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ひどく暗い夜だった。俺は、空を見上げて標の星を探したがどこにもなく、道を照らす灯一つない空間が辺りに広がっているだけだった。
(遠いところまで来ちまったなぁ……)
呟けば、ことばはどこかの壁に跳ね返ったように、微かな谺を伴って戻ってきた。
歩き始める。足元は暗闇、行く先も見えない。それでも俺には不思議な確信があった。
『こっち』だ。
歩けば歩くほど、確信は強まってきた。何度か躓き、前にのめり、後ろにひっくり返り、悪態をつきながらも、何者かに急かされるように歩き続けた。
唐突に、右前方に曲がり角が見えた。足を速め、周囲の闇とほとんど同じ色の、壁の向こうを覗き込む。
(こんな所にいたのか)
びくん、とそこに座っていた子どもが、体を震わせて、抱えていた膝から顔を上げる。俺はそいつが居たことに安堵して、ことばを続けた。
(随分捜したぜ、さ、帰ろう)
子どもは俺に背を向けたまま、振り返りもしないでかぶりを振った。
(嫌? 遅れたから怒ってるのか?)
答えはない。
(悪かったよ。そこんところで、サイコロを振ってる変な奴に回り道させられてさ、『運命』なんて気障に名乗ってたが………わかったよ、謝るよ。すまん。一人で心細かったろ?)
子どもはじっと俺のことばに耳を傾け、真実性を吟味しているかのように、首を傾げた。
(本当だって。ずっと心配してたんだ)
『本…当…?』
ようやく、小さなおどおどした声が返ってきて、俺はほっとした。
(本当だよ。だから、ほら、帰ろう)
『……ぼくを……迎えにきてくれたの?』
(あのなあ…)
俺はいささかむっとした。
(他の誰を好き好んで、こんな真夜中に捜して回るかよ。ほら、いくぞ)
『あ…』
子どもは慌てて立ち上がった。置いていかれると思ったらしく、怯えた声で俺を呼ぶ。
『待ってよ、滝さん…』
(大丈夫だよ、置いてきゃしない………え?!)
笑いながら振り返った俺は、次の瞬間、手を差し伸べて走ってくる子どもを受け止めようとし、両手を広げてぎょっとした。必死に走り寄ってくるのは、紛れもない10歳ぐらいの男の子、けれどその顔は、あの、くそ意地っ張りな『あいつ』の顔だったのだ。
(周一郎?!)
『滝さん!』
飛びついてくる、そのまま、首に手を回してしがみつく、10歳の周一郎……。
(え? あれ? おい? え? え? え?)
そんなはずは、ない、だろう…?
「……??? ………」
「目、覚めた?」
「え…あれ? ……周一郎は…?」
「周一郎は別室よ。それじゃ、知ってたの、周一郎がずっとここにいたのを?」
「知ってたも何も………え……お由宇…?」
「……おはよう、志郎」
「あ、おはよう…」
俺はようやく、目の間にいるのが、現実のお由宇だと気づいた。溜息混じりに朝の挨拶から始めてくれたお由宇は、珍獣でも見るように俺を眺め、
「いい夢を見てたみたいね、にやにやしてたわ」
「にやにやって……そうか? 結構シュールな夢だったぞ」
何せ10歳の周一郎だ。お前にそいつが不安そうに飛びついてくるなんて、超現実以外の何だって言うんだ。その頃の周一郎は、朝倉大悟の懐刀、人前では隙なぞ見せなかっただろうし、言わんや、赤の他人の俺に飛びついてくるなんてのは、俺を押し倒すか刺し殺すか、とにかく、表面上の邪気ない仕草で隠したしたたかな意図があってのことに違いない。今はどうだか知らないが。
「そう、でも、現実も結構シュールだわよ」
「シュール? ……あーっ!! わちちちちっ!!」
鸚鵡返しに応じて、俺は全てを思い出した。跳ね起きた拍子にズシャ、と脳味噌のスクランブルエッグができた音が聞こえ、眉を顰めて蹲る。
「馬鹿ねえ……ほぼ一日、眠ってたのよ、急に起きる人がありますか」
「それを……もう少し……早く言ってくれ…」
「言う暇があったとは思えないわね。コーヒー、もらってくるわ、飲めるでしょ?」
「ああ…」
スラリ、とベッドに腰掛けていたお由宇が立ち上がり、柔らかなコバルトブルーのワンピースをひらひらさせて出て行った後も、俺はしばらく額を押さえていた。ズキズキするのは後頭部なのだが、とてもじゃないが触れそうになかったのだ。何かの間違いで触ってみろ、いきなりこの部屋を走り出て、屋敷中を高笑いと方程式をぐちゃ混ぜに喚きながら全力疾走しちまうに決まっている。よく真上向いて眠れたもんだ。ひょっとしたら、あのシュールな夢は、痛みに耐えかねた俺の脳細胞が、手前勝手に配線を繋ぎ変えたせいかも知れない。
「はい」
「あ、サンキュ……てて……」
湯気の立つコーヒーが魔法のようにお由宇とともに現れ、俺は恐る恐る手を伸ばしながら尋ねた。
「周一郎はどうしてるって?」
「寝てるわ。その様子じゃ覚えてないみたいね。ついさっき、倒れたのよ」
「え…」
「ストレスと過労、2、3日碌に食べてないんじゃないかって医者は言ってたけど……あなたのせい?」
悪戯っぽい目が覗き込む。
「何でだよ、俺はあいつに何もしてないぞ?」
「……理解の悪さだけは天才的ね、あっと…ドジも、か」
「お由宇!」
溜息混じりのお由宇に大声を出したが、彼女はあっさりいなした。
「喚かないの。大丈夫よ、今、慈が付いているわ」




