第八十七話 比叡山焼き討ち その一
少し短いです。
北近江 小谷城 市姫(小谷の方)
わたくしが織田家から浅井備前守様の許に嫁ぎ早五年が過ぎました。その間に、わたくしは三人の娘にも恵まれました。備前守様は文武に優れた武将で浅井の御領地を平らかに治められておられる優れたご領主様でしたが、織田の兄上と共に足利義昭様を奉じてご上洛されてから、大変な御苦労をされておられました。
と言うのも、御上洛されて将軍と御成りあそばした義昭様から越前の朝倉左衛門督様を上洛させるようにとの命を受けられたからにござります。
朝倉家と浅井家は浅からぬ付き合いがあり、浅井家が主家であった六角家から独立を計る際に朝倉家に多大な御助力を賜ったとの事、その御関係は非常に深く、織田家と浅井家が同盟を結びわたくしが備前守様の許に嫁ぐ際にも、同盟とは関わりの無い朝倉家に対しても『朝倉への不戦の誓い』を持ち出されたそうにございます。
その事もあって、兄上は朝倉家のことを備前守様にお任せされたのでございます。
その為、備前守様は義昭様の『朝倉左衛門督の上洛』の要請を叶えるため、幾度となく越前に赴き説得に説得を重ねられたのでござります。
当初は、加賀にて越前の地を虎視眈々と狙っている一向門徒の動きにご上洛を拒まれてきた左衛門督様でござりましたが、
『加賀の一向宗が上洛の為に左衛門督様が越前を離れている隙を狙い越前に乱入した時には、織田家が後詰(援軍を派遣)を行う』
と、兄上が約定を交わしたことで左衛門督様は重い腰を御上げになられてようやくご上洛なされたのです。
なのに!
あれ程、備前守様がご苦労されてようやく左衛門督様の上洛にこぎ着けたと言うのに、左衛門督様がご上洛されている時を狙い、加賀の一向門徒が越前に乱入したのです。
この動きに、織田の兄上は即座に動かれ子飼いの前田又左衛門殿を浅井家に派遣して浅井新十郎殿に付けて朝倉の援軍として立たせると、ご自分は飛騨から山を越えて加賀の一向門徒の本拠地となっている尾山御坊を急襲。加賀に残っていた一向門徒を尾山御坊へと押し込み籠らせてしまわれたのです。
この動きに驚いたのは一向門徒を束ねる摂津の本願寺でした。
本願寺は尾山御坊の囲みを解かせようと、長島の願証寺に尾張で一揆を起こさせ越前に乱入した一揆勢と対峙する浅井家に対しても、滋賀郡は堅田の本福寺に北近江で一揆を起こすように命じたのです。
尾張では長島の対岸で睨みを利かせる為に置かれた小木江城を任された彦七郎と兄上の嫡男で留守を預かる勘九郎の下知により援軍として赴いた佐久間右衛門尉殿が城に籠城し一揆勢との攻防を繰り広げている間に、伊勢の北畠家へ養子に出された兄上の御三男・兵庫頭殿が手勢を率いて小木江城を攻める一揆勢の背後を突き、僅か一刻ほどで降伏させたそうにございます。
また、近江でも同じく養子に出された兄上の御次男・左京大夫殿が浅井家の為に兵を挙げると申して下さりました。
驚いた事に、左京大夫殿が率いる六角勢が小谷城の城下へ辿り着いた時、六角家の隅立て四ツ目の旗と共に備前守様の三つ盛亀甲唐花菱の旗が掲げられていたのです。
慌ててお出迎えに出ると、左京大夫殿と共に備前守様が居られたのです。
朝倉左衛門督様の御上洛の為にご苦労を重ねられ、ようやく実現にこぎ着けられ肩の荷を下ろされた矢先に、越前での一揆に加え浅井家の御領地にほど近い堅田から発した一揆に対し備前守様のお顔は怒りに溢れておられました。
妻であるわたくしでも声を掛ける事を憚られる程の怒りの表情にわたくしと共に備前守様をお出迎え致そうとしていた茶々と初は、御父上が浮かべる忿怒の相に慄き震えてわたくしの後ろに隠れようとし、生まれたばかりで何も分からない筈の江までもが徒ならぬ空気を感じ取ってか、泣き声を上げる程でございました。
わたくしは慌てて江をあやして泣き止まそうとしました。そんなわたくしと娘達の様子を備前守様は一瞥すると一層不機嫌なお顔をなさり、何も言わず荒々しく足を踏み鳴らしながら御城の奥へと進んで行かれてしまわれました。
備前守様のそのお姿を娘達と共に見送ったわたくしに声を掛けたのは浅井家の者ではなく、浅井家の為に兵を率いて小谷城に参られた左京大夫殿でした。
「お市様。お元気そうで何よりにござります。弾正忠が次男・左京大夫信賢にござります。此度の事、天下の静謐の為に大変なお骨折りをされてきた備前守様にとって許し難き事が起きましたこと、御心痛は如何ばかりかと…」
「左京大夫殿…。」
六角家の当主と成られた左京大夫殿が、御父上・弾正忠兄上の妹とはいえ浅井家に嫁いだわたくしを気遣っていただき、感極まり言葉を失ってしまいました。そんなわたくしに左京大夫殿は優しい笑みを浮かべると、わたくしの後ろに隠れている茶々と初にも顔を向けると片膝を付き視線を合わせられて、
「茶々殿と初殿にござりますな。私は其方たちの母上の甥となる左京大夫信賢と申す。此度は御父上と共に、不埒な一向門徒どもを追い返して御覧に入れまする。どうかご安心下さりませ。」
と、笑顔で告げられた。そんな左京大夫殿に茶々も初もようやくいつもの笑みを浮かべ、その姿にわたくしは恥ずかしながら安堵いたしました。
しかしながら、左京大夫殿があの《・・》兄上の御子だとは…亡き勘十郎兄上の御子だと言われた方が納得できるほどの落ち着きと礼節を持った振舞いに驚いてしまいました。
その後、暫しの休息の後、大広間にて軍議が開かれ、高島郡に押し寄せた一揆勢の動きと彼の地の国人領主の動きが明らかになりました。
中でも都に近く、将軍家が戦で都を追われた際の避難場所として腰を落ち着けられることが多い朽木谷の国人領主・朽木弥五郎元綱殿から既に一揆勢は朽木谷に乱入し、将軍家をお迎えするために用意した御座所は破壊され、朽木家の家臣郎党は朽木城に籠城したとの知らせが届いていました。
高島郡はわたくしが嫁ぐ前年に浅井家が侵攻し、弥五郎殿は嫡子・竹若丸殿を質として出すことで領地を安堵され浅井家の家臣となっておられました。
その朽木谷に一揆勢が乱入したと知って備前守様は激怒され、佐和山城を任す程に信任されている磯野丹波守員昌殿を先鋒にして三日後には小谷城を出陣されたのでございます。
御出陣に際、「一揆勢を打ち払い凱旋する!」と備前守様は力強く告げられたのですが御城にお戻りになられてからの三日、備前守様は夜もあまりお休みになられず、その目は血走り尋常ならざる表情を浮かべておられた姿にわたくしは言い知れぬ不安を感じざるを得ませんでした…。




