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『そして、別れの時』〜猫たちの時間13〜  作者: segakiyui
5.青の恋歌(マドリガル)

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5

 いくら天才とは言え、10歳の子ども、体力にも限りがある。生死の境を彷徨った数日間、必死に生き延びて帰ってくれば、待っていたのは義理の家族や屋敷の人間の冷ややかな怯えた目だ。ルトが居なければ、それでも、偽物の労いに疑いを持ちながらも憩えたかも知れない。

 けれどルトは居た。そうして周一郎の耳に、ひそひそ話す人々の恐れと嫌悪の混じった囁き声を、瞳の奥に、疑惑と憎しみに満ちた視線を焼き付けてくる。声を掛ける、誰もが丁寧に応じ、よく帰ってきてくれた、さすがは周一郎様と褒めそやす。大悟も満足気に頷く。が、誰も周一郎に触れようとはしない。疲れ切っている周一郎に、着替え、食事、ベッドはすぐに用意される。だが、誰も「大丈夫か」の一言を掛けはしない。「怖かっただろう」と慰めはしない。着替えて食事を摂り、ベッドに倒れ込む、その一瞬、優しい虚ろが周一郎を誘い込んでいくぎりぎりの一瞬まで、周一郎は気を張り続ける、周囲の声や視線に崩れてしまうまい、と。

 10歳の子ども、だったのだ。どれほど才能があり、どれほど力を備えていようとも、周一郎自身は10歳の子どもだったのだ。なのに、それに誰も気づかなかった。周一郎が欲しがったのは、賞賛のことばや満足気な頷きではない。連れ去られた心配、無茶をしたことへの叱責、怪我の有無を直接確かめる温かい手、そしてしがみつき声を上げて泣きじゃくれる誰かの体、だったのだ。

 そんなものはない、そんなものは始めからなかった、そんなことは期待していない、そんなことは始めっから期待していない………ベッドの中で周一郎は繰り返し呟く、自分に言い聞かせるように、繰り返し繰り返し………どんどん大きくなっていく、人の温もりを求める切なさをじっと耐え続けながら、長い夜を一人で過ごす………冷えたベッドで身を竦める……力の限り歯を食い縛り、眉根を寄せて堪えながら目を閉じる……。

 ふと、昨夜、俺にしがみついていた周一郎の、俺の腕を掴んだ手の力を思い出していた。

「…だが、誤解してもらっては困る」

 木暮の声が唐突に響いて、はっとした。

「昨日の一件は、こちらの仕掛けたものじゃない」

「え?」

「彼女を動かしたのは、余計なところに警察の焦点を集めたくなかったからだ。あの娘がコーヒーを運んだのは確かだが、それまでコーヒーカップは調理場にあった。窓もドアも開いていたし、入れようと思えば誰にだって入れられる。第一別荘で毒殺なんて、あまりにもチャチじゃないか。私も慈も、周一郎を叩く以上徹底的にやるつもりだ。仕掛けとわかるようなヘマはしないよ」

「じゃあ、あの予告状はなんだよ」

 俺は噛みついた。

「知らんとは言わさんぞ。『九龍』の名があった」

「ああ…あれか」

 木暮はにやりとふてぶてしい笑みを浮かべた。

「何、ちょっとした宣戦布告さ。こちらの策に十分に自信があるんでね。こうしているうちにも、私達の配下が刻一刻、朝倉財閥を攻略中だ。命運を決するのは間も無くだよ」

「周一郎を『後、何日』なんて脅しつけておいて、か」

「『後、何日』?」

 木暮は訝し気に眉をひそめた。

「何だ、それは?」

「とぼけるなよ」

 俺は、様にならないまでも凄んで見せた。

「予告状を送りつけてきているじゃないか。『後、10日』とか『後、7日』とか」

「いや…知らんな」

 木暮は顎に手を当てた。考え込んだ目の色は、どうやら嘘や芝居じゃないらしい。

「第一、そんな子ども騙しで、周一郎が怯えるなんて思っていないよ」

 確かに言われれば、その通りだ。周一郎ほどになれば、ああいう類なぞ暑中見舞いに年賀状、残暑見舞いにクリスマスカード並みに来たっておかしくない。それが来ないというのは、朝倉家を怖がっているか、木暮のように『朝倉周一郎』には意味がないとわかっているか、だからだろう。

「そんな予告状が来ている、のか……?」

 木暮が無謀な奴だなと言いたげな口調で唸った。

 とすると……どういうことなんだ? 周一郎はもう一つ、別口に命を狙われているのか?

 ぐ…ううううーっ!

「……」

 突然響いた腹の虫に、しばらく俺達は見つめ合っていた。やがて、木暮が堪えきれぬように吹き出す。

「………ぷっ」

「っ」

「わかったよ、こちらへ料理を持って来させよう」

「う…」

(こ、この、アホ腹っ!! 主人がシリアス・シーンを展開している時ぐらい、職務を忘れろっ!!!)

 心の中で思いっきり自分の胃袋を罵倒した。木暮がくつくつ笑いながら、シャンパングラス片手にインターホンに向かう。くい、と軽くシャンパンを空け、木暮は受話器を取り上げた。

「ああ…木暮だ。料理を少しここへ………ぐ…っ…」

「?」

 笑みを含んだ声が突然呻き声に変わり、俺は振り返った。よろめいて棚に手をついた木暮が、ゆっくり俺を振り向く。相手の唇の端から、つうっと鮮やかな紅が這い降りるのに目を奪われた俺の前で、木暮は震える手で体を支え、もう一度呻いた。押し倒されたシャンパングラスが転がり、床に落ちて砕け散る。

「滝…く……君…毒を……」

「は?」

「は…ぐうっ!」

 木暮はびくんと体をのけぞらせて四肢を激しく震わせた。そのまま妙にゆっくり、スローモーションのように崩れ落ちる。強張った右手が、掴んだ受話器のコードを引き千切り、体に巻き込まれるようにずるずると床に落ちた。

「え……あ……木暮…?」

 目の前で起こったことがどうにも理解出来ず、俺は動かなくなってしまった木暮に恐る恐る近づいた。精悍な顔立ちの下半分を濡らした紅は、ダーク・グレイのスーツにも点々と散っている。ぼんやり半眼になった瞳は、俺が近づいてもぴくりとも動かない。

「おい…」

 俺はしゃがみ込み、そっと肩を掴んで揺さぶった。

「木ぐ…!」

 ぐらぐらと頼りなく揺れた頭が、ガクン、と落ちる。ぎょっとして離した手でそうっと手首を握ったが、そこにあるはずの拍動は触れなかった。凍てついたように強張った胸は上下せず、顔色は次第に青ざめてきている。

「死…んでるんだな、やっぱり……うん……これは……。うん、きれいに死んでる。立派に死んでる。見事に死んで……ぎゃわ!」

 木暮の死体の側で、死に方をあれこれ批評していた俺は、突然指に走った痛みに飛び上がった。

「ル…ルトぉ…」

「にぎゃ、にゃっ!」

 何、惚けてやがる、さっさと来いよ、そう言いたげにルトは、とっとっと、とドアの方へ走っていった。ドアの所で俺を振り返り、立てた青灰色の尻尾を、くるり、くるり、と回す。

「にゃい!」

「にゃいって…あ、そーか、鍵……」

 俺は危なっかしく立ち上がった。肝心なところに来ると、大笑いをする笑い上戸の膝が、今度も早速笑い始めている。のたのたしている俺を、ルトは苛ついたように駆け戻ってきて、ズボンの裾を咥えて引っ張った。

「急げってのか? なんでだよ? 木暮は『あれ以上』死なんぞ?」

「ににゃにゃっ!! にゃんにゃあおにゃお……にゃっ!!」

「え?」

 『猫語』で俺に抗議していたルトは、不意に声の調子を変えた。それが警告のように聞こえて、俺は背後を振り返ろうとした。が、時、既に遅し、次の瞬間、頭が潰れたかと思うほどの衝撃が襲った。

(え…? …誰が……?)

 思ったことは頭の隅で虹色のシャンパンに溶け、俺は深い夜にずり落ちていった。


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