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第九十六話

更新が遅れてすいません。しかも、誤字脱字のチェックが終わっていないので読み辛い所もあるかもしれませんが、何とか書けたので投稿します。

「あけましておめでとうござります。」


「「「「「「「「「「おめでとうござります。」」」」」」」」」」


「うん、おめでとう。昨年の年明けに伊勢に入り、私が北畠の当主となって皆も戸惑ったことが多かった事だろう。その中で、伊賀の臣従、尾張で起こった一向門徒の一揆鎮圧、そして近衛関白様を当家にお招きする事が出来た。皆には何かと苦労を掛けたと思う。

皆の働きに満足している。」


元亀五年、年が明け北畠家の新年は、木造左近衛中将義叔父上の第一声に続く家臣一同による新年の挨拶から始まった。

昨年の年明け早々に北畠家の入り婿として養子に入り、当主となって腰を落ち着ける間も無いまま伊賀の忍び衆を配下に加え、尾張で起きた一向一揆を鎮圧し、更に近衛関白を伊勢に呼んだ。

その過程で、越前で起きた一向門徒の乱入から始まった戦は堅田・本福寺の銭に目が眩み助力を買って出た叡山と浅井備前守と六角左京大夫兄上が率いる軍との睨み合いを知った近衛関白が丹波から伊勢に向かう道中に立ち寄った都で、帝に奏上を行い、その奏上を切っ掛けとして朝廷と帝は叡山との関りを絶った。それを見た公方・足利義昭は慌てて叡山と対峙する浅井備前守と六角左京大夫兄上に対し『叡山の討伐』の命を降し、比叡山に広がる延暦寺をはじめとした天台宗の仏閣全てが焼き払われ。都において叡山の乱行ぶりが公にされ、六条河原で叡山の僧侶に対する処罰が下される様を都の者たちの目に曝された事で叡山の権威は失墜し、近江は浅井家と六角家に平らかに治められる地となった。

 この戦で、名を上げたのは約定通り加賀の一向門徒が越前に乱入すると即座に軍を率いて一向門徒の本拠地である尾山御坊を囲み、降伏させた織田弾正忠信長と、弾正忠の背後を脅かそうと長島の願証寺が起こした一向一揆を小木江城に籠城し援軍が来るまで奮戦した織田彦七郎信興と援軍に駆け付けた俺・北畠兵庫頭信顕。

越前で起きた一揆に際し援軍を送り、自身は堅田・本福寺が起こした一揆の対応に動いた浅井備前守長政とその備前守に協力し一揆鎮圧に尽力した六角左京大夫信賢。そして当主不在の中、迫る一向門徒に対し家中を纏めて一揆勢を吉崎御坊跡で押し留めた朝倉式部大輔景鏡と援軍に駆け付けた浅井新十郎治政であった。

特に、浅井家は公方・義昭の命を受け越前朝倉家の上洛に尽力し、上洛の最中に起きた一向門徒による越前乱入に際してもいち早く動き、叡山の乱行を明らかにそれを正した事で民衆からの喝采を受ける事となった。

一方、権威を失墜させた叡山はもちろんの事、義昭の求めに応じて上洛した朝倉左衛門督義景は、一向門徒による越前乱入が起きても国元には戻らず都に留まり続け、国元に戻ったのは式部大輔景鏡と新十郎治政によって一向門徒を吉崎御坊跡へ押し込める事に成功した後のことであった。

この頃、既に水面下では門徒側と朝倉家側とで和睦に向けての話し合いが進められていたが、当主不在の中での和睦締結とは行かず、左衛門督の帰りを一日千秋の思いで待っていた。そんな中戻って来た左衛門督は、水面下で進めていた門徒側との和睦交渉を破棄し、吉崎御坊跡に籠る一向門徒を根切り(皆殺し)せんと軍を動かそうとした。しかし、稲の刈り入れが間近に迫っていた為に左衛門督の下知に従う国人は極少数となり、結果的には左衛門督の面目を失うだけの事となり、当初から行われていた和睦交渉の下に、一向門徒は軍を解散し越前において一揆は起こさないと約束をする代わりに、吉崎御坊の再建を朝倉家が認める事となった。

また、公方・義昭も自らが求めた上洛が騒乱の種となったのだが、事態収拾のためには何一つ手を打つことが出来なかった。帝が関白の奏上を受けて叡山の座主の座に就いていた御舎弟・覚恕に対し叡山の座主の座を降りる様にと御言葉を告げた事で、ようやく重い腰を上げて浅井備前守と六角左京大夫兄上に対して叡山討伐の命を出した為に、公方としての覚悟も役割も弁えぬ者と都の民衆に噂される様になり面目を失った。

この事で、それまで抱いていた関白に対する敵愾心に加え、此度の戦によって名を上げた織田弾正忠をはじめとした者たちに対し悪心を抱き、甲斐の武田徳栄軒信玄に対して上洛をするようにと、内儀書を出したことが分かった。

この報せは、俺と共に関白を丹波まで迎えに向かった千賀地次右衛門保元の配下の者によって齎された。

というのも、丹波から伊勢に向かう道中で立ち寄った都にて帝への奏上を行った関白の動きを知った公方・義昭と二条太閤晴良は、政敵である近衛関白の捕縛に動いたのだ。しかし関白が滞在する都の北畠家の屋敷に詰めていた北畠の兵によって、公方と二条太閤の差し向けた兵は追い返された。その事を知った公方に俺と養父・不智斎は呼び出されたが、公方からの関白の引き渡し要求を拒否した事で、公方が良からぬ事を企むのではと思い次右衛門に探るよう命じておいたからだ。

案の定、公方は武田徳栄軒に上洛を命じた。更に、武田家の上洛に合わせて摂津の本願寺光佐顕如に再び願証寺に対して尾張と伊勢で一揆を起こすように、と持ち掛けていたのだ。

この動きを知るのは俺だけではなく関白も掴んでおり、この公方の動きに対して帝も御不快であらせられるという。

史実でもこの流れにより室町幕府は滅亡する事となるのだが、此度は織田と浅井の同盟は健在であり更に六角家と北畠家も織田家と共に動く体制が整っている。

この状況の中で、公方からの内儀書を受け取ったとは言え武田徳栄軒が動くのか分からなかった。

そこで、百地丹波守に命じて武田と本願寺の動きを探らせると、この師走に高遠城に入っていた徳栄軒の四男、諏訪四郎勝頼が甲斐に戻されたと言う。

史実でも、徳栄軒は上洛に際して庶子である四郎勝頼を伴わせている。その事を踏まえると、徳栄軒は上洛する事を決めたと見て間違いないだろう。

本願寺でも、公方からの内儀書に激高する僧たちを顕如が抑えて、この師走に願証寺へ僧を派遣したと言うからこちらもやる気なのだろう。しかし、令和の時代には僧侶は我欲を抑え徳を積んだ者というイメージがあったが、この戦国の世では己の欲に忠実で、御仏の教えも信者(門徒)も己の欲の為に使い潰すのを良しとしている僧侶が多い様に見え、その代表と言うべき者が本願寺光佐顕如の様に感じる。

この様な者を相手にして史実の信長も戦ったのだと考えると、信長の憤りが分かる様な気がする。

元々織田家は北陸に在る剣神社の神主の出で、神仏に対しても誠実にあり。父・信長だけでなく祖父・信秀も伊勢の神宮に多額の寄進を行っている。

そんな信長が史実で叡山や本願寺と敵対したのには、仏を仏とも思わぬ戦国の世の僧侶に対する義憤がその根底にあったからかもしれない。

 と、まぁ武田と本願寺、そして都の公方の動きについては伊賀の忍び衆の働きにより大凡掴めていた。

この動きに対して、俺も備えを整えなければならないのだが如何せん北畠の当主となってまだ一年経っていない俺が如何したら・・・と史実の俺《信雄》ならば思い悩むところなのだが、織田家からの婿養子である俺に対して北畠家の者たちは史実では考えられないほどに従順というか、協力的だった。

なにせ、大湊では九鬼孫四郎の指揮の下、水軍力の増強が図られ大湊製の和製南蛮船の建造も既に始まっており、この春には就航が予定されている。それに合わせて、孫四郎の旗下に入った志摩の海賊衆たちも九鬼水軍と共に和製南蛮船の操船技術取得に動いており、操船技術を身に着けはじめているという。

さらに、北畠家の内政では前田蔵人利久と小野和泉守政次がその腕を振るい、三河から導入した綿花と茶ノ木を伊勢の各地に植え、綿花は秋に最初の収穫に成功し種の採取も行ったとの事だった。

収穫した綿は農閑期に入った領民を使い既に紡ぎ綿糸への加工まで成功させていた。もっとも、初年度の収穫量は植えた綿花自体が少なかったため需要を満たす程の量ではなかったが、水持ちの悪い水田に向かない畑地でも栽培が可能で、金になる可能性が高いと気付いた国人や領民・商人には来季の作付面積を増やそうと考える者が現れているという。

 伊賀では、臣従の際に約した椎茸の栽培方法と培養法による硝石の製造方法が玄衛門ら山の民から伝授された。さらに登り窯を用いた焼き物の製造も試験的に始められた。

椎茸の栽培は最低でもニ・三年しないと収穫まではこぎ着けない為、未だ成果としては目に見えないが、焼き物に関しては既に焼き物に適した土が織田家から派遣してもらった職人の手によって発見されており、俺の伝えた登り窯による製造が行われた為、伊賀の者たちも臣従すると決めた村長をはじめ、忍び衆を取り纏める三忍の判断を『是』として落ち着いている様だ。

また、大湊には福島与左衛門や加藤正左衛門といった職人が熱田より到着しており、改良型の火縄銃とその火縄銃に取り付ける銃槍や木砲(清兵衛砲)、携帯砲(与左衛門筒)の製造を開始させていた。

その為北畠領内では民衆からの不満の声は聞こえず、各々の領地を国人衆も穏やかな新年が迎えられた様で、霧山御所の大広間に集まった者の多くが笑みを浮かべていた。

そんな家臣たちからの新年の挨拶に俺も笑顔で応え、


「昨年は何かと慌ただしい一年であった。しかし、皆のおかげで北畠領内は落ち着き、民百姓も穏やかに歳神様を御迎えし、新年を祝っていることを嬉しく思う。

されど、今は戦国乱世。何があってもおかしくはない、事が起こって慌てぬ様に日頃からの備えや鍛錬を欠かさず、領民が滞りなく暮らせるように力を尽くせ!」


「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」


続く俺の言葉に、家臣たちは表情を引き締めると気合の入った声で返事を返した。

その姿に俺は大きく頷き、


「堅苦しい挨拶はこの辺にしよう。宴の支度は出来ている、皆で大いに飲み語らい新たな年を寿ぐことと致そう。」


俺の言葉に合わせ、手に肴と酒を持った女中たちが大広間に入り家臣一人一人の前に肴と酒を並べて行った。

肴には栗や豆の煮ものに昆布の煮しめなど令和の世でお節料理とされる物を中心に、鮑に旨煮や鯛の塩焼きと言った魚介類に、鴨の燻製と言った俺が尾張で食していた肉料理も用意した。そして、


「お、おいこれは・・・」


銘々が平盃に注いだ酒が普段口にしている白濁の濁り酒ではなく透き通った清酒だったために水と勘違いしたのか戸惑いの表情を浮かべたが、清酒が放つ酒の匂いに驚きの声が上がった。


「この酒は、皆に分け与えた綿花の種を提供してくれた三河の徳川殿の御領地で紡がれた綿を袋にし、その中に伊勢で醸した濁り酒を入れて濾過した物で、新年を寿ぐに際し、皆に饗して貰おうと用意した物だ。皆の綿花が多く産する様になれば、この様な物も生み出す事が出来る。その事を知ってもらおうと用意した。

では改めて、新年おめでとう!乾杯!!」


「「「「「「「「「「乾杯!!」」」」」」」」」」


俺の発声に合わせて家臣一同平盃を掲げた後、俺が盃を干す姿を横目に各々盃を口にした途端、目を見開き一気に盃を干し、


「美味い!なんじゃこの酒は、これまで飲んでいた酒と比べものにならぬ!!」


「雑味が少なく何という良き飲み心地じゃ。」


「こんな酒を飲んでしまったら、もう以前の濁り酒など飲めなくなってしまうぞ!」


「如何にも、これは参った。しかも、透き通った酒に盃の底に描かれた御家の御紋が透けて見え、なんと雅な事か…。」


と口にした精酒の味に感嘆を漏らす者や、平盃の底に描かれている北畠家の笹竜胆の家紋が清酒を透かして見える事に驚きの声を上げる者などが多くおおむね好評の様だった。俺をその姿を確認して、


「皆の期待を裏切るようで申し訳ないが、今はまだ少量しか清酒を作ることは出来ぬ。しかし、この伊勢でも綿花を栽培し綿が多く取れる様になれば、皆が飲むのに十分な清酒が作れよう。さらに、伊勢で作った清酒を都や他の領地へ持って行けば高く売れるに違いない。

それだけではないぞ、昨年は収穫とは行かなかったが茶ノ木が茶の葉を採取するに十分の大きさに育てば、其の方達が嗜む茶の湯に用いる茶を産み出し、更に尾張や美濃などで好まれている棒茶も口にする事が出来よう。それらも他領に運べば、多くの者が銭を出し買う事であろう。その様にして伊勢で生み出した産物を都をはじめ他の領地に運ぶことで銭を産み出し、その銭で戦国乱世を生き抜くために必要な戦の備えを整える事が出来る。

この伊勢が、北畠家が戦国乱世を生き残るには戦働きだけでなく、産物を産み出し銭を得ることも肝要となる。その事を肝に命じ、この後も皆には励んでもらいたい。

よろしく頼む!」


と軽く頭を下げた。

そんな俺の行動に大広間にいた家臣たちは慌てふためき、俺に如何返していいものかと途方に暮れる中、


「御本所様、我ら家臣にその様に頭を下げるなどお止め下され。我ら北畠家家臣一同、御本所様の御心に副い戦場であろうと、領内の仕置きであろうと付き従う覚悟にござります。

確かに、御本所様がご懸念されます通りこれまでは“武士が銭勘定など…”と考える者も多くいた事は間違いの無い事実。されど、御本所様が北畠家の御当主となられて様々な事を御自ら汗を流されて取り組まれたその御姿を目の当たりにし、成し遂げられた物を見せつけられた上は、御本所様の御考えを蔑ろにする様な者は北畠家家中にはおりませぬ。

無論、御本所様の申された事をただ鵜吞みにし盲目的に付き従うなど不忠の極み。我らも御本所様に倣い、己で考える事を増やし御本所様の御考えをより確かな物にするよう努める所存にござります!」


そう声を上げたのは、大河内相模守教通だった。大河内相模守は俺が北畠家の当主に就いた際に、軍旗を七如の旗とする事を告げた際も敢えて発言し、その場に集まる者たちに俺の真意が伝わる様に水を向けた知恵者で、先の長島一向一揆の際には織田家の母衣衆として長柄足軽隊の運用を熟知していた長谷川右近、山口飛騨守、加藤弥三郎と共に長柄足軽隊を率い、他の三名に勝るとも劣らない差配をしてみせた文武に優れた将で、ゆくゆくは俺の腹心の一人に加えたいと考えていた人物だった。

そんな相模守が、俺の真意を確実に読み取り他の家臣にも理解し易い様に告げてくれた事に、改めてその意を強くした。


「相模守よく言ってくれた。皆の者、北畠家の当主でありながら軽々に首を垂れた事、相済まぬ。

昨年は大変な一年ではあったが、本年も昨年に勝るとも劣らぬ年となるやもしれぬ。しかし、皆でこの伊勢を守り栄えるよう努めようぞ!」


「「「「「「「「「「応っ!」」」」」」」」」」

俺の言葉に一斉に応える家臣の姿に感じるものはあったが、その気持ちを手に掲げた平盃を干すと共にグッと呑み込み笑顔を見せると、皆も同じように平盃を干して笑みを浮かべ周りの者たちと語らい、北畠家の新年は和やかな中にも活気に満ちたものとなったのだった。


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