第八十六話 長島一向一揆 余波
すいません。
一度一話分書いては見たのですが、何かしっくりこなくて全て書き直したので更新が一週間遅くなってしまいました。
「そうか、父上は尾山御坊から一向門徒を退去させたか。」
「はっ!加賀の一向門徒にも尾張での一揆が早々に制された事が伝わり、尾山御坊の囲みが解かれることは無いと諦めて降伏を申し出て来たそうにござります。
弾正忠様から小木江城に籠り奮戦された彦七郎様と右衛門尉殿、そして一揆勢を背後から強襲し降伏させた兵庫頭様を大層お褒めになられておられました。」
小木江城に攻め寄せた一向門徒が降伏したとの報は瞬く間に尾張から美濃、そして加賀へと伝わり父・信長が囲む尾山御坊に籠る加賀一向宗の耳にも入った事で、敵の抗戦の意思を挫き早々に降伏したようだ。
父は降伏の条件に坊主をはじめ御坊に籠る門徒すべてを退去させた後に、御坊に火を放ち加賀一向宗の本拠地を完全に潰したようだ。
といっても、一向宗そのものを否定した訳ではなく、門徒たちにはこれまでと同じように阿弥陀如来を信じ『南無阿弥陀仏』と念仏を唱える事を許し、一揆を起こす前の生活に戻させた。
一方で、一揆を煽動した坊主には仏の教えに従い質素倹約に努め経文を読み修行をつむ、本来の僧侶としてのあるべき姿に立ち戻り、二度と門徒を唆し一揆などを起こすような事はしないとの起請文を書かせ、もし起請文に誓った約を破った場合には即座に捕縛し斬首の上で首を曝すと脅したらしい。
この時代、出家し僧侶となる者は公家や武家の出身者が多く、自分たちは特権階級だと考えていた。
飛鳥の御代以来、大陸から伝わって来た最新の文化である仏教を学ぶことの出来る僧侶は農民をはじめとした多くの日ノ本の民が触れることが出来ない経文やそれに付随する思想・知識に触れられることの出来る知的な特権階級であった事は事実だった。
しかし、鎌倉から室町、そして戦国の世と時代が移り変わるにつれて寺を守るために武力を持つようになるとその武力を背景にして、時の権力者に自らの要求を通すといった様な事が起こる様になると、それまでの知的な特権階級であるという思いに加えて武力・権力の面でも特権意識が醸成されていった。
その為、僧侶としての修行は疎かとなり門徒から“布施”と称して重税を取り、豪奢な袈裟を纏い贅沢な生活を送る様になっていた。
そんな坊主に対し、父は僧侶と名乗るのならば本来の姿に立ち戻れと告げた様だ。
はじめは難色を示していた坊主たちだったが、父は降伏に際しての条件を尾山御坊に籠る門徒の全てに通告したため、尾山御坊から出てこれまでと変わらぬ生活を保障されていると知った門徒たちに詰め寄られて降伏せざるを得なくなったようだ。
尾山御坊が焼失する光景を目の当たりにした一向門徒は、御坊を焼いた父を畏怖しそれぞれの村へと逃げ帰り、顛末の一部始終を村の者たちに語って聞かせたという。
しかし、その後は降伏の約定通り一揆を起こす前と変わらぬ生活を何の支障も無く送り、尚且つ加賀の差配を任された森三左衛門可成の治世により兵役の免除と税の軽減が行われると織田家に対して不満を抱く者は徐々に減っていった。
対して坊主どもは尾山御坊が廃却されると、それぞれの寺へ戻ったものの越前への一揆を起こす前と異なる僧侶としての修行の日々に不満を募らせ、再び一揆を起こそうと画策する者もいた。
しかし、兵役の免除と税に軽減によって安定した生活を送れるようになった門徒たちは、一揆など起こせば折角訪れた安定した生活が失われるとの思いに至り、坊主の呼び掛けに応じた者は極少数となり、瞬く間に鎮圧された。
一揆を起こした者たちは約定通り全て斬首となり、その首は曝された。以降、加賀を起点とした一揆が起こることは無くなり、一向宗の坊主は真面目に修行の道を歩み門徒と共に貧しくとも穏やかな生活を享受するか、寺を捨てて摂津国の本願寺へ駆け込むかのどちらかを選択する事となったようだ。
史実では万単位での根切りをしなければ屈服しなかった加賀の一向門徒が、その十分の一にも満たない犠牲で織田家に屈服しその支配下に置かれることになるとはただただ驚くばかりだ。
これには史実で浅井・朝倉との戦において宇佐山城での攻防の末に討ち死にした森三左衛門可成に加賀を任せたことが大きかった。
森三左衛門は『攻めの三左』との異名を誇った武将で、浅井・朝倉との戦いの中で本願寺からも攻められ奮戦するも討ち死にをしたためあまり知られていないかもしれないが、実は真宗(浄土真宗)の信者で三左衛門の妻やその親戚は父・信長が本願寺と戦っている最中に本願寺派の寺院に援助を行ったという逸話が残っている。
本来ならば処罰の対象となる行為だが、宇佐山城で討ち死にした三左衛門の数々の功績を考えて処罰しなかったと言われている。
更に、三左衛門の三男・森蘭丸成利の甲冑とされる物が現存し、その兜には『南無阿弥陀仏』の前立てがあり三左衛門の妻が蘭丸に送ったものとされている。ただし、この鎧が確かに蘭丸の物であると確たる証は無いが、十年余の戦いで本願寺を屈服させた父・信長に小姓として長く仕えた蘭丸に母親が『南無阿弥陀仏』の前立てが付けられた甲冑を送ったと言われるという事は、森家の多くが真宗の信者だったと考えられる。
本来、真宗と一向宗は別の宗派ではあるものの、同じ『南無阿弥陀仏』と念仏を唱える事を教義としていたため、戦国の世では同一視される様になっていた。また、北陸(加賀)で一大勢力を形成した一向宗に当時比叡山から“仏敵”とされた本願寺とその宗主・蓮如は活動の場を北陸に求めて一向宗と行動を共にしていたために本願寺派の真宗を一向宗と呼び本願寺派が起こす一揆を『一向一揆』と称したようだ。
閑話休題。とまれ、真宗の信者である森三左衛門を加賀に置いたことで、加賀の門徒たちは同じ宗門の者が上に立ち治めるのだと考え、過度な反抗心を抱く事無く、織田家の治世に浴した。
その上、兵に働き手を取られることなく農業に従事する事が出来るようになれば、必然的に農業生産量は多くなり、税収が増える。税収が増えた事で身銭を切ることなく税の徴収量を軽減すれば、農民の手元に残る米の量が増え飢えの恐れが減少、飢える恐れが無くなれば“衣食足りて礼節を知る”ではないが、一揆を起こそうなどと考えるよりも一層働き収量を増やそうとしていき、農民の反感を買う様な苛政を取る必要が無くなり治世が安定する事になっていくのだが、それはまだ少し先の話…。
「しかし、佐渡守殿には困ったものだ。確かに某は父上の実子ではあるが、既に北畠の当主。その某の決定を父上が覆し、臣従を認めた者の首を取れなどと横槍を入れれば北畠と織田の間に禍根を残すだけでなく、北畠と同じように六角家に養子に入り当主と成られた左京大夫兄上の御立場も危うくすることだと何故分からぬのか…」
そう告げて大きく溜息を吐くと、北畠家の使者として彦七郎様の使者と共に父上に尾張での一向一揆に対する仕置きについて説明するため加賀に赴き戻った寛太郎も俺に同意するように表情を顰めると加賀に赴いた際の事を思い出し、
「佐渡守様が喜太郎殿と隼人正殿の首を取るよう弾正忠様にご進言された時にはヒヤリと致しました。幸いにも弾正忠様が即座に佐渡守様を蹴り飛ばされて、
『この痴れ者がぁ!いくら我が子とは言え兵庫頭は既に北畠家の当主じゃ。その兵庫頭が許した臣従を儂が覆せば、織田と北畠の間に大きなしこりを残すことになるであろうがぁ!』
と叱責された事でその場は収まりました。
ただ、弾正忠様の叱責に不満とは申しませぬが少し面白くない思いをお持ちの御方もおられたやに見受けられました。
そこへ、それまで無言のままでおられた森三左衛門様が、
『流石は兵庫頭様。野に放てば織田家に害をなすであろう治部大輔殿と隼人正殿を懐に入れる事で収められるとは。この三左衛門、感服いたしました。』
と口を開かれました。
その三左衛門様の言葉に我が意を得たりとばかりに弾正忠様は笑みを浮かべられて、
『三左衛門は分かっておったか。治部大輔と隼人正は何処まで行っても織田に靡くことはあるまい。儂もあの者達の臣従を許すことは出来ぬ。しかし、北畠家の当主である兵庫頭ならばその限りではないし、北畠家ならば治部大輔が膝を屈したとしても家格的にも己を納得させることが出来ると言うもの、今のままでは織田に対する駒として治部大輔も体よく扱われるだけで飼い殺しの様な物よ。美濃の者たちにとっても、かつての主が敵意を抱いたまま根無し草となっておっては寝覚めが悪かろう。』
との言葉を受けて三左衛門様も弾正忠様の言葉に大きく頷かれて、
『まこと、殿の申される通りにござります。治部大輔が兵庫頭様に臣従し腰を落ち着けていただけるとしれば美濃の者たちも安堵いたし、殿に安心してお仕えできると言うもの。真に良き仕儀にござりまする。』
と返されたのでござります。
お二人のやり取りを聞いていた諸将の方々もようやくご納得された様にござりました。」
と教えてくれた。森三左衛門は父に仕える前は一時期ではあるが長井隼人正の下に身を寄せていた。その経緯もあり氏家貫心斉卜全と共に稲葉城開城の使者に立った事があった。そんな三左衛門だからこそ今は織田家に仕えている美濃の国人の気持ちも分かるのだろう。
そして、そんな三左衛門だからこそ加賀の差配を任されたのだろう…。
「あとは越前に未だ居座っている一揆勢と、北近江の本福寺が起こした一揆の始末だが…」
加賀の尾山御坊は父・信長に降伏し御坊を明け渡し、御坊に籠っていた門徒と坊主は共にそれぞれの村や寺へと戻っていった。
しかし、越前へ乱入した一揆勢はそのまま吉崎御坊跡地に陣を張ったまま朝倉式部大輔景鏡と浅井新十郎治政、前田又左衛門利家が率いる連合軍と対峙し続けて、更に本願寺の命により長島の願証寺が尾張に一揆を起こしたように、北近江の堅田にある本福寺が一揆を起こしていた。
北近江一揆は堅田の有る滋賀群から北上、浅井家の領地がある高島郡へと乱入した。
この動きにいち早く動いたのは琵琶湖の対岸・南近江を領地とする六角家だった。
父・信長から浅井備前守長政の働きにより朝倉左衛門督義景が上洛する際に、予想される加賀の一向門徒の動きとその対処を知らされていた左京大夫兄上は、父・信長の動きに対して起こされた長島・願証寺の動きと呼応するように起きた北近江の一揆が、朝倉家の援軍として兵を派遣した浅井家に対するものであると察し、同盟関係にある浅井家の為に兵を動かすことを決めた。その際、浅井家に要らぬ警戒をされないために都に朝倉左衛門督と共に公方・足利義昭の下に居た浅井備前守に援軍派遣と領内通行の許可を求めた。
すると、左京大夫兄上の求めに対し都から浅井備前守本人が僅かな手勢を引き連れて観音寺城に来城し、六角家の援軍に同道すると告げたという。
確かに、領主である備前守本人が同道すれば誰憚ることなく浅井領内を通り高島郡に乱入した一揆勢を押し返すことは出来る。しかも、備前守が引き連れた形で一揆勢を追い返せば六角家が主力の軍であっても備前守が一揆勢を退けたという事も出来る為、浅井領を治めるに際しても備前守の面目が立ち、これまで拗れていた六角家と浅井家の関係も修復に向かうと考えられたため、備前守の申し出を左京大夫兄上は受け入れ備前守を主将、左京大夫兄上が副将という形で六角軍五千は浅井領へと向かった。
浅井家は主力を新十郎治政に付けて越前に向かわせていた為、領内には二千と高島郡に領地を持つ高島七頭(高島家・朽木家・永田家・平井家・横山家・田中家・山崎家)合わせて二千程しか兵が居らず、一揆勢に対し劣勢を覚悟していたが備前守が率いる六角軍五千が到着した事で形勢は一気に変わった。
高島郡に乱入していた一揆勢は総勢一万弱の浅井・六角軍に慌てて堅田の本福寺へと撤退したものの、本福寺自体は一揆勢が籠城出来るような寺ではなかったために、堅田の町が一揆の陣地となった。
ただ、琵琶湖に面し湖賊(琵琶湖の海賊)衆の拠点として発展し、対岸に荷を運ぶことで富を蓄えて来た堅田の町も、八千もの軍勢の攻撃を跳ね返すような防御陣地とはなり得ず、このままでは堅田の町諸共攻め滅ばされてしまうと滋賀群で最大の勢力を誇る比叡山延暦寺に援助と浅井・六角軍との調停を願い出たために、堅田の町を巡って比叡山と対峙する事となってしまっていた。
その事に想いを巡らし溜息と共に吐露する俺の言葉に、寛太郎も困ったような表情を浮かべるのだった。




