第八十八話 比叡山焼き討ち その二
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近江国 高島郡朽木城 六角左京大夫信賢
「丹波守殿、備前守様は何と仰せになられておられるのですか?」
近江国滋賀郡堅田の本福寺に端を発した一向門徒による一揆は、備前守様の命により浅井の軍四千に加え、我が六角家から五千の兵によって鎧袖一触。瞬く間に高島郡から叩き出され、這う這うの体で堅田へと遁走した。
浅井の領地内には鉄砲鍛冶で名を馳せる国友村があるため、織田家ほどではないものの多くの鉄砲を手に入れており、兵の少なさを装備の充実によって補い高島郡に乱入していた一揆勢に痛烈な初撃を与える事で門徒どもの心を圧し折り、遁走させることに成功していた。
朽木城に籠城していた朽木谷の国人領主・朽木弥五郎と家臣たちも籠城の日々から解放され、安堵の表情を浮かべていた。そんな朽木家の者たちの様子を見ながら、この戦はこれで終了か…と思っていたのだが、朽木城に入られた備前守様は三日間の休息の後に一揆勢を追って堅田へ攻め入ると申されたのだ。
備前守様の言葉に私だけでなく此度の先鋒を仰せつかった磯野丹波守殿も驚かれたようで、その真意をお伺いするために備前守様の許へ赴かれておられたようだが、その表情はお世辞にも晴れやかとは言えぬものであった。
私の問い掛けに対し丹波守殿は、
「これは左京大夫様。殿は『我が領地である高島郡へ乱入し、あまつさえ公方様の為に用意された御座所を荒らし焼き討ちにするなど言語道断!一揆を唆した本福寺にその罪を問う!!』と申されて…」
「では、備前守様は真に堅田に攻め入る御所存にござりますか。堅田の近くには叡山がござります。もし、我等が堅田に迫った時、本福寺の一向門徒が叡山に助けを求めたら如何するおつもりにござりましょうか?」
私の問いに丹波守殿は眉間に浮かべた皺をより一層深くされて、
「某もその事を殿にお伺いしたのでござるが、元々叡山は本願寺と三代前の宗主・蓮如上人を“仏敵”と定めるほど険悪な間柄。そんな叡山が、本福寺の一向門徒の為に我等と事を構えるとは思えぬと申されまして。確かに、叡山と本願寺派との確執は根深い物がござりますので…」
と、自分自身に言い聞かせるように告げる丹波守殿の言葉に私は一抹の不安を感じた。
されど、私はあくまでも備前守様の手助けの為にこの場に赴いている立場。余り出過ぎた真似をして、浅井と六角との間にある因縁を掘り起こしては不味いと思い備前守様に従う事とした。
更に、此度の一向門徒による浅井領への乱入に対して、六角領から軍を発し一揆勢に迫るのならば、わざわざ浅井領を通り高島郡に向かうよりも、六角領の栗太郡から滋賀郡に入り堅田に迫った方が行軍の行程を考えれば理に適うのだが、その場合、滋賀郡にある叡山の寺領を通過する事となってしまう。そうなれば下手をすると叡山と事を構える事にもなりかねぬ為、その愚を犯さぬために敢えて遠回りをしたのだ。
同じ近江国で起きた戦。我等の動きを叡山が注視していない訳はなく、我等の配慮を汲んでくれるであろうという思いがあった。
三日後、備前守様の言葉通り浅井・六角の軍は朽木城を出陣。堅田を目指し進軍を開始した。
この動きに即座に反応したのは、堅田を拠点とする水軍衆であった。
堅田の水軍衆は古くから堅田を拠点とし、その水軍衆による水運・交易によって堅田は発展してきたのだが、発展する過程で堅田に商人や職人が住みついた。
堅田の商人や職人の多くは一向宗を信じ此度の一揆にも加担していたが、水軍衆は一向宗が堅田に入ってくる以前より臨済宗を信じており、此度の浅井家に対する一揆にも否定的であったようだ。そんな堅田の水軍衆が、同じく淡海(琵琶湖)の水軍衆で浅井家に臣従する西浅井の菅浦水軍を通して備前守様に臣従を申し出て来たのだ。
堅田水軍衆の申し出に対し、備前守様は此度の一揆に水軍衆は加わっていないという事もあり、臣従を許す代わりに此度の一揆を煽動した本福寺の坊主どもが湖を使って逃げ出さぬ様に見張り、もし湖に逃げ出すような事があれば捕らえる様にと御命じになられた。
堅田の水軍衆が備前守様に臣従を申し出るという事は、浅井家が淡海の水運を握り支配を確立したことを意味していた。
同じく淡海の湖岸に領地を持つ六角家の当主として忸怩たるものがあるが、野良田の戦いで浅井家に敗れ、観音寺騒動で求心力を落とし、父・弾正忠と義昭公の上洛を害したことで城を追われた六角家だ。私が当主に入った事で父からの支援を受けながらも、徐々に持ち直している最中では致し方なし。と、今は甘受の時と割り切るほかないと己を納得させるしかなかった。
しかし行軍が順調に進むのも、この頃までであった。
堅田まであと数里と迫った所で、唐突に行軍は停止したのだ。
何事か起こったのか?と急ぎ備前守様の許へ使い番を走らせると、使い番は驚くべき報せを持ち帰って来たのだ。
なんと、堅田の本福寺に逃げ帰った一向門徒が、我等が堅田に進軍を開始したと知って叡山に助けを求め、あろう事か叡山が一向門徒の意を汲み、備前守様に和睦を打診してきたと言うのだ。まさか、本願寺派を『仏敵』とした叡山が一揆を起こし、高島郡に乱入した一向門徒の意を汲み、我等に和睦の打診を持ち掛けるなど本来あってはならぬ事。叡山の真意は何処にあるのか分からず、かといって無視する訳にも行かぬ為、真相を探らねばと考えた備前守様は進軍を停止されたようだ。
仕方なく、我等は日吉大社の摂社・十禅師社(樹下神社)に陣を構える事とした。
十禅師社に陣を張って三日。私の元に三雲新左衛門改め三雲対馬守成持から最悪の報せが届いた。
対馬守は叡山が『仏敵』とまで評した本願寺派の本福寺とその門徒の為に我ら浅井と六角の軍勢に対し和睦を取り持とうと動いたのか、その真意を探る為に配下の甲賀の忍び衆を放った。
甲賀忍びが探り当てた叡山の真意は…“欲”であった。
現世を捨て、己の欲を廃し、悟りの道を求めるべき仏道の修行の場である叡山が、事もあろうに本福寺が堅田の職人や商人といった一向門徒から掻き集めた金銭・五千貫(四千貫で伊勢神宮の遷宮が出来た金額)で和睦の労を請け負ったと言うのだ。
応仁の御代に都で大乱が起きてより日ノ本は荒れ果て、至る所で戦が起きる末法の世と化した。仏に仕える坊主も虚飾を求め門徒を煽動し一揆を起こす一向宗などをはじめ欲に溺れていた。本来、その様な坊主どもの行いを正さなければならない立場である叡山が、金に転ぶとは…。
思えば、叡山のお膝元にある坂本の町では叡山の坊主を相手に女郎屋が建ち並び、酒に溺れ肉や魚を食し放蕩の限りを尽くす坊主で溢れていると聞くが、末端の坊主だけでなく叡山を預かる徳の高い僧である筈の者達まで欲に溺れ、本福寺と一向門徒が用意した銭に目が眩み、本福寺が起こした一揆について責めを負わす事無く、事を治めようとしていたのだ。
しかし、この報せを公にする訳には行かない。何故なら、この報せを耳にした備前守様がどの様な反応を示すか分からなかったからだ。
常の備前守様ならば、叡山の横槍に対し仕方のない事として受け入れられたかもしれない。
しかし、此度の一向門徒による一揆は父・弾正忠と共に行った義昭公の御上洛の後に、義昭公自ら備前守様に与えられた『朝倉左衛門督様を義昭公の下に上洛させる』という御役目の総仕上げとして行われた、左衛門督様御上洛の最中に起こった越前への一揆を抑える為に動かれた御舎弟・新十郎治政殿の牽制の為に起こされた物であった。
左衛門督様御上洛の為、備前守様は大変な苦労を重ねられたと聞き及ぶ。その苦労を無に帰そうとした此度の一向門徒による一揆は備前守様にとってとても許すことの出来ないものであった。そんな一向門徒と一揆を煽動した本福寺から叡山が銭を貰い和睦の労を引き受けたと知れば、如何なる事になるか予測できなかったからだ。
そのため、私は報せを届けた対馬守にこの事は口外せぬようにと言い含めたのだが、対馬守から報が届けられて数日後には備前守様の耳に叡山が堅田の一向門徒と本福寺から銭を貰い和睦を持ち掛けて来たという事が伝わってしまった。
その報せを耳にした備前守様は目を血走らせて口から唾を飛ばし烈火の如く御怒りになられたという。
十禅師社に構えた浅井家の本陣に将が呼ばれると、その場で備前守様は叡山からの和睦の打診を受け入れず、全軍に堅田への進軍を御命じになられた。
浅井と六角の軍は備前守様の下知に従い、十禅師社から湖岸を南下し堅田の町に攻め寄せた。
堅田の町は叡山が和睦の労を引き受けたことで、浅井は攻め寄せてくることは無いと考えていたのだろう。町に迫る軍勢を見て蜂の巣を突いた様な大騒ぎとなっている様だった。
迫る軍勢に対し町の入り口に設けてある大戸の横に設けられた見張り台に僧形の者が姿を現すと大声を上げた。
「浅井備前守様が率いる軍勢とお見受けいた~す!何のおつもりにて斯様な軍勢で堅田の町に迫られるのか、ご返答いただきた~い!!」
周辺に響き渡る問い掛けに、備前守様は軍勢を止められると傍に控えていた磯野丹波守殿に対して鋭い視線を向けられた。その視線に丹波守殿は小さく頷くと供を二人ほど連れて馬を走らせると軍勢の先頭に進み出て、
「堅田の本福寺は浅井家の御領地にて一揆を起こし、畏れ多くも朽木谷にある公方様の御座所を襲撃し、高島郡の民を害した。その責めを取らせんが為、本福寺に籠る一向門徒どもを捕らえに参った。速やかに門を開けるなら良し、我らが行いを妨げようとするのならば公方様の御座所を荒した不埒者と同罪と見做す!」
僧形の者よりも大きな声を上げ詰め寄った。丹波守殿の通告に、僧形の者は焦りの表情を浮かべると、
「お待ちあれ!本福寺一向門徒と備前守様の間に叡山が入り和睦を取り持つこととなっている筈。その事を如何御考えか?」
叡山が和睦の仲を取り持つという話は如何するのかと問い質して来た。
「確かに、叡山から堅田と和睦をしてはという打診はあった。が、それは堅田の銭に目が眩んだ叡山が勝手に申して来た事。欲に溺れた叡山からの打診など考慮に値せぬ!そもそも、都の鬼門を守るために造営され、天下の安寧を祈願しなければならぬ叡山が、事もあろうに公方様の御座所を荒らし、天下の静謐ために尽力する我等を妨げようとする一向門徒に肩入れしようとするなど、本末転倒も甚だしい!
更に、叡山は本願寺派と当時の宗主・蓮如上人を“仏敵”とし、都の大谷に在った本願寺を廃却とした筈。
その叡山が“仏敵”と定めた蓮如上人の流れを組む本福寺の暴挙に対し、欲に駆られて目を瞑り和睦を仲介しようとは否なる了見かぁ!」
厳しく問い詰める丹波守殿の言葉に、僧形の者は答えに窮してしまった。その様子から、見張り台に居る僧形の者は叡山から派遣された僧であると察しがついた。そんな我等の様子を肌で感じた叡山の僧は、表情を引き攣らせながらも反論しようと口を開いたが、その言葉は備前守様を始めとした浅井家の者達を激怒させることとなった。
「何という物言い!これ以上の争いを防がんため叡山が仲立ちをするというのに、それを欲に目が眩んでなどと難癖をつけ攻め寄せるなど許されざる事。このまま叡山を無視し堅田の町と本福寺を攻めると言われるのであれば、叡山と敵対する意志アリと判断せざるを得ぬが宜しいのか?叡山と敵対するという事は即ち“仏敵”となるという事に他なりませぬぞぉ!!」
僧形の者の“仏敵”という言葉に、豪胆で知られる丹波守殿の流石に言葉に詰まったのか、即座に帰す事が出来なかった。だが、
「“仏敵”結構!叡山の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、ほしいままに相働く。その様な者らから“仏敵”とされようと天に恥じること無し。此度の事を詳らかにし、叡山の非道を世に問うてくれるわ。
者共、我に続けぇ!天意は我にありぃ~!!」
いつの間にか丹波守殿の傍らに姿を現していた備前守様が大音声で檄を飛ばし、その檄に背中を押された浅井の兵は怒涛の勢いで堅田の大戸へと攻め寄せると、勢いのまま大戸を突破し、一向門徒が籠る本福寺へと攻め入ったのだった。
ということで、堅田を攻める為にわざわざ迂回して浅井領を通って行ったのかの理由も明かしました。
戦国時代の寺院仏閣は大名と遜色ない武力を持ち更に知識を得られる特権階級という意識がある為、下手な大名よりも対応に苦慮する相手だったとおもわれます。
そんな中でも比叡山延暦寺は帝さえ脅す程の力を持っていたようです。
そんな比叡山の寺領を一揆を鎮めるためとはいえ、勝手に通る事など出来なかったと考えました。




