第七十九話 伊賀臣従
あけましておめでとうございます。
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本年一発目の更新でございます。
伊賀国 音羽荘 植田豊前光信
「評定の後に寄らせていただきかたじけない。」
「なに、豊前殿の来訪なれば一向に構わぬ。今宵は私も直ぐに寝付けそうには…豊前殿にお付き合いいただければ何よりにござる。掃部介殿も遠慮は要らぬ。」
北畠家からの伊賀に対して臣従の誘いがあった事で、村長たちによる評定が行われた日。儂はそのまま村に戻る気に慣れず、音羽荘の村長を務められておられる半六殿の屋敷にお邪魔を致した。
儂と同じように自身の村に戻り評定にて決したことを如何伝えて良いのか悩んでおいでの河合荘の村長・田屋掃部介殿も同道してのことであった。
儂が村長を務める下阿波荘、半六殿の音羽荘、掃部介殿の河合荘は伊賀国の北東に位置し、これまで六角家の影響が強かった。六角家からの忍び働きの依頼は然程なかったものの、その従属国人からは多くの依頼が舞い込み、村の者たちも飢えを凌ぐことが出来ていた最も忍び働きは命懸けの事も多く、何人かの者は戻っては来なかったがそれでも伊賀の者が生きて行くためには致し方なき事であった。
しかし、今から五年ほど前に美濃・尾張を治める織田様が先の公方・義輝様の弟君・義昭様を奉じて上洛されることになり状況は一変した。
義昭様の御上洛に都を勢力下に置いていた三好家から六角家に対して要請があり、御当主・六角右衛門督義治様は織田様と義昭様に対し反旗を掲げられた。
しかしながら、上洛に立った織田様の軍勢は三万を超えて、六角家は観音寺城の支城を次々と落とされたため観音寺城を捨てて甲賀の三雲城へと落ちられた。僅か数日で六角家を退けた事で織田様の武威が大いに高まり、近隣の国人領主は挙って織田様の軍に馳せ参じ都に到着する頃には十万に迫る軍勢に膨れ上がり、三好家も早々に都から本拠地である四国へと引かれてしまわれた。
その後、織田様は都で力を誇示されることなく美濃へお戻りになられた。その動きに対し甲賀へ落ち延びた六角家は旧領を取り戻そうと動こうとされ、儂の下にも忍び働きの話が来ていた。だが、その話は忍びを派遣する前に立ち消えとなった。
織田様にお仕えする元甲賀の出と言われる滝川彦右衛門一益殿が、甲賀に居られる六角承禎様に対し、織田に臣従しご養子を受け入れれば六角家の名跡と旧領の安堵を約束すると話を持ち掛けられた。
承禎様はこの話をお受けになられた。というのも、元々六角家と織田家は以前より親交があり、織田家が駿河・遠江・三河を治めておられた今川治部大輔義元様が兵を挙げ尾張へ侵攻された際に織田家に兵を送る程で、承禎様ご自身は織田家に対して含むところがあった訳ではなかったのだ。ただ、右衛門督様の御判断を尊重されただけの事で、これまで誼を通じていた織田家の上洛に対して敵対関係にあった三好家の要請を右衛門督様がお受けなされた事に、観音寺騒動以降、徐々に力が衰え三好家の要請を撥ね退けられない御家の状態に忸怩たる思いを抱いておられたに違いない。
そんな承禎様へ彦右衛門殿が持ち掛けた織田家への臣従と御養子話は、承禎様の御心を揺り動かした事だろう。
六角家の織田家臣従は承禎様と三雲新左衛門成持様、蒲生左兵衛大夫賢秀様を中心に進められ。これに反対なされた右衛門督義治様は六角家から追放されてしまわれたことで、伊賀への話も取り止めとされたのだ。
その後、六角家に入られた織田家の御次男・左京大夫信賢さまは三雲新左衛門様が差配される甲賀の者を重用され伊賀に御声がかかることは無かった。
そのため、先の南伊勢で行われた戦にも儂をはじめ半六殿、掃部介殿が係わることなく終わった。
そして、此度の北畠家の臣従話である。戸惑うなという方が無理と言うものであろう、そう思っていたのだが…
座敷に通された儂と掃部介殿の前に半六殿の御内儀が茶を出してくれた。その茶は、尾張を通し三河から畿内へと運ばれている『棒茶』で、都の公家様やお武家が嗜まれる茶と異なり、民の間でも嗜まれる様になっているものであった。しかし、まだ伊賀には入って来ていないと思っていたため御内儀にその事を問うと、
「はい。先日、千賀地様の次右衛門様からお分けいただいた物で、なんでも伊勢の方でも作られるようになり手に入れられるようになったと…如何なされましたか?」
御内儀の言葉に、顔を引き攣らせた儂に御内儀は粗相でもあったのかとお訪ねになられたのを儂は慌てて表情を整えて何でもないとはぐらかした。そんな儂の様子を陰から見ていたのか着替えを済ませられた半六殿が苦笑を浮かべながら座敷に入って来られた。
「お待たせを致した。ささ、楽にして下され。」
そう言う半六殿に促される様に御内儀は座敷から下がり、我ら三人だけとなったのを確認してから儂は半六殿を問い質そうとするのを半六殿は手を上げて制された。
「豊前殿、先ずは茶でも飲んで落ち着かれませ。話はそれからにいたしましょう。」
その半六殿の言葉に儂も掃部介殿も出された茶に手を伸ばし口に含む。微かな甘みと共に鼻腔をくすぐる芳ばしき香りが儂の心を解してくれた。
掃部介殿は茶を一口含むと儂と同じように感じたのかホッと息を吐き表情を緩められ、その儂たちの様子を見て半六殿も茶を口に含むと微笑みを浮かべられた。
暫く茶の余韻を味わった後に口を開いたのは、掃部介殿であった。
「良き茶をかたじけのぉござる。先ほど御内儀にお聞きしましたが千賀地家の次右衛門殿からのいただき物とか…。」
「いかにも。浄閑入道様は以前三河の徳川様にお仕えし、次右衛門殿の御舎弟・弥太郎殿が今も彼の地にてご奉公されておられ、三河から送って来てくれるのだそうにござります。」
と掃部介殿の問いに半六殿は返された。確かに浄閑入道様は伊賀を離れて三河の今は徳川と姓を改められた松平家にお仕えしておられた。浄閑入道様は伊賀に戻られたが五男の弥太郎殿が今も徳川様にお仕えしていると聞き及んでいる。その弥太郎殿から千賀地家に茶が送られていると聞いて納得したものの何か引っかかるモノがあった。
「なんでも、弥太郎殿は名を半蔵正成と改められ今では徳川家の嫡男・次郎三郎信康様にお仕えし、御信任いただいているとの事。送られた棒茶は三河に質として入られていた北畠兵庫頭様が彼の地の庄屋に、抹茶の製造過程で出た茶葉の茎などの利用法として伝授いたしたそうにござる。兵庫頭様が北畠家に入られた際に、半蔵殿から『北畠家が治める伊勢と伊賀は隣り合った地ゆえ、何かあった時には良しなに』と添えられていたそうにござる。」
そう明かす半六殿に儂も掃部介殿も目を見開き、次いで目の前の半六殿を睨みつけていた。そんな儂と掃部介殿に対し半六殿は少し困ったとでも言うように苦笑され、
「『何かあった時には良しなに』との添え書きはあったことで千賀地家は兵庫頭様からの書状が届いた時点でお味方するつもりであったかもしれぬが、臣従を決めたのは惣評定での事。小泉左京殿が丹波守様と浄閑入道様に話を聞こうとされたが、御二方が口を開く前に兵庫頭様が姿を現してしまったせいで浄閑入道様は発言の機会を失っていたではありませぬか。お忘れか?」
と評定で起きた事を思い出すように言われて、儂と掃部介殿は己の思い違いを恥じた。
半六殿の申された通り、評定の場で浄閑入道様は挨拶の言葉を交わした以外は兵庫頭様に浄閑入道様、丹波守様そして長門守様の元へ届けた書状の内容を語るように水を向けただけであった。それでも、浄閑入道様への疑念が払拭できないのは儂の至らなさゆえであろうか…そんな事を思っていると、
「さりとて豊前殿の思いも尤もだと某も思います。長門守様は別として、丹波守様と浄閑入道様は兵庫頭様に通じておられると感じました。ですが、これからの伊賀の行く末を考えると臣従する事となって良かったのではと思っております。
これまで繋がりの有った六角家は御当主が左京大夫様に成られて三雲様と甲賀の忍びに信を置き、我らへお声がけ下さることはもうござりますまい。そんな我らに兵庫頭様は『臣従しても村々の扱いはこれまで通り、忍び働きをする者は家臣に御取立ていただけ、村には綿花に椎茸・硝石それから焼き物と新たな産物をご教授いただける』と忍びに対して破格の条件をご提示くだされたのです。これで忍び働きが出来なくなった者も村に戻れば生きて行ける算段はつくと言うもの。」
そう兵庫頭様が語られた臣従の条件を肯定的に捉える半六殿に対し、掃部介殿が声を上げた。
「いや、六角家からの依頼が無くとも他の大名や領主からの依頼があれば伊賀は北畠家に臣従せずともやっていける。しかし、臣従してしまえば忍び働きは北畠家に限定されてしまい、我らに北畠家からの申し出を拒否することは出来なくなる。それではどの様な過酷な仕事を申し付けられるか分かったものではないではないか!」
掃部介殿の指摘にその恐れは大いにあると感じた。これまでも、多くの大名領主からの依頼は忍びの命を塵芥と変わらぬとでもいう様な過酷なものがあり、その依頼を達成するために多くの忍びが命を散らしてきた。あまりにも理不尽な依頼は拒絶してきたが、臣従してしまえば北畠家からの依頼を拒絶することなど現実的に不可能となる。それによってどれ程の忍びが命を散らし、その家族が悲しみに包まれるのか村長として居た堪れなくなった。
しかし、評定の場にて兵庫頭様に対し北畠家に伊賀は臣従すると約してしまった。今さらそれを反故にすることは出来ぬ。仮に反故になどと口走れば、伊賀は如何なることになるか…そう考え暗澹たる思いを抱いた。が、
「その懸念は無用でござりましょう。」
何とも軽い物言いで半六殿が言い放った。
「掃部介殿。兵庫頭様の書状を伊賀に運んだのは、あの《‥》五右衛門にござりますぞ。伊賀に居た頃から人一倍猜疑心が強く、伊賀一の悪童として手の付けられなかった五右衛門が兵庫頭様にお仕えして既に十年を経ているのです。仮に兵庫頭様に忍びを使い潰そうなどと考える御方であれば、五右衛門が十年余の長きに渡りお仕えしている筈がござりませぬ。早々に出奔し、伊賀に戻ってきているはずにござりましょう。違いましょうか?」
「…た、確かに。」
半六殿の言葉に詰まりやっとの事で肯定の言葉を返す掃部介殿。儂もまたすっかり若武者然と成った五右衛門と“悪童”と呼ばれていた事の五右衛門を思い浮かべた。
“悪童”五右衛門。早くに父親を忍び働きで失くし、母は別の男の元へ嫁いだ事ですっかり人嫌いとなり、手の付けられぬ悪童となってしまった。そんな五右衛門を引き取り忍びの技を仕込んだのが丹波守様であった。丹波守様は五右衛門をご自身の館に住まわせ、嫡男の新左衛門殿と一緒に分け隔てなく養育なされておられた。そんな丹波守様に五右衛門も心を許し、伊賀に居た時には新左衛門殿はよく五右衛門の後をついて回りまことの兄弟のようであった。もっとも、歳では新左衛門殿の方が上であったが。
そんな五右衛門が幼き兵庫頭様と出逢い、即座にお仕えする事を決めて丹波守様を説得したというのだから、当時その話を聞いた伊賀の者たちは皆驚き、五右衛門の事だから直ぐに出奔して来ると囁き合っていたのだが、出奔することなく今では兵庫頭様からも御信任しただき、御名の一字をいただいている。そう考えると…儂は微かながらも光明が見えた様な気がした。
そして、その光明は北畠家に出仕した忍び衆から確かな物であったことが伝えられることになるのだった。
書き上げるのを優先し見直しを行っていないので誤字脱字が多いかもしれません。スイマセン。
どうも、会話?対話?が多くなると筆が進むような…どれだけ会話に飢えてるんだジブン(;≗;)。




