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第八十三話 長島一向一揆 小木江城攻防戦

スイマセン、投稿が遅くなりました。


「御仏は我らの戦いを見守って下されておる。教えに従う我らは死しても御仏が極楽浄土へ御導き下さる。今こそ御仏に弓引く織田弾正忠に組する者に仏罰を下さん!者共、掛れぇ~!!」


坊主と思しき僧形の者が察した号令に背中を押される様にして鎧兜を纏わぬ百姓兵が狂気を孕んだ雄叫びを上げて城の前面に施した防御陣へと殺到してきた。

その姿に織田の将兵の多くは表情を引き攣らせていた。が、


「尾張の地を守りし武士たちよ。恐れるな!其の方達はこの日ノ本に静謐を齎すという大儀のために戦っておられる織田弾正忠様の臣であろう。織田弾正忠様の大儀の邪魔だてしようとする者こそ天に仇なす大逆の輩。その大逆成そうと唆す一向門徒の坊主こそ諸悪の根源也!!」


城の将兵に対し檄する声を上げたのは奥村助右ヱ門永福だった。そんな助右ヱ門に続き、


「一向門徒は『南無阿弥陀仏』を唱えて死に極楽浄土へ至るが本懐だと言う。ならば、その願い叶えてやろうではないか!一向門徒に死を与えるは極楽浄土へ向かう手助け、功徳と言うものよ!!」


と聞いた者が耳を疑う様な事を平然と口にしたのは大宮大之丞影連であった。その言葉に合わせる様に、北畠から伴って来た弓兵五百が一斉に矢を番えると一息に引き絞る。


「天に仇成す大逆の徒を撃て!」


「功徳をつむと致す、放てぇ!」


助右ヱ門と大之丞の二人の声に合わせて矢が放たれ高々と放物線を描き、城の防御陣地に殺到しようとする一向門徒に降り注いだ。その北畠弓兵に続く様に織田の弓兵も矢を放った。

防御陣地に殺到しようとしていた一向門徒は鎧兜や矢立といった防護具など一切持たされていなかったため、降り注いだ矢は一向門徒を襲いその場に崩れ落ちる者が続出した。しかし、『南無阿弥陀仏』を唱え死兵と化していた一向門徒が目の前で仲間が矢に射られて倒れたのを目の当たりにしても、そのまま動きを止めず倒れた仲間を踏み潰し、矢で死ぬ者より味方である門徒に踏み殺される者の数が圧倒的であった。

しかも、動きを止めなかったと言っても足元に転がる死骸によって足を取られ動きは鈍る。そんな門徒たちに対し第二第三の矢が降り注ぎ、防護陣地の前には数多の骸が散在する阿鼻叫喚の地獄絵図と化していった。

通常ならば、弓矢による攻撃に対し矢立を用い矢を避けて迫るが常道なのだが、百姓兵に鎧兜さえ身に着けさせぬ坊主が、そんな配慮を見せるわけも無く。遮二無二突撃を繰り返し数の力で無理押しすれば良いと考えていた。

願証寺が尾張に対し一揆を起こした目的は、尾山御坊を囲む織田弾正忠の本貫である尾張で一揆を起こす事で織田弾正忠が尾山御坊の囲みを解き、尾張に引き返させることだったからだ。その為にもっとも効果的なのが織田弾正忠の身内を標的にすること。身内が危機に曝されたとなれば織田弾正忠の目を確実に引き付ける事が出来るとかんがえたのだ。そして、その標的として選ばれたのが願証寺のある長島から最も近い城をまかされた、弾正忠の弟・彦七郎信興とその居城・小木江城だった。

 史実では父・信長と敵対した浅井・朝倉の要請を受け、本願寺にも圧力を掛けていた父に対して行われた長島一向一揆によって彦七郎信興は小木江城にて奮戦するも多勢に無勢、城と共に討ち死にする事となる。しかし、彦七郎信興が殺された事で父・信長は怒り狂い三度に渡って願証寺を攻めて寺に籠る二万とも云われる一向門徒を根切りする事になる。

史実の出来事は兎も角、一向門徒の目的は彦七郎信興の居城・小木江城を攻める事で、織田弾正忠の目を尾山御坊から尾張へと引き付け事であった為、城を落とす事は二の次で落城させる事が出来れば良いなぁ程度の考えしかなかったのだろう。

それでも、通常であれば小木江城程度の城に対し万の大群で攻め寄せれば城方も抗戦を断念し早々に降伏、開城するだろうと考えていたとしても不思議ではない。

しかも、史実では本願寺に対し寺を明け渡せと要求する信長に対し徹底抗戦を、本願寺光佐(顕如)が宣言していた為、願証寺の起こした長島一向一揆は織田家打倒を目的にしていた物とは違い、此度の一揆は願証寺からしてみれば織田弾正忠から再三に渡って警告されていたにも拘らず、欲に溺れて越前に攻め入った加賀の一向門徒の尻拭いをさせられているとの認識であったために小木江城を落とし織田家の本貫地である尾張に侵攻したという事実があればよく、小木江城を落とすなど力押しで十分に目的は達せられるものとして、それ以上の戦術など考えてはいなかった。

もっとも、願証寺のある長島から川を渡り尾張に侵攻するためには多くの舟を用意する必要があり、舟を調達していると織田方に知られれば近づく舟に対して火矢を射るなどされて上陸する時点で多大な犠牲を払う事になる為、舟をの調達は秘密裏に進められた。

当初は以前には繋がりの有った大湊にも舟を用立ててもらおうと考えたが、織田弾正忠の息子である兵庫頭が北畠家に入り当主となると、真っ先に大湊に入り九鬼水軍の本拠地を大湊と定めたために大湊から舟を調達する事を断念し、桑名に一任する事となったため時も金も掛かることとなった。

しかし、桑名に一任した事で織田方に知られることなく(実際には百地丹波守の配下によって桑名の協力で願証寺が舟を調達している事実は知られていた)用意が整い、尾張へ渡る事が出来た。あとは時を掛けず、一気に小木江城に迫り集めた一向門徒の兵力に物を言わせて城を落とすはずだった。

ところが、小木江城の周囲には木製の柵と空堀が幾重にも設けられており、万を擁する兵力によって圧し潰そうと迫るも城方が放つ矢によって次々と百姓兵は射殺され瞬く間に死傷者の数が千を超える事となった。

通常の戦ならば初戦で千を超える犠牲が出れば一旦引いて体勢を立て直し、策を弄するところなのだが、城方から放たれた「天に仇成す大逆の徒を撃て!」「一向門徒に死を与えるは極楽浄土へ向かう手助け、功徳と言うものよ!!」という檄を耳にした一揆を指揮する下間豊前守頼旦が激怒し、その激情のままに門徒たちに突撃を命じ続けた。

この下間豊前守頼旦は史実でも願証寺の住持(住職)・証意に代わり長島一向一揆の指揮を取った人物で、本願寺光佐顕如によって一揆を起こすに当たり本願寺から送り込まれた坊主にして武将であった。

激情に任せて門徒に突撃を厳命する豊前守に対し、小木江城方は押し寄せる一向門徒の前列に向けて矢を集中させることで敵の出鼻を挫き、矢傷では致命傷にならなくとも動きを阻害する事でその背後から押し寄せる門徒によって踏み潰される者が続出した。

これに慌てたのは一揆に従軍している長井隼人正道利や日根野備中守弘就といった

武将たちだった。

城方は背後に川を水堀とし主戦場となる地には空堀と木柵を設けて弓の射程におびき寄せて的確に一向門徒側の損害が大きくなる様な策を用いている事は明白であった。にも拘らず一揆を指揮する豊前守は敵に煽られるままに門徒に突撃を命じてしまった。本来ならば城方の動きに対し矢立などの防具を用い、被害を最小限に抑えなければならない所。しかし、豊前守ら一向宗の坊主は門徒に一声かければいくらでも兵など集まると考えている傾向が強く、鎧兜はおろか満足な武具さえ兵に与えず死地へ送り込んでいる。このまま行けば、百姓兵だけでなく自分たち一族郎党までも同じように使い潰され犬死する事になりかねない。


「豊前守殿、このままでは門徒の命を無駄に散らすばかりにござりまする。此処は一旦お引きに成られて態勢を整えることが肝要にござりまする!」


「隼人正殿の申す通りにござりまする。織田方の讒言にのせられてはなりませぬ!」


と怒り心頭の豊前守を諫め、兵を引かせると小木江城からも十町(一キロメートル)程離れて陣を張らせると、周囲の村々から矢立に仕えそうな板や竹藪から竹を切り出して竹束を作るなどして飛来する矢から兵を守る防具を作らせ、数日後改めて城攻めに取り掛かった。

数日かけて用意した矢立や竹束はその役目を恙無く果たし、城方が放つ矢から門徒の命を守り、城方が設置した木柵を取り除こうとした時、


「ぎぃやぁ~」


木柵を押し倒そうと手を掛けた門徒を飛来する矢から守る為に矢立を持ち木柵に近づいた門徒の一人が突然叫び声を上げた。

「何事か!」と叫び声を上げた門徒を見た者たちの目に飛び込んできたのは、木柵の内側に掘られた空堀から突き出された槍が叫び声を上げた門徒の腹を刺し貫かれている姿だった。

木柵の内側に施された空堀。実はただの空堀ではなく、兵がその中を移動できる『塹壕』。後の鉄砲が戦場の主役となる時代に戦場において主な戦術となる塹壕戦の萌芽が小木江城の防御陣地で産声を上げた瞬間だった。

この時、塹壕戦を主導したのが佐久間右衛門尉信盛。後に“塹壕戦の父”として日ノ本との戦史に記される事となる。

右衛門尉は、先の南伊勢攻略戦の折に安濃津城攻防戦で北畠家からの援軍に対し三介信顕が自軍の防護陣地として施したものの使われなかった木柵と空堀の運用方法を教授されていたため、小木江城に籠る少数の織田勢で大軍を以って襲い掛かて来た一向門徒に対する攻勢防御の一手として用いたのだ。

そして、この策は見事に当たった。

一向門徒の多くが百姓兵だったため矢立や竹束といった防具の扱いに慣れていなかったために、城から飛来する矢を防ごうとするあまり足元が疎かになり、木柵に近づいた所を空堀に隠れていた兵により槍で死角となった足下から突き刺されることとなり、次々と叫び声を上げる事となった。

更に、足下に注意を取られると其処を狙いすましたように矢が飛来し、門徒たちの命を狩っていった。

この上下からの攻撃に門徒はなすすべなく、小木江城の東側に骸の山を築いていった…。

しかし、元々小木江城には彦七郎と共に城の守りとして置かれていた兵は二千。右衛門尉が勘九郎信重から預けられた兵が千、助右ヱ門と大之丞が北畠から連れて来た弓兵が五百と合わせて総勢三千五百しかおらず、一万の一向門徒の三分の一強といった所でいくら防御陣地を施そうともその兵数の差は如何ともし難く、遅々として進まぬ攻城戦に業を煮やした豊前守によって強引な無理押しが命じられ、開戦から十日後には防御陣地は破られ門徒の軍勢が小木江城の城門を破る寸前まで追い詰められた。が、


「鉄砲隊、放てぇ~!」


突然一向門徒の背後から上がった号令に合わせて、雷鳴の様な発射音が鳴り響き城に迫る一向門徒を鉄砲玉が雨霰の如く襲い掛かったのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 汚物(一向宗)は消毒だ~!
[気になる点] 本文とは関係ないのですが、長島一向一揆は元亀元年開始を想定していますか?信顕の元服の年でもあるので間違いはないと思いますが、塚原土佐入道とは会えたのでしょうか?来年(元亀二年)如月には…
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