第七十四話 伊賀調略 その一
今回は説明回になってしまいました。
「五右衛門、この書状を百地丹波守殿と千賀地浄閑入道殿に届けてくれ。それから不智斎殿からの書状と共にこちらを藤林長門守殿に頼む。」
「はっ!確かに、必ずや丹波守様並びに先様の元にお届けいたします。では御免仕りまする。」
重郷が六角家から俺の許に身を寄せて間もなく、俺はかねてより考えていた伊賀への調略を実行に移すことにした。
というのも、浅井新九郎の説得によってようやく…よ・う・や・く!越前の朝倉義景が公方・義昭に謁見するため都に上洛することになった。
父・信長の上洛によって義昭が将軍になってから彼此四年が経とうとしているが、新九郎は折に触れて朝倉義景に上洛して義昭に謁見するように説得を重ねて来たが、義景はのらりくらりと返答を先送りし続けてきた。上洛の話を持って行ったのが新九郎ではなく父であったなら、とうの昔に堪忍袋の緒が切れて朝倉攻めが行われていた事だろう。しかし、説得に当たったのは浅井新九郎長政だったから四年もの長きに渡り辛抱強く行われてきたのだと言える。
もっとも、長きにわたる説得工作によって新九郎の面目は潰れ、浅井家中でも六角家と敵対するに当たり後ろ盾となってくれた朝倉家への恩義も此度の事で十分返したとして、これ以上朝倉家に気を使う必要はなく、この後は南近江と伊勢に勢力を拡大した織田家に歩調を合わせようとする意見が大勢を占める様になっていた。
浅井家中の動向は兎も角、朝倉義景はその重い腰を上げ都に上洛する運びとなったのだが、この動きに合わせてこれまでも越前乱入を虎視眈々と狙っていた加賀の一向宗が蠢動し始めたとの知らせが父・信長からもたらされた。
仮に、義景が上洛している留守を狙い一向宗が越前に乱入する事になれば、約定通り父は飛騨から一向宗の本拠地である加賀国へ侵攻する事になる。そうなれば、加賀の一向宗は長島の願証寺に尾張に乱入し父の背後を突いて自分たちを援護して欲しいと要請するだろう。
願証寺には再三「加賀の一向宗に自重するように説得しているが、説得を無視して越前に乱入した場合には警告通り加賀へ攻めることになる」と申し伝えていた。
織田家からの警告を無視した加賀一向宗からの要請に同じ本願寺派一向宗である願証寺もおいそれと乗るとは思えない。しかし、本山である本願寺からの要請(命令)があれば願証寺も動かざるを得なくなるだろう事は予想出来た。
願証寺が尾張に乱入する事になれば、俺は兵を率いて願証寺攻略に動くことになる。
その前に、伊賀を調略し伊賀の忍び衆を召し抱えておきたいのだ。
北畠家では先々代の具教の嗜好からか、大河内左少将や大宮大之丞などの剛の者は多く、鳥尾屋石見守といった智者も居るのだが、諜報などに長けた者となるとなかなかに難しく、具教は諜報などには伊賀から忍びを雇い入れる事で済ませていた様だ。
先の南伊勢攻略戦の折も伊賀から忍びを雇い入れ対応するつもりだったようだが、具教の呼びかけに応じたのは藤林長門守正保だけで、“伊賀の三忍”と呼ばれ藤林長門守と共に伊賀の忍びを統括する百地丹波守正永と千賀地浄閑入道保長の二人からは北畠家への協力を得られなかった。
これは、俺が五右衛門を通して繋がりの有った百地丹波守と千賀地浄閑入道に対し、南伊勢攻略の軍を起こすと父・信長に告げられた時、即座に伊賀に使者を走らせて南伊勢攻略戦の際に織田に味方するか、これまでの繋がりから北畠家に敵対出来ないのであれば、北畠家に協力はしない様にと話をつけていたからだった。
俺からの話を百地丹波守と千賀地浄閑入道は飲んでくれた事により北畠家の目と耳を塞ぐことに成功し、安濃津城での攻防でも大河内城の攻略でも織田勢が北畠家の先手を取る事が出来たため、俺は勝ちを治める事が出来た。
その事から俺は改めて諜報(忍び)の重要性を再認識する事が出来、この後の戦には諜報戦の専門家である忍びを一人でも多く臣下に加えたいと考えていた。
この後、俺が相手をしなければならない武田家や北条家などの東国の大名たちはそれぞれに優れた忍び衆を抱えている。
武田の透波、北条の風魔、上杉の伏齅、伊達の黒脛巾組などなど、これらの忍び衆に対抗するためには俺も相応の忍び衆が必須だと思っている。
史実では信雄も伊賀の忍びに対し臣従を求めたが、これを拒否され“不覚人”の第一歩となる『天正伊賀の乱』を起こしてしまっている。
もっとも、これには『三瀬の変』が伊賀の忍び衆の心理に影響を与えたのではないかと俺は考えている。
三瀬の変とは、北畠家に養子に入り当主となったものの一向に家中を纏める事が出来ない信雄に対し、具教をはじめとした北畠家の者達が反織田を画策。上洛しようと兵を挙げた武田信玄と通じていた事などが発覚し激怒した信長の指示によって具教たち反織田の北畠家の者達が暗殺されるという事変だ。
三瀬の変によって具房以外の主だった北畠家の者達は悉く殺された。大和国・興福寺に出家していた具教の弟はこの知らせを聞いて伊賀に潜伏すると還俗し北畠具親を名乗り挙兵。信雄の軍に鎮圧されるも落ち延び西国の雄・毛利家に身を寄せ本能寺の変で信長が死んだ後も伊賀にて再度信雄に対して兵を挙げるなど、禍根を残すこととなった。
ここで注目するのは具親が大和国を離れて身を寄せたのが『伊賀』だという事だ。大和国は信長の勢力範囲であるため大和国にて挙兵など出来る訳はない。かといって、縁も所縁もない所に身を寄せる訳が無い。
という事は、具親が身を寄せても大丈夫だと考える程に伊賀と北畠家は関係があったという事ではないだろうか。
であれば、伊賀の者たちは三瀬の変での織田家の行いを注視し、信雄に対し不信を抱いたとしても何ら可笑しくはないだろう。
そんな伊賀に対し信雄は伊賀国の要所に伊賀攻めの為の城を築城してしまった。この事を知った伊賀の忍びたちは伊賀の平楽寺に集まり、織田家に対し恭順か?抗戦か?の評定を行ったと言われている。
この時に集まった者は伊賀の十二人衆と呼ばれる者たちで、上忍とされる百地・千賀地・藤林は忍び衆の取り纏め役で、伊賀の政に関しては平楽寺に集まった十二人衆が行っていたようだ。
十二人衆の内訳は長田荘地頭・百田籐兵衛(百地丹波守)、木興荘地頭・町井左馬充貞信、朝屋荘地頭・福喜多将監、依那具荘地頭・小泉左京、音羽荘地頭・音羽半六宗重、河合荘地頭・田屋掃部介、西之沢荘地頭家喜下総、下阿波荘地頭・植田豊前光信、島ヶ原荘地頭・富岡忠兵衛、比土荘地頭・中林(中村)助左衛門忠昭、柏原荘地頭・滝野十郎吉政、布生荘地頭・布生大善で、伊賀国の村々の村長たちで構成されていた。
平楽寺に集まった十二人衆の評定によって織田家への抗戦が決議されたのだが、この決議は満場一致ではなく織田家の恭順を容認する者が三名、徹底抗戦を唱える者が三名、そして中立を唱えた者が七名もいたという。
この事から、もし信雄が伊賀国内に城の建設という暴挙に出る前に伊賀の忍び衆に対し臣従を呼び掛けていれば織田家への抗戦が決議されることなく、伊賀の忍びを臣従させられていた可能性が感じられた。
史実の出来事を踏まえ、俺は先ず伊賀の忍び衆の中心人物である“三忍”百地丹波守、千賀地浄閑入道そして藤林長門守に向けて北畠家の当主となった者としての挨拶と共に北畠家への臣従の打診を書状にしたため五右衛門に持たせたのだ。
書状には臣従に際して忍び衆を取り纏めている三忍はいずれも俺の直臣とし、十二人衆に対しても武士として取り立て、これまで纏めていた村々を差配する権限を認めることとし、これまで行ってきた他家(大名)から銭を貰い忍び衆を派遣する忍び働きは行わず(傭兵の禁止)、忍びとしての仕事は北畠家が禄(給与)を払って行う事とした。
しかも、これまで他家に忍びを派遣し得ていた銭は失う事になる為、失われた分の銭の代わりになる物を北畠家から供与する用意があるとした。
甲賀をはじめ忍びの郷は他にもあるがその多くは郷の有る地域の有力大名に臣従し忍び働きを行っていた。そんな中、伊賀は特定の大名に臣従せずに各地の大名へ忍び衆を派遣し忍び働きをしていた。これは伊賀が地形的に他の地域と隔絶されていたという地理的状況と山間の地形であるために田畑にする事が出来る土地が少なく、更に開墾した田んぼも水を入れると腰まで浸かってしまう様な湿田となる所が多く、稲作には極めて不向きな土地だったために“大名”になれる程の力を付けられず、伊賀の地に住む者も食料が乏しく外貨を稼ぐしか生きる術がなかったということが挙げられる。
そのため伊賀の者たちは山で鍛えた忍びの技を用いて各地の大名に傭兵として雇われ銭を得ることで食料を確保していた。伊賀の者にとって忍び働きは飯の種だったのだ。これを制限するとなれば忍び働きと同等の飯の種を提示する必要があった。
史実の信長は織田に敵対する大名に忍びを派遣している伊賀に対し、何の見返りもなく一方的に忍びの派遣を止める様にと命令を出したが、これでは伊賀の者たちは飢え死にする事になり、信長の要求など飲める物ではなかった。
そんな状況の中、信雄による城の築城と臣従の要求が行われた訳で、反発しない訳が無い。
幸い、父・信長はまだ伊賀に対し忍び働きの制限を要求しておらず、伊賀の者が危機感を感じる様な城の築城も行ってはいない。
更に、五右衛門を介して百地丹波守と千賀地浄閑入道とは昵懇とは言えないまでも知らない仲ではないし、三瀬の変も起きてはおらず不智斎(具教)も健在で俺の良き理解者となっているとなれば、伊賀の臣従も十分に勝算はあるとふんで実行に移したのだ。
もちろん、書状を送っただけで伊賀の者たちが俺に臣従するなどとは思っていない。その為、五右衛門に書状を持たせ伊賀に向かわせると蜂須賀小六郎に別の書状を持たせ美濃に住むある者の元へと向かわせた。
小六郎にはその人物の協力を取り付ける様にと申し付けたが、此方は協力を惜しむという事は無いだろう。だが、この人物が協力してくれれば伊賀の者たちも俺への臣従に傾くと思われるため、念には念をと小六郎に俺からの書状を持たせることにしたのだ。
細工は流々。後は伊賀の者たちが、俺が提示した臣従の条件にどう反応するかだ。




