編集者は誰か
相沢七海は、掲示板の画面を閉じられなかった。
深夜一時十二分。
編集部には彼女しかいない。
モニターに表示されたスレッド。
投稿者:M
半音、低くないですか?
その下に、見覚えのある文章。
0番線を見た
風が止まる
戻ろうとしたら声がした
七海の呼吸が浅くなる。
これは、真壁の原稿にあった一文だ。
だが掲示板のログの日付は十年前になっている。
矛盾している。
原稿が引用したのではない。
掲示板が、原稿を引用している。
七海は背筋を伸ばす。
ありえない。
真壁がログを改変した?
だが、なぜ?
売り出す前の原稿を、誰が知っている?
照合
七海は原稿ファイルを開く。
検索窓に「半音」と入力。
ヒット件数:0
スクロールする。
確かにあったはずの文章が、消えている。
代わりに、別の一文。
編集者はまだ、自分が外側にいると思っている。
七海は椅子を引いた。
こんな文章は書いていない。
真壁からも受け取っていない。
履歴を確認する。
更新者:M
七海は凍りつく。
M?
真壁のアカウント名ではない。
社内の誰でもない。
ファイルの更新時刻は、三分前。
七海はこの間、掲示板を見ていた。
その三分間で、
原稿が書き換えられている。
共通点
七海はノートを開き、整理する。
・掲示板の投稿者:M
・原稿の更新者:M
・投稿内容と原稿内容が一致
・真壁は行方不明
そして、気づく。
真壁のフルネーム。
真壁 遼
ローマ字にする。
Makabe Ryo
頭文字。
M
偶然だ。
イニシャルなど、いくらでも一致する。
だが七海の手は止まらない。
自分の名前を書く。
Aizawa Nanami
頭文字。
A N
違う。
だが、ふと別の綴りを思い出す。
Nanami Aizawa
N A
違う。
違うはずだ。
なのに、喉の奥が冷える。
再生
七海は研究室から送られてきた音声データを再生する。
真壁の実験録音。
発車ベル。
通常音。
1046Hz。
次のファイル。
問題の録音。
1042Hz。
わずかな低下。
だが、その後ろに微細なノイズがある。
七海はヘッドホンをつける。
波形を拡大する。
ノイズ部分を切り出す。
再生。
「観測者ですか」
七海はヘッドホンを外す。
息が荒い。
自分の声に聞こえた。
いや、違う。
似ているだけだ。
似ているだけ。
決定的瞬間
七海のスマートフォンが震える。
非通知。
出ない。
だが留守番電話が入る。
再生。
無音。
十秒。
十五秒。
その後、
発車ベル。
半音、低い。
そして小さく。
「七海さん」
七海は立ち上がる。
編集部の窓の外を見る。
終電の一本前。
ホームが見える。
表示板。
距離があるのに、なぜかはっきり見える。
1
2
3
その下。
空白。
一瞬だけ、文字が浮かぶ。
N
すぐ消える。
七海は理解する。
Mは、人物ではない。
Mは、Marker。
観測点。
立った者のイニシャルが刻まれる。
真壁はMになった。
掲示板のMは、固定された観測者。
そして今。
表示板に浮かんだのは、N。
自分だ。
接続
七海は掲示板を更新する。
新しい投稿。
M4
次はNだね
投稿時刻は一分前。
七海は書き込んでいない。
画面下にカーソルが点滅している。
名前欄。
自動入力。
N
七海は気づく。
原稿ファイル名。
kisaragi_0_01.docx
0 は観測点。
01 は最初の固定者。
M1。
次は?
02。
七海の画面右下。
保存履歴。
kisaragi_0_02.docx
自動生成されている。
選択
七海は立ち上がる。
編集部を出る。
向かう先は決まっている。
例の駅。
終電の一本前。
ベルが鳴る時間。
もし行かなければ、
物語は原稿の中で閉じる。
だが行けば、
観測は現実と接続する。
七海はエレベーターに乗る。
扉が閉まる瞬間、
モニターの掲示板が更新される。
N
戻ろうとした?




