第七十八話 伊賀調略 その五
本年最後の更新、何とか間に合わせました。
見直しをせずに公開していますので、誤字脱字が多いと思います。
お許しください。
それでは皆様良いお年をお迎えください。
俺は伊賀国の村長たちが集まり惣評定を行っているという平楽寺へ正面から乗り込んだ。
平楽寺は史実でも伊賀の十二人衆と呼ばれた村長たちが集まり、北畠信意(信雄)に対し臣従をするか抗戦するかの評定を行った寺とされているが、此度も俺が送った伊賀への臣従の誘いに対し如何するかを評定するために集まっていた。
その場に乗り込んだのは、史実で行われたとされる伊賀の動きに合わせたものだ。
史実の信長や信雄は伊賀の忍びが各地の村長たちによる評定によって、伊賀を治めている事をどれだけ知っていたのだろうか?
仮に知っていたとして、村々の集まりである“惣”が大名に対し抗戦を決するなどとは夢にも思わなかった事だろう。
村々の集まりである“惣”は野盗や国人に対し村々を守るため徒党を組み抗する者との認識で止まっており、国を領する大名には唯々諾々と要求を飲むものと考えていたに違いない。
しかし、伊賀は仁木氏が守護を務めていたもののその力は弱く、応仁の乱以前から“惣”を形成し時には室町将軍を相手に戦をし、その軍勢を撃退している。
その様な実績を持つ伊賀の者たちに対し、頭ごなしに臣従を要求したとしても『大名など何するものぞ!』と反発したとしてもおかしくない。
勿論、大名相手に戦をすれば大勢の死者が出る事は当然予測されることで、好き好んで戦をしようなどとは思わないだろう。しかし、臣従を求められるという事は是まで伊賀の忍びたちが行っていた各地の大名たちを相手に行っていた忍び働きが制限もしくは禁止される事になる。そうなれば、忍び働きに代わる食い扶持を提示しなければ伊賀では飢死する事になり掛けない。それほどに伊賀国は厳しい地だと言う事を理解した上で事に当たらなければ、史実の惣一揆(天正伊賀の乱)を引き起こすことになる。
だが、それが分かっていても俺は伊賀の忍びを臣従させなければと考えていた。何故なら、この後俺が相手にしなければならない武田家をはじめとした東日本の戦国大名の多くは配下に忍びを抱えている事が多く、自前の忍びを持たぬ事には相手の情報を知ることも出来ず、此方の情報を探り出されてしまえば戦どころの話ではない。
俺はこれまで南蛮船をはじめ鉄砲の改良や木砲に携帯砲など戦の道具はそれなりに整えてきた。しかし、そんな道具を生かすも殺すも相手の情報を探り如何に上手く運用するかにかかっている。となれば、情報戦を制する者がこの先の戦を制すると言っても過言ではない。
そこで目を付けたのが伊賀の忍びだ。
伊賀の忍びはこの頃特定の主君を持たず、傭兵として各地の大名の手足として忍び働きをして来た。そんな伊賀の忍びを臣従させる事が出来れば、これに勝る者はない。
幸い、幼き頃に俺の家臣となった五右衛門は伊賀の忍びであり、伊賀の上忍・百地丹波守との繋がりを持ち、徳川家へ人質に入る際に五右衛門を介して千賀地半蔵保長(浄閑入道)にも通じる事が出来た。
この伝手を大事に保つことで、南伊勢攻略の折にも手を借りることは出来なかったが、北畠家への助勢も手控えてもらえる事が出来た。
また、この時期の伊賀は北部の南近江に近い地域では六角家の影響を受け、南部の伊勢に近い地域では北畠家の勢力範囲となっていた。
史実では六角家が甲賀と伊賀を糾合し天正伊賀の乱が起きるまで父・信長に抵抗していたが、六角家は父に臣従しに左京大夫兄上を養子に迎い入れ、甲賀を取り仕切る三雲成持は左京大夫兄上の重臣として仕え、六角家の影響を受けていた伊賀北部地域も織田家に敵対する意志を失っていた。
更に、伊賀南部地域の北畠家の影響を受けていた者たちも、南伊勢攻略戦を経て織田家の臣従と俺を養子として迎え当主とした事から、敵対の意思はなく様子見と言った所であり、この状況でなら条件さえ整えれば伊賀は北畠家に臣従してくれるのではないかと考えていた。
惣評定が行われているという伊賀の平楽寺に乗り込むと、そこには十二人の村長と思われる男達を中心にその護衛と思われる十数人の忍びらしき者たちが集まっていた。
その中で、いち早く俺に対して片膝を付き黙礼をする者が二人いた。その者達を見てすかさず五右衛門が、
「好々爺然とされておられる御方が千賀地浄閑入道様。浄閑入道様よりも若干お若い御方が百地丹波守様にござります。」
と耳打ちしたが、その声が二人の耳に届いていたのか浄閑入道殿はより一層好々爺然とした笑みを深められ。丹波守殿は苦笑を浮かべたが、それも一瞬の事で直ぐに表情を消し他の伊賀の者たちの様子を探る様に視線を走らせた。
その視線の先には、部外者の侵入を許さない様に警戒網を張り巡らせている寺に突如乱入してきた俺たちに虚を突かれ、しかも堂々と名乗りを上げる俺にどう対応したら良いものか戸惑い思考停止に陥っているようだった。
その姿に、少し不安を覚えるも何処に潜んでいたのかは分からないが、俺たちの接近に対して寺を警護していた配下の忍びと共に姿を現した藤林長門守の敵対はせずとも警戒を怠らず露ほども油断していない様子に、流石は三忍の一人とそっと安堵していた。
やはり、伊賀の忍びと一口に言っても丹波守や長門守とその配下の忍びといった現役バリバリの者と、既に一線を離れ村を治める役割を務める村長たちでは忍びの精度と言った面ではかなり差があるなどと思っていると、
「お初にお目にかかります、千賀地浄閑入道保長にござりまする。
先日、そこにいる五右衛門から兵庫頭様からの書状をいただき、早十数年前に丹波守から話を聞いた時に五右衛門に罰を与えようなどと考えなかった己を褒めたところにござる。
それで、北畠家の御当主になられた兵庫頭様がわざわざ伊賀の忍びの郷に参られたのは書状に書かれた事を、儂と丹波守それに長門守以外の者にもお話しいただけるという事にござりまするか?」
と好々爺然としていながらも何処か悪戯小僧のような笑みを浮かべる浄閑入道に、俺は苦笑するしかなかった。
これは俺の口から書状に記した事を一から十までこの場に集まる皆に話せと迫ってきたのだ。俺に口から語らせることで、一度口にしたことを反故にさせない為の浄閑入道なりに考えた保険なのだろう。
しかし、俺は元々書状に記したことを違えるつもりなど毛頭無いし、俺の口から直接伊賀の者たちを説得出来るのならば、願ったり叶ったり。浄閑入道からの誘い文句は俺にとって正に渡りに舟だった。
「されば、某が浄閑入道殿それに丹波守殿と長門守殿の“伊賀の三忍”と謳われるお三方に宛てた書状には伊賀が北畠家に臣従するに際しての約定を記させていただき申した。
まず、第一に北畠家に臣従した際の領地の差配などは現状を追認し致す事。伊賀一国は仁木氏が守護を仰せつかっているものの、それは名目上の伊賀守護であって実際に伊賀を纏めているのはそれぞれの村々の村長。そして、その村長らが集まり評定を行う事で村同士の争いを事前に防いでいるやに聞き及んでおりまする。その事に対しとやかくは申しませぬ。これまで通り、村同士の争いが起きぬよう纏めていただきとうござります。
次、第二に北畠家に臣従した上は、これまで行っていた忍び働きは取り止めとし、北畠家のための忍び働きに励んでいただきとうござります。その際、忍びは北畠家の家臣と致し俸禄を以って報いる所存にござります。
また、北畠家に仕える忍びを取り纏める為に“伊賀の三忍”と謳われる御三方には某の直臣となっていただき、北畠家に仕える忍びの差配をお願いいたしたい。
最後、第三としてこれまで忍び働きによって命を繋いで来られた伊賀の方々に他家への忍び働きを取り止めていただく代わりに、新たな食い扶持となる物をご提供致す所存にござる。」
と告げると、集まっていた村長たちからはどよめきが漏れ出した。そんな村長に対し、丹波守と長門守は少し困った様な表情を浮かべ、浄閑入道は嘲笑うような笑みを浮かべた。
村長たちがどよめきを上げたのは、最初に告げた村々における差配の追認と、忍び働きに代わる新たな食い扶持の提供に対してのものだと思われる。
彼らにしてみれば臣従と言ってもこれまで伊賀の守護を務めて来た仁木氏と同様に名目だけの支配であり、村々は自分たちが村長として治め、村同士の問題は村長による評定で解決するこれまで通りのやり方が認められるからだ。しかも、これまで僅かな銭を得るために行ってきた忍び働きの代わりに新たな食い扶持を提供されるという。忍び働きで銭を得ていたとは言っても、依頼が無ければそもそも銭を得る事が出来ず、依頼が来ても忍び働きに出た者の成否よって銭を得られるか否かが変わる非常に不安定な物。
しかし、北畠家から与えられる食い扶持によっては安定的に継続して得られる可能性が出てくる。と考えたのだろう。
一方、丹波守や長門守は俺が告げた第二の約定。『忍びは北畠家の家臣と致し俸禄を以って報いる。』『北畠家に仕える忍びを取り纏める為に“伊賀の三忍”は俺の直臣とする』という点を注視したと思われる。何故なら、この第二の約定は、伊賀と忍びの分断を意味していると考えたからだ。
この事は浄閑入道も気付いていた。気付いた上で村長たちの様子を窺っている様に感じた。
しかし、俺は伊賀と忍びたちの分断を成そうとしてこの第二の約定を挙げた訳ではない。
これは前世令和の記憶なので事実か否かは分からないが、他家へ忍び働きに出る伊賀の忍びは僅かな銭の為にその身を危険に曝し、命を失う事もざらに起きる過酷な環境に置かれているとする書物があった。もし、伊賀が俺に臣従してくれるのならば、せめて危険な忍び働きに就いた忍び達に十分な報奨と身分を与えたいと考えていたからだ。
北畠家の家臣となれば、忍び働きによって命を落とす者が居た時も係累(子息)に家禄を継がせ家族を路頭に迷わす事を防ぐことが出来る。忍びの技は代々受け継がれる物があると聞く、その技を絶やさず北畠家において長らく仕えてもらえる事が出来れば、先の世にとっても重要な事だと考えての事だった。
父・信長によって日ノ本から争いが無くなったとしても、神ならぬ人が国の営みを行っていけば何処かに争いの火種が熾きるもの。それを放置し大炎とせぬ為にも忍びの力は欠かせぬ物と俺は考えていた。
『戦時の備えは平時にて整えよ』とは誰の言葉だったか分からないが、戦争を行っていない平時にこそ戦争の事を考え、起こさぬようにし、起こってしまった時に取り乱さぬ様に備えを怠ってはならないとの教えだが。その最たるものが情報の取集と分析になる。それを担う事が出来る者こそ忍びの者達と俺は思っての事だった。そこで、
「臣従に際し此方から提供する物は、椎茸や綿花といった米に代わる作物の栽培方法に、火薬を製造する際に必要となる硝石の製造方法。更に、この地の土を使った焼き物の製造方法にござる。尾張には知多の常滑焼きや瀬戸で産する焼き物がござります。その職人を特別に派遣し伊賀にて焼き物を作りたいと考えております。綿花は既に南伊勢において栽培を始めており、椎茸と硝石は此処に居る玄衛門たち山の民にその術を伝え産する事に成功しており申す。」
そう俺が背後に控えている玄衛門へ話を振ると、玄衛門はニヤリと笑い自分の方へ視線を向ける伊賀の者たちをぐるりと見回してから大きく頷き、
「儂らは美濃の山に住む者じゃが、兵庫頭様から椎茸の栽培方法と硝石の製造法を託され、椎茸は三年ほど前から採る事が出来ておるし、硝石も昨年末に織田様に高値で買い上げて貰うた。兵庫頭様の申された事、偽りではないぞ。」
と証言してくれた。その言葉に、村長たちの目の色は一気に変わった。椎茸は大変に需要が高い茸で、採れたてをそのまま食しても良いし干して乾物にすれば寺社などにも高値で売れる。硝石は堺などで高値で取引されているが全て異国から持ち込まれた品で、これを産する事が出来れば莫大な銭となることが容易に予測出来る。さらに綿花や焼き物の技術を伝授してもらえるとなれば、これまで水田に適さぬ土地に悩まされ、飢えをしのぐために忍び働きに出るしかなかった伊賀の者達にとって望外の報酬だった。
丹波守たち三忍も、臣従によって供与される物が斯様な物であるとは思ってもみなかったようで、驚きを隠せなかったようだ。
俺が提示した臣従にあたっての条件と供与する物は伊賀の者たちにとっては破格のものだった…破格過ぎるとも言えた。そのため、
「兵庫頭様。一つお訪ねしてもようございましょうか?」
と村長の一人が声を上げた。
「御不信が御有りならば何なりと…と、その前に御名をお聞きしても宜しいでしょうか?」
「失礼を致しました。音羽荘にて村長を務めております音羽半六宗重と申します。兵庫頭様から御提示いただけた臣従に際しての約定は、あまりにも我ら伊賀の者たちに好待遇・好条件ではござりませぬか。これほどの厚遇にて我ら伊賀の者に臣従を求めるのは如何なる御所存にござります?」
半六はそう言うと俺がなんと答えるのかをその答えは誠の事を口にしているのか見極めようとするかのようにジッと見詰めて来た。
これまで多くの大名や領主に僅かな銭にて道具の様に扱われてきた伊賀の忍びに対し、俺が口にした条件や報酬は破格のものだったのだろう。その様な条件を示されて、半六たち伊賀の忍びからしてみれば何か裏があるのではと考えたとしても無からぬ事であった。
「『厚遇』にござりますか?某は伊賀の忍び衆の力がこの後の北畠家にとって“欠かせぬ力”になると考えております。それに北畠家の領地と伊賀は隣り合っており、その隣地に大規模な忍びの集団が有ると分かっていて野放しにしておくほど某は肝が太くはござらぬ。その危険を取り除き、これからの北畠家に“欠かせぬ力”を得ようと思えば、何を成せばよいか自ずと分かると言うもの。違いましょうか?」
「い、いや。その様に申されても…」
俺がこの後北畠家にとって必要となる伊賀の忍びの力を得たが為に、相応と思う条件と報酬を示しただけだと答えると、半六は驚き言葉を失い他の者達も何と返答して良いのか分からないといった困惑の表情を浮かべていた。その表情を見て俺はダメ押しの一言を。
「某が北畠家の当主と成りしおり、軍旗を北畠鎮守府大将軍顕家公が御使いになられていた孫子の旗へ戻すことと致しました。同時に、甲斐の武田家が掲げる四如に『難知如陰(知り難きこと陰の如く)、動如雷霆(動くこと雷霆の如し)』の『陰』と『雷』に某が身上としている『諦めぬ事、波の如く』の『波』の三文字を加えた七如と定め申した。その『陰』の一字(知り難きこと陰の如く)を臣従した後に伊賀の忍び衆に担っていただきたいと思っており申す。
軍旗に掲げる一字を担う者に対する条件と報酬としては妥当と思いまするが、如何に!」
語気を強めに告げた俺に対し、伊賀の者たちは一斉に平伏しここに伊賀の北畠家への臣従が決したのだった。




