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『そして、別れの時』〜猫たちの時間13〜  作者: segakiyui
10.人間たちの夜

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「ん…しょっと…」

「滝さん…」

 両手に支えた盆の上のものを落とすまいと苦労しながら、俺はドアを足で閉めた。ベッドで横になっていた周一郎が、いち早く気づいて声をかけてくる。

「何ですか?」

「夕飯。お前、昼も食っとらんだろーが」

「いいのに…」

「良くないの。病人は食って寝るのが仕事だろ、お前みたいに物は食わん、夜は書類と睨めっこじゃ、治るもんも治らんわい」

 盆をテーブルに置き、シチューの皿とサラダの器をベッド近くの机に移動させながら、俺は唸った。

「高野が嘆いてたぞ、ほんの少しも食べてくれないって……ん?」

 机の上に転がっている、銀の土台に透明なカプセルを被せた屑を、シチューを持った手の甲で押しのける。何かの薬の殻らしい。随分あるが……抗生剤か何かだろうか?

「…あんまり欲しくないんです」

 周一郎が子どもっぽい声で拒否したのに、相手を見やる。

「ダメだ。欲しくなくても食え。ほら!」

「自分で食べられますよ」

 差し出した匙に、さすがに照れくさそうに体を起こした。つ、と微かに眉を顰めて右胸の辺りを押さえ、枕をずり上げてやった俺に少し笑って、ゆっくりもたれながら匙を受け取る。膝に乗せてやったシチューを、ほんのちょっぴり掬って口に入れ、こくん、と飲み下す。

「『実』も食えよ」

「はい」

 俺の指摘に溜息をついて、ジャガイモを掬い上げ、そっと唇の中へ滑り込ませ、ゆっくりと口を動かした。長い時間かかって飲み込み、吐息をついて俺を見る。

「まだだ。もうちょっと食わさんと高野に恨まれる」

「………」

 周一郎は諦めたように、黙々とシチューを掬って口に運び、咀嚼し、それこそ半時間ほどかかって、ようやく一皿空にした。

「ごちそうさまでした」

「農家の人に謝っておけよ、サラダ、食わなかったんだからな」

「…はい」

 面白くもない冗談だったが、今の周一郎には受けた。他愛なく、くすっ、と唇を綻ばせて笑い、そろそろと枕に体をもたせかける。

「疲れたか? 横になってるか?」

「いいえ」

 俺の心配に伏せていた目を上げ、首を振る。

「もうそろそろ、でしょう?」

「え?」

「お由宇さんの中国魔術」

「そろそろって……お前、見に行く気か?」

 呆れた俺の声に、きらりと黒い瞳を光らせる。

「当たり前でしょう? 僕のことにも関係があるんだから」

「お前に? っつーと何か、朝倉家相続に関わってくることなのか?」

 無言で周一郎は頷いた。

「お前、ひょっとして、内容を知ってるのか?」

「脚本は僕……ですからね」

 瞳に滲んだ憂は、次の俺のことばに優しい微笑に溶けた。

「けど…行くっても、その体じゃなぁ…」

「連れて行ってくれないんですか?』

「え……だって、車椅子、ないだろここに。抱き上げていく根性なんぞないぞ……まてよ、おぶっていけるか…」

「うん」

 我が意を得たり、とばかりに周一郎は頷いた。

「あ、けどな、お前、傷があるのは胸だろ? 圧迫したり当たったりしたら痛いだろ?」

「大丈夫ですよ、体は支えていますから」

「そうか?」

 ふむ。

 周一郎と自分の腕を交互に眺める。まあどっちにせよ、当事者である周一郎が行くと言ってるのを止める権利は俺にはない。そんなに時間がかからなければ大丈夫だろう。途中で苦しそうなら、そのままさっさと戻ってくればいいんだし。

 俺は一つ頷いて、ベッドの周一郎にカーディガンを放り投げ、背中を向けてベッドの端に座った。

「それ、羽織ってからおぶされよ」

「すみません、滝さん」

 周一郎が背後で答え、やがて気配が近づいた。ふわりと妙に軽く、周一郎が俺に体を預けてくる。回された腕が、肩から首にしがみつく。

「いいか? 苦しくなったら早めに言えよ?」

「大丈夫です」

 答えを待って、俺は周一郎を担ぎ上げた。肩のあたりに首をもたせかけているらしい周一郎に、部屋を出ながら尋ねてみる。

「なあ、周一郎」

「はい?」

「お前には、もうわかってるんだろ?」

「……」

「内幕も、結末も」

「…わかっていますよ」

 相変わらず、聞き慣れない優しく穏やかな声が返ってきた。

「僕は『猫』ですからね」

「………」

 階段を降りる。一段、また一段と降りていくたびに、背中の重く温かい荷物は柔らかく揺れた。

「…滝さん」

「うん?」

以前まえにもこういうことがありましたね」

「ああ…ドイツ、だっけな」

 脳裏に、あの古城の迷宮が蘇った。幾つもの運命を呑み込んで、あの迷宮は今もあそこにあるのだろうか。砕け散ったガラスに滲んだ周一郎の血の染みは、まだ消し去られずに残っているのだろうか。

「滝さん…」

「うん」

「昨日、僕に言ってくれましたよね」

「…ああ、俺と一緒に来るか、ってのか?」

 慈が朝倉家を継いで、お前はどうなるんだ、と尋ねた俺に、周一郎は物憂い目をしてポツリと答えた。「殺されはしないでしょうね」スペアはいつも貴重ですから。慰めることばもなく、話を続けることもできない俺に弱く淡く笑って、闇を見てきた人間が光の中に戻れないのも常道ですが、と付け加える。

 それじゃあ、と俺は無意識に口を挟んでいた。どうせなら、俺と一緒に来るか? ぽかんとする周一郎にあわててことばを継いだ。いや、嫌ならいいんだ、今までみたいにいい暮らしは出来んが、行き場所がないなら俺の所に来ればいい、そう思っただけなんだから。

 周一郎は大きく見張った目を、そろそろと伏せ、背け、小さくかぶりを振り……それっきり答えを返さなかった。

「……うん」

 俺の問いに、微かな声で応じる。

「それがどうした?」

「……本当は」

 囁くような声が続く。耳元だから、かろうじて聞こえるような音量で。

「嬉しかったんです。嬉しくて………けれど……哀しかった…」

「悲しい?」

 どうしてなんだと尋ねようとした俺は、眼下の階段を下り切ったところで、お由宇が待ち構えているのに気がついた。

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