第八十二話 長島一向一揆、勃発
尾張国 小木江城 織田彦七郎信興
「と、殿!」
「来たか?」
「はっ!長島の一向門徒は桑名が用意したとみられる舟にて弥富に渡り陣を整えている由にござります。」
「やはり弥富か…あそこは服部党など一向門徒が多い地、長島から川を渡って布陣するのには都合の良い地よな。兵庫の申す通りになったのぉ、助右ヱ門!」
元亀四年晩夏。もう間もなく稲の取り入れが始まろうとしている時に長島の願証寺から一向門徒が桑名で調達したとみられる舟を用いて『南無阿弥陀仏』の莚旗を掲げて尾張国の弥富の河原に上陸、陣を敷いた。
兄・弾正忠が警告を無視して越前に乱入した一向門徒の暴挙を止める為に、加賀にある一向門徒の本貫地・尾山御坊を包囲した。
越前に乱入した一向門徒たちは越前の吉崎御坊跡に陣を構えたものの、朝倉式部大輔殿が率いる朝倉軍とそれに合力するために送られた浅井新十郎殿と前田又左衛門の朝倉・織田連合軍によって劣勢に立たされ徐々に押し返されつつあった。
そんな加賀の一向門徒を助けようと、摂津の本願寺から長島の願証寺と北近江の堅田にある本福寺に本願寺光佐(顕如)から北近江と尾張で一揆を起こすようにと命が下されたと報せがあったのが十日ほど前であった。
報せを持って参ったのは以前、尾張の荒子城で城代を務めていたが城主を前田蔵人利久から弟の又左衛門利家に変えると命じた兄に反発し、織田家を出奔した奥村助右ヱ門永福だった。
ただ、織田家を出奔したと言っても兄・弾正忠の元を離れ、兄の子である茶筅丸今は北畠家に養子に入り当主と成った兵庫頭に仕えていた。
兵庫頭によればこの初夏に兵庫頭の元に臣従した伊賀の百地丹波守の調べにより、願証寺による尾張への一向一揆が発覚したようだ。しかも、本福寺による北近江への一向一揆も既に浅井家と六角家に伝えられており、浅井備前守殿の留守を預かる浅井玄蕃頭政元殿と六角左京大夫信賢が対処のために動いているようだ。
玄蕃頭殿と左京大夫が動いているのなら北近江の一向一揆は早々に終結するであろうが、問題は願証寺が起こそうとしている一向一揆だ。
何故なら、兄・弾正忠が尾張と美濃の兵を率い加賀に向かってしまっている為、尾張領内には各地に点在する城を守る兵しか残っておらず、願証寺の一向一揆に対するには甚だ兵が足りない状況となっていた。そんな儂らの元に一向一揆の報と共に兵庫頭から助勢するとの申し出があった。
元々、兄・弾正忠は兵庫頭に加賀の一向門徒の動きに合わせて願証寺が一揆を起こした時には北畠の兵を率いて助成するようにと命を下されていたそうだ。家族思いの兄らしい配慮に唯々頭が下がる。
しかし、兵庫頭が北畠家に入ってまだ半年あまり。今は家中を纏めるに尽力するが第一のはず、いささか心配になる。が、その思いが顔に出たのか使者として儂の前に進み出た助右ヱ門は儂に表情を読み取り、
「御心配には及びませぬ。兵庫頭様は既に北畠家中を掌握されておられまする。此度の出兵に際しても特に反対する者も無く、先に行われた南伊勢での戦では織田と六角を相手に不覚を取ったが、此度尾張へ乱入した願証寺の一向門徒を退ける事で名誉挽回を成さねばと申す者ばかりにて、些か願証寺と一向門徒が気の毒になる程にござりまする。」
と苦笑交じりに教えてくれた。その言葉に儂も、助右ヱ門の言葉を聞いていた我が家中の者達も驚きを禁じ得なかった。
何処の家中であっても他家から養子として入り、その者が当主と成るとなれば反発されるもの。にも拘らず、北畠家では既に兵庫頭が当主として認められ他国の戦に助力する事に対し皆が乗り気であるなど通常では考えられぬ事であった。
しかも、此度相手にせねばならぬのはただの兵ではなく一向門徒なのだ。一向門徒は『死ねば極楽に行ける!』と信じ死兵となって襲い掛かってくる。その恐ろしさは通常の戦の比ではない。その一向門徒を相手にするというのに助右ヱ門の口から「願証寺と一向門徒が気の毒」などと言う言葉が出るとは…どうやら『織田のたわけ殿』は北畠家の当主と成っても変わらず、北畠家中にはたわけ殿の気質が伝播している様だ。
そのような事を考え苦笑を浮かべつつ助右ヱ門に、
「では、兵庫頭が助勢を連れてくるまでの間くらいはこの城にて耐えて見せねばならぬな。ご苦労であった、兵庫頭に『助勢忝い。良しなに頼む』そう彦七郎が申していたと伝えるが良い。」
と言って労を労い南伊勢へ帰そうとしたのだが、
「お待ち下され、そのお言葉は兵庫頭に直接お伝えいただきとうござりまする。」
と返されてしまった。助右ヱ門の言葉に困惑していると続けて、
「兵庫頭様が此方に参られるまでの間、私と後ろに控える大宮大之丞影連率いる弓隊五百、彦七郎様が詰められる小木江城に兵庫頭様の先陣として参陣の御許しをお願いたしまする。」
そう告げて、城に居座った。
聞けば、助右ヱ門は先の南伊勢攻略の折に兵庫頭から弓隊を任されていたとのこと。そして、助右ヱ門から紹介された大宮大之丞は北畠家中において弓の名手として名高い剛の者で、先の戦では父・大宮含忍斎と共に阿坂城に入り六角勢を相手にその名に違わず、六角家の日置流弓術を治める武者と互角以上に渡り合ったという。惜しむらくは、六角家には日置流弓術を治めた名うての武者が多くいたのに対し、日置流に伍する腕を持つ者が阿坂城には大之丞しかおらず、一人では到底勝ち目が無かったようだ。
しかし、それを教訓とし助右ヱ門の下に付けられた大之丞は北畠家の弓隊に己の技を伝授・調練し、大之丞に伍するとは言わぬまでも近い力を備えた者たちを何人も僅かの間に育て上げたという。その弓隊を願証寺の動きを知った兵庫頭は助右ヱ門と共に小木江城に寄こしたというのだから唖然とさせられた。
弓隊と言えば何処の家中においても戦場では重要な手駒となる精鋭。それを子飼いの将と共にこれから攻められる城へ寄こすなど通常では考えられぬことであった。
しかし、逆を返せばそれだけ兵庫頭が北畠家の者達から信を得、一向門徒を相手にしても何ら恐れることは無いと皆が考えているという事に他ならなかった。
それから、僅か十日の後一向門徒が願証寺のある長島から桑名で用意したとみられる舟を使い弥富に上陸したのである。
その報せに、儂は傍らに置くことにした助右ヱ門に声を掛けると、助右ヱ門は不敵な笑みを浮かべ、
「飛んで火にいる夏の虫とは正にこの事にござりましょう。ほどなく兵庫頭様による孫子の二十八計・上屋抽梯の計が始まりましょう。ですがその為には…」
「皆まで言うな、分かっておるわ!佐久間右衛門尉!!」
「はっ!心得ております、細工は流々一向門徒が攻め寄せてこようと一月は容易く持ち堪えるだけの用意は整っておりまする。」
儂の問いに対し鼻息荒く応えたのは、本来は岐阜にて兄の嫡男・勘九郎改め出羽介信重の与力として付けられ、出羽介の家老格と見られるようになっている佐久間右衛門尉信盛だった。
右衛門尉は先の南伊勢攻略戦の折、今は岩村城の城主となった武蔵守信勝兄の遺児・坊丸改め左衛門尉信澄の後見役としてお艶叔母上の婿となった柴田左京進勝家と共に兵庫頭の与力として織田の武威を示したがその後は出羽介の与力となっていた。その関係から兵庫頭から願証寺の動きが知らされると出羽介の許可を得て小木江城に兵を率いて来た。
右衛門尉は兄・弾正忠の下で尾張の統一戦、美濃攻略戦、上洛戦。兵庫頭と共に南伊勢攻略戦と数多の戦場を駆け抜けて来た歴戦の将であったことから一向門徒相手の籠城戦となる此度の戦ではその経験を買い儂の副将を務めてもらう事となった。
その右衛門尉が一向門徒相手に一か月は持ち堪えられると豪語したことで、一向門徒が弥富に上陸し陣を張ったと聞いて引き攣った表情を浮かべていた我が家中の者達の表情も幾分解れようだ。
何より一向門徒が上陸した弥富から小木江城まで一里(約四キロメートル)以上離れている。長島から川を渡り弥富に上陸して陣を張ったという事は直ぐに動くとは考え辛く、まだ暫しの時がある。城の西には鵜殿川(鵜戸川)が流れている為、鵜殿川を渡って一向門徒が城に攻め入る事は難しい、となれば一向門徒が攻め入るのは城の東側。
兵庫頭から報せを受けてより、城の東側に柵や空堀を駆使した防御陣地を設けたが、その手配りを行ったのが右衛門尉と助右ヱ門の二人であった。
二人は南伊勢攻略戦で兵庫頭が行った安濃津城攻防戦の折の防御陣地設営を見にしており、それを自分たちなりに此度の小木江城防御陣地に応用したと申しておった。しかし、兵庫頭はいつの間にこの様な防御陣地設営の知恵を身に着けたのか…。
何はともあれ、準備は整っているのだ。我らは尾張の地に土足で上がり込んできた一向門徒を迎え撃ち、兵庫頭が北畠の軍勢を率い助勢に駆け付けるまでの時を稼ぐのみ!
そう覚悟を決めてから五日後、遂に『南無阿弥陀仏』と墨字で書かれた莚旗を掲げた一向門徒が小木江城の前に姿を現した。その数、凡そ一万余。
一向門徒の多くは百姓兵のようで、そのほとんどは甲冑など身に着けておらず、手にする武具も錆の浮いた槍であれば上等な方で、中には棒の先に鎌を結び付けてた物や竹槍を手に向かってくる者までいた。そんな百姓兵の後方には鎧兜を身に着けた武士と思しき者達。更にその後ろに輿に乗った豪奢な鎧の上から袈裟を掛けた僧形の者たちが続いていた。
そして、その輿の乗った僧形の者が腰に佩いた太刀を抜き、天高々と突きあげると、
「御仏は我らの戦いを見守って下されておる。教えに従う我らは死しても御仏が極楽浄土へ御導き下さる。今こそ御仏に弓引く織田弾正忠に組する者に仏罰を下さん!者共、掛れぇ~!!」
そう声を張り上げ高々と掲げた太刀を振り翳すと、その声に応える様に百姓兵は遮二無二城の前に広がる防御陣地へと押し寄せて、此処に長島一向一揆が勃発したのだった。




