第八十四話 長島一向一揆 小木江城攻防戦 その二
お待たせいたしました。
更新を再開します。
尾張国 小木江城城門前 長井隼人正道利
「な、何事だ!?」
織田彦七郎信興が籠る小木江城の城門に辿り着き、落城へと追い込むまであと一歩という時に、突然に城とは正反対にある我らの本陣がある方から銃声が轟いた。突如鳴り響いた轟音に主君である一色治部大輔(龍興)様が驚き声を上げられた。
しかし、その問いに対し儂も確たる答えを持ってはおらず即答する事が出来なかった。
此度の戦(一揆)は本願寺から願証寺に御出でになられた下間豊前守殿の主導で弾正忠の実弟・彦七郎信興の居城小木江城を攻めることで、加賀の尾山御坊を攻める弾正忠に本領である尾張への危機感を募らせて尾山御坊攻めを断念させるために起こされた。
願証寺の証意様は此度の本願寺光佐(顕如)様からの指示に戸惑い躊躇されておられたが、弾正忠に美濃を追われ願証寺に身に寄せる事となった一色治部大輔様は積年の恨みを晴らす絶好の好機とお考えになられ、豊前守殿と共に証意様を説き伏せ尾張攻めを押し進められた。
豊前守殿と治部大輔様の説得により証意様も尾張攻めに同意され、以前より繋がりのある桑名の商人から舟を調達し、一向門徒が多く住む弥富へと川を渡り弥富の地にて門徒に呼び掛けることで一揆勢の兵は一万を数えた。
一万の一揆勢は一路北へ軍を進め小木江城へと攻め寄せ、織田方は一万の一揆勢に恐れを成して小木江城へと籠ったはずであった。にも拘らず背後から一揆勢の本陣に銃撃を受けたのだ、治部大輔様でなくとも驚き戸惑うと言うもの…。
「て、敵の旗印は?!」
治部大輔様の問いに窮している儂を慮ってか日根野備中守殿が本陣に銃撃を行った敵の旗印は何かと声を上げられた。その問いに対し返ってきた答えに儂は言葉を失った。
「はっ! 旗印は笹竜胆に…き、北畠鎮守府大将軍が掲げし孫子の御旗にござりまするぅ~」
尾張国 小木江城 北畠兵庫頭信顕
「どうやら間に合ったようだな…」
思わず呟いた俺の目の前には小木江城の城門へ迫り、今にも城門を破らんとする一向門徒の軍勢が蠢いていた。
ただ、その数は丹波守の報告では一万に及ぶとのことであったが、眼前に蠢く門徒どもがそれほどの大軍勢だとは思えなかった。
城攻めが始まって十日に及ぶ攻防の中で城方の奮戦によりその数を減らされている事が察せられた。と、黒地に『雷』の一字の旗指物を背負った使い番の一人が馬を飛ばし駆け寄る姿に俺は気を引き締めた。
「申し上げます!佐脇藤八郎殿より、「鉄砲隊、万端整い後は御大将の下知をお待ちいたす」との事にござります。」
「相分かった。慶次郎率いる騎馬隊は如何か。」
「間もなくかと…参ったようにござります。」
鉄砲隊を率いる佐脇藤八郎良之からの報せを届けた使い番に慶次郎率いる騎馬隊の様子を問うと、使い番は鉄砲隊から俺が居る本陣に来るまでに見て来たのか、騎馬隊の準備も間もなく整うのではと言いかけ視線を上げた時に此方に向かってくる同輩の姿を目にしたようた。時を置かずもう一人の使い番が馬を飛ばし駆け込んでくると馬から飛び降りる様にして下馬し俺の許に駆けよって声を上げた。
「申し上げます!前田慶次郎殿より「鉄砲隊の攻撃によって動いた門徒の動きに呼応し騎馬隊は敵の横腹を突き食い破る」との事にござりまする。」
使い番の言葉に脇に控えていた半兵衛はいつも浮かべている笑みを潜め、
「さすがの慶次郎殿も北畠家の侍大将として初の戦という事で少々気負っておられるようですね。ですが百戦錬磨の慶次郎殿の事、戦場に駆け出せばいつもと変わらぬ戦振りを示してくれることにござりましょう。」
と少し懸念する様な事を口にする半兵衛に対し、
「何の、慶次郎殿には家城主水頭と井上味兵衛がついております。主水頭は北畠家家中において槍の名手と知られる戦上手。味兵衛は若いながらも某が一目置く剛の者にござります。そんな二人が望んで慶次郎殿の下に参じたのです。兵庫頭様の下、北畠家の侍大将として初の戦だとて、一向門徒相手に慶次郎殿が後れを取る様な事など万に一つもござりますまい。」
と、半兵衛が口にした懸念など杞憂に過ぎぬとばかりに笑い飛ばす鳥屋尾石見守。
半兵衛と石見守は俺が命じた北畠家の新たな式目作りを通し随分と打ち解けたようで、歯に衣着せぬ口調で丁々発止のやり取りを繰り広げていた。
そんな二人のやり取りは周りで見ている者を冷や冷やさせるのだが、当の本人たちはケロリとしていて、どうも互いに近いものを感じ対等にやり取りが出来る者として認め合っているようだ。
史実では半兵衛は同輩の黒田官兵衛と共に軍師として秀吉を支え、後の天下取りへと続く道筋を切り開いていったが、俺の許では北畠家の知恵袋とも言える鳥屋尾石見守を同輩とし史実の黒田官兵衛の様に二人で俺を支えようとしてくれる姿に何か感じるものがあった。
そんな事を考えながら二人のやり取りを眺めていると新たな使い番が馬を飛ばし掛けてきた。
「失礼仕りまする。長谷川右近殿、山口飛騨守殿、加藤弥三郎殿、大河内相模守殿が率いられる長槍足軽歩兵隊の支度が整いましてござりまする。皆様方からは「兵庫頭様からの下知をお待ち申し上げる」との事にござりまする!」
と全ての準備が整ったことを告げて来た。その言葉に、半兵衛と石見守は大きく頷くと俺に視線を向け、俺はその視線に促される様にして右腕を高々と上げ眼前に蠢く一向門徒に向けて振り下ろす。
俺の動きに合わせ傍らで待機していた兵が用意していた旗を振り上げた。その旗は真っ赤に染め上げられ中央に『火』の一字が描かれていた。
北畠軍の本陣に『火』の旗が揚げられると間髪を入れず前線に並ぶ鉄砲隊が動き出し、佐脇藤八郎の指示によって一斉に火蓋を開き総勢六百の鉄砲隊の一の組二百が第一射を放つと続いて二の組・三の組と各二百の鉄砲が火を噴いた。
敵は目の前に在る小木江城に籠る織田勢のみと思い込んでいた一向門徒にとって背後に忍び寄った北畠勢からの鉄砲による銃撃は完全なる奇襲となり、特に軍の後方で門徒を扇動し自らの手は決して穢そうとしない下間豊前守にとっては驚天動地の出来事だった。
それまで、門徒たちには「念仏を唱え御仏の教えの為に死ねば阿弥陀如来が極楽浄土導いてくれる」と唆して来たが、いざ自身の身に『死』が突き付けられて恐れ慄き、恥も外聞もなく悲鳴を上げ周りに居る門徒たちに自分を守る様にと喚き散らすという醜態を曝した。
そんな豊前守に対し門徒たちは健気に自らの身を楯として銃弾の雨から豊前守を守ろうとその身を曝したが、小木江城の城門を破る寸前にまで迫っていた一揆勢は前線に兵を集中させていた為、豊前守の居る本陣に留め置かれていた門徒の数は少なく、総勢六百の北畠の鉄砲隊は三組に分かれて入れ代わり立ち代わり火縄銃での銃撃と装填を繰り返し、一揆勢の本陣に残っていた者達は下間豊前守も含めその多くが銃弾に倒れた。
響き渡った火縄の音で小木江城の城門に詰め寄っていた一向門徒たちも、自分達が慕う“御坊様”が居られる後方の本陣に何所から現れたのかは分からない敵の襲撃を受けた事に気が付き、“御坊様”を助けねば!と城門に背を向け我先にと小木江城から離れていった。
その動きに慌てたのは、国を追われ願証寺の食客となり此度の一揆に参戦した一色治部大輔や長井隼人正、日根野備中守といった武士たちだった。
このまま攻め続けていれば小木江城の城門は破られ城内に乱入する事が出来る。
さすればこの戦は一揆方の勝利で終わらせる事が出来た。
しかし、主力である門徒たちが城攻めを中断し後方で差配(武士たちに言わせれば只の煽動だが)する下間豊前守たち本願寺から派遣されてきた坊主の元へと向かえば、十中八九坊主は自らの命惜しさに周囲を門徒たちに固めさせて撤退を言い出すかもしれない。
だが、撤退するためには後方に現れた敵を打ち破り、弥富の河岸に停泊している舟まで戻らなければならない。
小木江城との攻防で数を減らし、組織だった動きが取れることの出来ない烏合の衆と化した門徒たちに、一揆方に動きを悟られることなく背後を取り、本陣への銃撃を成し遂げた敵を打ち破ることなど出来るとは思えなかった。
そんな願証寺食客の武士たちの懸念は的中する。
銃弾を逃れて僅かに生き残っていた坊主を救わんと、門徒たちは自らに身を顧みず銃弾にその身を曝し次々と倒れて行った。
中には城攻めの際に用いた竹束で銃弾を逸らす事に気が付いた者もいたが、竹束を自らの身を守るために使うのではなく、僅かに残った坊主を守るために使ってしまった。
そして、遂に願証寺食客の武士たちが最も恐れていた命令がわずかに残っていた坊主から出された。
敵陣を強行突破した上での弥富の河岸に泊めてある舟での願証寺への撤退である。
坊主は自分たちを守らせるために銃弾を防ぐ竹束で防壁を作らせると、小木江城の攻防で少なくなったとはいえ未だ七千を数える門徒を銃撃を加える敵に突撃させた。
この際、坊主たちは本願寺から派遣された下間豊前守が銃弾に倒れた事を告げる事で門徒たちを煽った。
門徒たちは本願寺の高僧である豊前守が背後からの銃弾によって討たれたと知ると怒り、憤怒の表情を浮かべて火縄を構える敵へと襲い掛かった。その勢いは凄まじく、そのまま門徒に襲い掛かられれば、六百の鉄砲隊といえども銃撃が間に合わず蹂躙される事は容易に想像できたが、六百の鉄砲隊は隊列を崩すことなくその場に踏みとどまっていた。
そして、門徒たちが鉄砲隊にあと三十間(約五十五メートル)と迫った時、突然側面から槍を掲げた騎馬が襲い掛かった。
騎馬の先頭には真っ赤な甲冑を纏い、朱槍を掲げた偉丈夫が立ち、騎馬の足音を搔き消すような大音声を上げ手に掲げた朱槍の一振りで門徒十数人薙ぎ払って見せた。更に後続の騎馬も手にした槍を繰り出し次々と門徒を打ち払うとその場に留まることなく騎馬を駆り門徒たちを蹂躙しながら一気に横断してみせた。
この騎馬隊の動きによって門徒たちは前後に分断されることとなり、目を前を通り過ぎて行った騎馬隊によって後方に位置した門徒たちの動きは完全に止まった。
坊主の言葉によって煽られ『念仏を唱えて死ねば極楽浄土』と信じていた門徒たちでも、目の前で圧倒的な暴力の前に蹂躙され惨たらしく死んでいった味方の姿を目の当たりにしては恐れを抱き身が硬直させたとしても無理からぬことであった。
一方、騎馬隊によって分断された前方にいた門徒たちは後方で起きた惨劇から目を背け只管に突き進み、憎き鉄砲隊にあと僅かという時になって隊列を組む鉄砲隊の兵の間を抜けて長柄の槍を掲げた足軽兵が姿を現し、門徒たちの頭上に長柄槍を振り下ろした。
戦国時代後期には何処の戦国大名も長柄槍を持った足軽兵を組織していたが、その多くは二間から二間半(三~四メートル)ほどの長柄槍だったのに対し、信長が足軽に持たせたのは三間から三間半(五~六メートル)にもなる長柄槍だった。
長柄槍を長くすれば離れた位置から敵を攻撃できるというメリットはあるが、その分扱いは難しくなるというデメリットも発生する。そのデメリットを克服する為に信長は長い長柄槍を扱わせるために足軽兵に訓練を積ませていた。
兵庫頭が当主に就いた北畠家でも兵を俸禄で雇う事と同時に長い長柄槍を扱うための訓練も行われていた。
しかし、本願寺の要請により願証寺が搔き集めた門徒たち百姓兵に長柄の槍を扱わせる訓練など行われる事などない。用意された槍も武具として満足な物は少なく、中には竹を斜めに切っただけの竹槍を持たされる百姓兵も少なくなかった。
そんな粗末な槍で“職能軍人”に対する支給品として与えられ長柄槍による訓練を重ねた打ち下ろしを防げる筈もなく、門徒たちは北畠の長槍足軽歩兵が繰り出す長柄槍の一撃に槍諸共叩き伏せられ血反吐を吐いて物言わぬ骸と化した。
目の前で同輩が叩き伏せられ惨たらしい骸を曝したことで後続の門徒たちは動揺し、地に倒れた門徒たちの骸が障害物となり門徒たちの動きが停滞した。
その機を逃さず、長槍足軽兵を率いる長谷川右近、山口飛騨守、加藤弥三郎、大河内相模守の各足軽大将は配下の足軽兵たちに更なる追撃を厳命。
各五百四将合わせて二千の長槍足軽歩兵隊は一向門徒に襲い掛かり、前田慶次郎率いる騎馬隊によって分断されても果敢に鉄砲隊に迫った門徒たちは殲滅された。
この光景を目の当たりにして一揆勢を指揮する坊主は戦意を失い、降伏を申し出た。
小木江城での攻防は城主である織田彦七郎信興と勘九郎信重の命により援軍として駆け付けた佐久間右衛門尉信盛による十日間に及ぶ防戦の後、兵庫頭率いる北畠軍が戦場に姿を現してから僅か一刻ほどで一揆勢の降伏という形で終結する事となった。
十日に及ぶ小木江城での攻防によって一万を数えていた一揆勢はその数を七千余にまで減らしていたが、兵庫頭が率いる四千余の北畠軍による一方的な勝利は織田の動向を探っていた諸大名に伝わるも当初は“誤報”と思われた。
しかし、この後に行われた長島・願証寺との戦の結果が伝わると北畠兵庫頭信顕の名と“七如の孫子の御旗”を掲げた北畠軍は、南北朝の動乱の折に武威を振るった北畠鎮守府大将軍顕家を思い起こさせたのだった。
更新を再開するまでに約一か月を要してしまい申し訳ありませんでした。
今後は再び一週間に一度の更新を目指していきたいと思います。
それから、更新が出来なかった一か月の間に、とんでもない数の誤字報告をいただきました。
誤字報告をいただいた方には感謝を申し上げます。
ですが、誤字報告を確認させていただくと句読点や漢字の変換などが多く、敢えて漢字の変換をしなかった所や、文章の勢いを妨げたくないと意図して句読点を工夫している所まで誤字報告として挙げられているものが多く、一括で反映させる事も出来ず、全ての誤字報告を精査させていただくためには更新を止めなければならないと思われる状態となってしまっています。
それで、大変に申し訳ないのですが更新を停止していた一か月の間にいただいた誤字報告は削除の処置を取らせていただきます。
更新した際にいただく誤字報告はそのほとんどを反映させていただいているのですが、一時にあまりにも多くの誤字報告をいただいても此方で対応しきれません。その事をどうかご理解いただけますようお願いをいたします。




