないんだけど、めちゃくちゃ頭がよくてさ。人工的に造られたあたしの頭脳は、絶対負けないって思ってたのに、全然勝てないの。後にも先にも、そんなのお姉ちゃんだけよ。……あ、グレイもいた。あの二人だけね」

 くす、と昔を懐かしむように笑みを漏らす。ぴこ、と獣耳が一つ嬉しそうに揺れた。

「赤狼は、基本的に穏やかな性格の人ばっかりだから、急に連れてこられた大怪我してる私のことも、快く受け入れてくれたわ。さすがに、この耳については最初いぶかしむ人もいたけど――『申し子』だってお姉ちゃんが機転を利かせた嘘を言ってくれて。耳の変身が出来ない代わりに、この優秀な頭脳を得たんだ、ってことにしてくれた。最初は人見知りばっかりしてたあたしも、お姉ちゃんのおかげですぐに集落の中に溶け込んでいけたわ」

 ナツメは、いつもの笑顔に少しだけ優し気な色を足して、うんうんと頷いて聞いてくれている。

 マシロは、手元のマグカップに視線を落とし、もう一口中身をすすった。

「どう考えても『訳アリ』だったあたしを、お姉ちゃんは何も言わずに拾って、育ててくれた。なんで?って昔一度聞いてみたら――大昔にも、気まぐれで子供を拾って育てたことがあったらしくて、それが懐かしかったから、何となく。だってさ。……そんな理由で『訳アリ』を躊躇うことなく拾うなんて、ほんと、信じられないくらい軽い人だった。もう、空気より軽いの」

 くすくす、と笑いながら懐かしさに目を細める。

「すごく頼りになる人だった。赤狼の族長はレシフェ・アスマンっていう女の人だったんだけど、お姉ちゃんとは友達みたいに仲が良くて。いつも、群れのこととか、困ったことがあると相談してたみたい。影の族長、なんてふざけて呼んだこともあるわ。少し変わった人だったけど、それも彼女を彩るとっても素敵な魅力の一つで――誰にも愛された、本当にすごい人だった」

「――――……」

 ナツメが、少し困った顔をする。

 気づいたのだろう。

 ――マシロがそれを、ずっと過去形で語っていることに。

「十年前の、施設の奴らの襲撃の時――最初、あたしは、絶対にあたしを狙ってやってきたんだ、って思ったわ。あたしのせいで、大事な大事な群れの皆が、優しくあたしを迎えてくれた皆が、危険な目に遭っている――そう思ったら、もう、混乱しちゃって。あたし一人が出ていったら、もう一度実験施設に放り込まれたら解決するなら、って言って出ていこうとするのを、お姉ちゃんが引き留めたの」

 マシロは再び天を仰ぐ。ほぅ、と一つ息を吐いた。

「大丈夫、あんたのせいじゃない。あんたは何も悪くない。あんたはこの群れに必要な存在で、ちゃんと、ここで胸張って生きてていいんだから、心配するなって――いっつも軽薄な調子のいいことばっかり言ってるくせに、その時だけは、本気の声で、言ってくれた」

 十年前の、あの日。

 たかだか三十年ぽっちの短い人生だけど、それでも生まれて初めて、本当の意味で――生きている心地が、した。

 『失敗作』のレッテルを張られて、廃棄されたあの日から――『必要だ』とマシロに向けて口に出して、はっきりと言ってくれた、初めての人。

 慈愛に満ちた世界。必ず朝が来る闇。閉ざされた氷は解け始め、陽射しはどこまでも心地が良く、モノクロの未来は鮮やかな色をつけていく――

 施設にいたころ、地獄の底にしか思えなかった世界は、実は、慈愛に満ちた、素晴らしくきれいな世界だったと、教えてくれた人だった。

「それから、群れの皆と一緒に逃げて――レシフェたちが、殿を務めてくれてたけど、漏れた奴らが来て……」

 ぎゅっとナツメが無言でマシロの手を取る。

 心配しているようなそのしぐさに、にこり、と笑ってから、大丈夫だと告げるようにゆっくりと取られた手に手を重ねる。

「お姉ちゃんが、追っ手を食い止めてあたしたちを逃がしてくれた。とっても頭の良かったお姉ちゃんだから――きっと、あれが一番群れの生存確率が高まる方法だったんだと、思う。……だけど、あたしは――他の誰でもない、お姉ちゃんに、ずっと、生きていてほしかったよ――……」

 そういってから、ぎゅっとナツメの手を握る。

「クロくんとはちょっと違うけど、ね。……あたしも、少しだけ、わかるんだ。クロ君の気持ち。――百年だって、二百年だって、待ちたい。もう一度、もしも叶うなら、お姉ちゃんに逢いたい。一目でいいから、姿が見たい。懐かしい懐かしい、あの軽薄な声が聞きたい。……大好きだって、ありがとうって、伝えたい」

 くす、とマシロは笑いかける。

「だから、ナツメは、絶対に死んじゃダメ。怪我しただけでも、クロくんすっごく怒って、荒れるから。絶対危ないことしたらダメ。――クロくんたちほど頼りにならないかもしれないけれど、何かあったら、あたし、精一杯守るから」

「っ――……」

 ふるふる、とナツメは少し眉根を寄せて首を振った。そんなことをしなくていい、と言っているのかもしれない。

 そして、軽くマシロを抱きしめ、よしよし、と頭を撫でた。

 まるで、姉が、妹にするように。

(――あぁ。懐かしいな。この感じ)

 最年少の族長になって、必死に足を突っ張って立ってきた。嘗められないように、数が少なくなった赤狼を守るために。

 誰かに寄り掛かることなんて、久しく忘れていたように思う。

 ほ……と心が緩みかけたとき――


 ふぉん……


「――や。ひ~さしぶり、マシロ」


「――――――――――」



 ありえない声が、そこに、響いた――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ