先生
お菓子をあげに行かなくちゃ。
辺りはシンと静まっている。
私は軟い決意を持って、足が後退ろうとするのを止めた。
暗闇と思った矢先に、白光の中にいる様な、不確かな照度の中で、見慣れた玄関の扉。ドアノブを握って引けば、一瞬抗う様な、ラッチの引っ掛かりまで、同じ。
お母さんの趣味に彩られた玄関内。オレンジ色の敷石がはめ込み線で幾何学模様を描く玄関の床。敷石のじゃりじゃりした感覚。入ってすぐの左の壁に小さなニッチ。光触媒の垂れ草が飾られている。その横に、小さな陶器の小鳥。翼の羽と、小さな尾羽の先だけ目の覚める様な青。
正面には飴色の塗装がされたルーバーの折れ戸。小さなシューズクロークだ。余りの壁面に、鎖で垂らし連ねた、濃い色合いのステンドグラスの壁飾り。
色彩が満ちていてなんだかホッとする。ありがとう、お母さん。
靴を脱いで、小さな玄関ホールにある小窓をまず開けた。
ひゅう、と風が吹き込んで、意外に感じる。外からの働きかけは無いと思っていたから。家の外との繋がりに、何故かまたホッとして、廊下を少し行き、居間へ入る。続き間になっている食堂と一緒くたに見渡して、何かが息を潜めていないか身構えたけれど、息を潜めているのは自分しかいなかった。
―――お風呂も、トイレも……。
家中、窓を開けて回った。
その度に、風が窓から吹き込んだ。
大丈夫だよ、外と繋がっているからね。そう言われている様な気がした。
私はこの場が、自分の家過ぎて怖い。たまに静寂の中、パチンと天井の隅で、何かが軋み爆ぜる音まで同じ。窓から吹き込む風の一吹きだけが、別のもの。
二階へ向かう階段で、ひょいと顔を上げた先に誰かいやしないかしら、なんて怯えながら「どうして恐れるの?」と自分の胸に聞いた。
自分の見たいものに恐れるなんて、どうかしている。
じゃあ、見た時に、出くわした時に、どうするつもり?
また一つ窓を開ける。風が吹き込む。
けれど、もうホッとする意外性は無い。当たり前に得られる風に、慣れてしまった。
すると、今まで感じた風まで、不確かなものに感じた。
本当は、外と繋がっていやしないんじゃないか……。
まやかしの風で、ここまで進ませる為の「偽り」の安心感を与えられていただけなのでは……。でも、だとしたら何の為に。
開け放した窓の外には、ちゃんと景色が見える。けれど、とても遠く感じた。
向こう側からは、自分はどう見えるのだろう。
きっとこうだ。空っぽの自宅の中を怖がって、窓から吹く風に感度を鈍らせ、外を眺める亡霊。
お菓子をあげに、行かなくちゃ。
スマートフォンの、着信が鳴った。
今日はここでおしまい。
*
僕は、まだ彼女の面影を追ったりなんかしている。
若くしてストレスですっかり禿げ上がり、今ではクソ生意気な生徒に「ハゲセン」なんて陰で呼ばれている分際で……。
「よぉ、ハゲセン! 今日早ぇな!」
僕が振り返ると、相羽がいた。コイツの名前を見つけた時、僕は何だか馬鹿馬鹿しくなった。相羽め、あんなに真愛真愛言ってピーピー泣いていたクセに、子供がいるとはどういう了見だ。
しかし、ちょっと調べてみれば離婚していて、「人生色々だよな……」と少し自己嫌悪に陥った。
相羽ジュニアも遺伝子のせいで煩い。
「ハゲセン! 今度はどんな話やるんだよ。この前のは良かったぞ」
「どれだ」
「男が焚火飛び越えて挑発して来た女襲いに行くやつ」
「そんな話はしていない。激しく読み間違えてるぞ」
「俺、カノジョにその話したらサ、スゲェ引かれた」
「当たり前だ」
「今日、カノジョとコッチの方の本屋行くんだ。デカいの出来たろ」
「漫画買うんだろ」
「ん~まぁね。ハゲセンのおススメがあったら買うぜ?」
光栄だな、と僕は笑った。コイツは俺の選んだ話が好きらしい。このまま、文学の楽しさを知ってくれれば良いんだがなぁ……。
「なんかエロイ雰囲気になるやつとかない? 一緒に読むからさぁ」
無理だよなぁ……。
僕は人生で一番時間を無駄にしたと思う最もつまらない小説のタイトルを相羽に教え、校門から出て行く相羽を見送り、車に乗り込んだ。
車道に出ると、相羽へ駆け寄る他校生が見えた。カノジョか、と年甲斐にも無く好奇心を出した。
ちょうど、進行方向が同じだったので、信号で若すぎるカップルと並んだ。
とても綺麗な子だった。真愛みたいに今時珍しい黒髪で、真愛みたいに色白で、真愛みたいに瞳の大きい……。
相羽に、花の咲く様に笑っている。
遺伝子め、と僕はニヤリとし、それから夢から覚めた様な心地になった。
禿げ上がったジジイが、一体いつまであんなに瑞々しくて美しいものを……。
「ハゲセン―!」と相羽が僕に手を振った。「アレアレ、アイツだよ、焚火の話の……」なんて話している。
相羽の隣に並んだ女の子が、彼にひとしきり頷いた後、笑って僕の方を見、微笑んでお辞儀をした。
その様子が一瞬、真愛に見えた。それからその女の子は元気よく言った。
「先生、さようなら!」
僕は、頷くだけにして、ようやく、ようやく心の中で「さようなら」と呟いた。
人生を掛けて探した幽霊は、どこにもいなかったし、時間という名の愛の中に消えてしまった。
真愛。真愛……。




