第九十話 比叡山焼き討ち その四
すいません。
今回は非常に難産でした。公家が絡んでくると難しくなりますね。
「お初にお目に掛かります、荻野悪左衛門直正にござりまする。伊勢から遠路ご苦労にござりまする。」
近衛関白を御迎えするため丹波国・黒井城の下館へ出向いた俺達を出迎えたのは黒井城の城主・萩野悪左衛門その人だった。
俺が生まれるより前の事だが、直正は当時黒井城の城主であった外舅の萩野伊予守秋清を年賀の席で殺害し黒井城を乗っ取った。それ以降『悪左衛門』を名乗るようになったようだ。齢四十も半ばを超えた男は、その名とは異なり穏やかな表情を浮かべ俺達を出迎えた。
だが、その表情に騙される訳にはいかない。何故ならこの男は丹波国攻略の兵を挙げた三好長慶の武将・内藤備前守宗勝(松永久秀の実弟)と戦い一度は敗れたものの、機を狙い若狭国で越前朝倉家から助力を得た武田家との合戦で敗れた内藤宗勝の隙を突き領地を奪還。最終的には内藤宗勝を討ち取ると言う金星を挙げ丹波の地から三好の勢力を一掃した名うての戦国大名だからだ。
史実では、西国に勢力を伸ばそうとした父・信長とも争い、最終的にはその軍門に降るも丹波攻略の指揮を取った明智十兵衛光秀を一時退却させた男。侮ることなどは出来なかった。
「これは悪左衛門殿、北畠兵庫頭信顕にござります。黒井城の御城主自らの出迎えかたじけのうござりまする。」
そう返す俺を値踏みするように見つめる悪左衛門。と僅かな間が空いた後に、頬を微かに歪めた悪左衛門は、
「関白様は此方にて兵庫頭様の御到着をお待ちいたしておられますぞ。」
そう言って下館の中へと俺達を招き入れた。
悪左衛門に招かれて向かった先は下館の中央に位置する広間で、広間には既に護衛と思しき直垂姿の武士を従えた狩衣を纏った男が広間に面する庭を眺めていた。
狩衣は公家が普段着として纏う衣装のため、男が公家であることは一目で分かるのだが、その顔付きは精悍であり岐阜城で見た義昭よりも武に通じている様に感じさせるものがあった。
もっとも、それは致し方ない事なのかもしれない。義昭は幼い頃に仏門に入り兄・義輝が弑逆させるまでは坊主として生活をし、その後も自らの足で戦場に立つことなく父・信長に担がれて上洛し将軍位についただけで、武士としての素養は無いに等しい。
それに比べ、従一位近衛関白左大臣前久は越後の長尾景虎(上杉謙信)と盟約を交わし越後に下向。
景虎の関東出兵に同道し、下総国渡良瀬川東岸に築かれた古河城に入り、景虎が越後に帰国しても城に残り関東に睨みを利かせるという公家らしからぬ武威を示した人物だ。
残念ながら、武田と北条による二面作戦によって景虎の関東平定が立ち行かなくなったため失意の内に帰洛したものの、義昭とは比べ物にならぬ武人と言えるだろう。
そんな近衛関白の姿に俺の足は自然と早くなり、案内役の悪左衛門を追い抜き関白の傍らに片膝を付いていた。
「はじめての御意を得ます。伊勢の国司、北畠兵庫頭信顕にござりまする。」
「ほぉ。其の方が、北畠権中納言から是非にと請われて伊勢の国司となった兵庫頭におじゃるか。権中納言が請うのも無理からぬ益荒男の様でおじゃるな…お~ほっほっほっほ。」
名乗りを上げた俺を見た関白は満足気に笑みを浮かべると機嫌よく笑い声を上げた。しかし、その目は油断なく俺の表情を伺っていた。その様子は正に都に跋扈する海千山千の狐狸《公家》そのものだった。
そんな関白の雰囲気に背中に冷たい汗が流れる様な感覚を覚え、この場は既に刃を交えぬ戦場なのだと実感させられた。
「関白様の御耳にもその様に伝わっていること、恥ずかしき限りにござります。まだまだ、未熟者ゆえ御養父上には何かと教えを乞う日々にて、この後は関白様にも多くの事を学ばせていたたきたく…。」
殊勝な物言いの俺をジッと見た関白は相好を崩すと、
「お~ほっほっほっほっほっほ。世に“今翼徳”と謳われる兵庫頭が麿に教えを乞うとは嬉しき事におじゃりまする。麿で良ければ幾らでも…例えば叡山で起きておる騒動についても。」
そう語る関白はやはり一筋縄でいかぬ御方だと思い知らされた。一体どうやって知ったのかは分からないが、関白は近江で起きている比叡山と浅井家との争いを耳にしていた様だ。しかも、それを利用しようとしている事は容易に察せられた。
まぁ、俺も関白にこの件について手を貸してもらうつもりだったから、渡りに船と言ったところか。
もっとも、安易に関白の口車に乗ると大火傷をすることになるだろうから、用心はしなければならないだろうが、此処か敢えて火中に飛び込むが吉!
「流石は関白様。もう叡山での事をお知りになられていること兵庫頭、感服仕りました。お言葉の通り近江の浅井備中守様と叡山との間は一触即発の状態にござります。
ですが、比叡山座主・金蓮院准后覚恕様は叡山を離れて都に居られるとの事にて、もし備前守様が叡山を攻められたとしても帝の御舎弟様に害が及ぶ事が無いのは何よりにござります。
古の叡山は仏の教えを教え導く日ノ本第一の寺院でござりましたが、それも昔の話。今では叡山のお膝元である坂本の町にてその本分を忘れ、天道の畏れをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し放蕩に耽り、それを窘める者には武力で以て脅す、その所業は仏道に携わる者に非ず。
此度の騒動も、天下静謐の為に越前の朝倉左衛門督様がご上洛したその隙を狙い加賀の一向門徒が越前に乱入した事がそもそもの始まり。
その一向門徒どもの動きを抑える為、我が父・織田弾正忠をはじめ六角左京大夫様や備前守様は動かれた。そんな備前守様に対し叡山は一向門徒からの銭に目が眩み横槍を入れたのでござります。
この叡山の所業を関白様は如何御考えにござりましょうか!」
公家に対するならば本来ならもっと遠回しに物を言うべきところだが、最初に感じた近衛関白から醸し出されるモノを信じ、単刀直入に関白へ問いをぶつけた。
そんな俺の物言いに目を剥き声を上げようとしたのは悪左衛門であり、当の関白はそんな悪左衛門に対し手を掲げて制すると、
「兵庫頭はお若いだけあって物応じせぬな。それでこそ“今翼徳”よ!と言いたいところなれど、麿は良いとしても他の公家にはその様な物言いは不遜と謗られよう、気をつけねばならぬぞよ。
それで、叡山についてじゃったな。麿も叡山の乱行ぶりには目に余る物があると考えておじゃる。畏れ多くも帝に対し奉り、御仏の道を説く者である筈の僧侶が手に武具を携え強訴に及び己が要求を通させようとすることもしばしば。この様な事は本来あってはならぬ事におじゃります。此度の一件も帝が願う天下静謐に向けて動いていたところへの横槍。天下の鎮守を御仏に誓願せねばならぬ叡山にあるまじき行為におじゃる。」
関白のその言葉に、俺は大きく頷き畳み掛ける様に口を開いた。
「応仁の大乱より既に百年を数えるも天下は乱れ、畏れ多くも帝から民草に至るまで、塗炭の苦しみの中で藻掻いております。
にも拘らず叡山は淫乱、魚食飲酒に溺れ、鎮守の寺院たる本来の役目を蔑ろに致しております。
言うなれば、叡山の乱行が天下の騒乱を招いたとも申せましょう。
更に此度おこした天下静謐を妨げる暴挙に至りては弁解の余地はございますまい。その叡山に浅井備前守様はその責を問うておられるのです。
関白様!備前守様への御力添え、某はそれが帝の意にも沿う物なのではないかと愚考致しまする。」
俺が強い口調で言い切ると、関白は生唾をゴクリと飲み俺の顔をジッと見つめて来た。
その目は怒りや憤りなどと言ったものは全く感じなかったが、俺の心の奥底を覗き込むような静かさの中に強さを感じた。そして、
「兵庫頭、お主に問う。帝と朝廷を如何するつもりでおじゃる?お主は…織田弾正忠は何を考えておるのでおじゃる。」
その言葉には長年に渡り帝を傍らで支えて来た、帝の側近にして朝廷の第一人者としての矜持が込められている様に感じた。
俺は腹に力を入れ直し、
「問いに問いを返す非礼をお許し下さいませ。関白様は帝と朝廷に今一度権力を手にし、日ノ本を従える事をお望みか?
それとも、権威をもって民から敬拝を受ける事を望まれるか?」
俺の言葉に息を呑む関白に対し、脇に控えていた悪左衛門は物凄い形相で腰に差す脇差へ手を伸ばし今にも俺に斬り掛らんとしたが、それを察した関白が声を上げた。
「控えよ悪左衛門!」
「し、しかし…」
「控えよ。麿と兵庫頭はこの後の帝と朝廷…いや、日ノ本について語らっておるのじゃ。それが分らぬかぁ!」
関白の一喝に悪左衛門は慌ててその場に平伏した。
「兵庫頭。麿もそして帝も日ノ本を従えようなどと思ったことはただの一度もない。
承久の御代の変を境に、日ノ本を治めるには武力を必要とする世と定まってしまった。それでも帝は応仁の大乱によって乱れた日ノ本が鎮まる事を望まれ、祈りの日々を過ごされておじゃる。麿はそんな帝の御傍に在って、御心に副いたい。それだけなのでおじゃる…」
その言葉に俺は関白のこれまでの行動が全て帝の思いに副うためのものだったことを知った。
武力を持たぬ公家でありながら、公家が最も忌み嫌う穢れ多き戦場に出向いたのは、日ノ本の静謐を願う帝の想いを成就させねばと足掻き続けた末の事だったのだと…。
そんな関白の吐露は俺の心に来るものがあった。
「関白様。帝や関白様が権力を欲しておられると申された時には如何して御諫め致そうかと思っておりましたが、日ノ本の静謐を望まれていると知り安堵いたしました。
権力などと言うものは移ろい易きモノ、その様な者に帝や関白様をはじめとした朝廷の皆々様は関わらぬが宜しいかと存じまする。帝も朝廷もこの日ノ本にとって替えの利かぬ御方達なのですから…」
とここで一旦言葉を切り関白を伺うと、関白は俺の言葉に安堵したのか僅かではあったが、表情を緩めた。それを見てすかさず、
「それに比べ、本来は俗世とは離れて仏の道を説き、民草を導く事こそが本貫である筈の叡山は本貫を外れて我欲に溺れ、武力を手にし民を従えようとしております。
なれば、叡山も我ら武士と同じく自ら移ろう者へとなったと言えましょう。その叡山を、討とうと備前守様が動いたとて何の責めがありましょうか!」
と叡山攻めを是とする言葉を俺が口にしたために、虚を突かれた関白は目を見開き顔色を悪くした。
俺がはっきりと叡山攻めは“是”であると関白の前で口にしたという事は、俺が関白に対し叡山攻めの為に手を貸すように要求してくることは火を見るより明らかだったからだ。
かといって、長尾景虎が関東出兵に際し関白を同道させたような事は一切考えていない為、表情を引きつらせる関白に対し僅かに微笑んで見せて、
「とは言え、帝の御舎弟様に弓引く事など畏れ多く、また不測の事態が起きてしまえば取り返しのつかぬ事になってしまいます。その様な事が万に一つも起きぬ様に、未だ都に留まっておられる覚恕様を叡山に返さぬ様にご説得いただけますよう、切に願い奉りまする。」
そう告げてその場に平伏してみせると、関白から張り詰めていた緊張が緩む気配を感じた。
口では叡山の乱行ぶりを非難したとしても、直に刃を交える戦場に連れて行かれるのではなく、叡山を攻めても備中守様が非難をされない様に宮中で働き掛けを願い出たため安堵した様だ。
「そうでおじゃるな。覚恕様にもしもの事があってはならぬことにおじゃる。その為には麿は都に戻らねばならぬ。」
「はい、既に都には養父上・不智斎天覚がその為に動いており、関白様が都にお越し下されるのを首を長くしてお待ちしておりましょう。
勿論、微力ながら某も関白様に同道し御身の回りの警護に当たらせていただきまする。どうかご存分の御働きを!」
俺の言葉に関白は大きく頷くと傍らに控えていた悪左衛門へと向き直り、
「悪左衛門。これまで都より落ちた麿を匿ってくれたこと感謝しておる。其の方の手助けによりこれまで生き延びる事が出来たのでおじゃる。
麿はこれより兵庫頭と共に都にて帝の御傍に参ろうと思う。悪左衛門、其の方も共に都へ参らぬか?」
これ迄世話になった悪左衛門に感謝の言葉を伝え、その上で共に都へと誘う関白だったが、悪左衛門は関白の言葉に首を振り、
「関白様の御世話が出来た事はこの悪左衛門にとって名誉な事。感謝される程の事はござりませぬ。また折角の御誘いではござりますが関白様の御傍に兵庫頭様がおられれば某の出る幕ではござりませぬ。この丹波の地にて関白様の大願が御成就されることをお祈りいたしております。」
と応じた。そんな悪左衛門に対し関白は悲し気な表情を浮かべたものの、それ以上は誘うことなく俺と共に丹波の地を後にしたのだった。




