第七十二話 南伊勢の統治
元亀三年(1572年)、年明け早々に行われた俺のお国入りと婚儀、北畠家当主への就任と慌ただしい日々が過ぎ、ようやく一息吐き北畠家の領内を見回る時を作る事だが出来た俺は寛太郎、五右衛門の二人に不智斎を加えて大湊や宇治山田、さらに神宮への参拝などを行った。
大湊は南伊勢を流れる宮川の河口に形成された三角州に作られた町で、外宮に隣接する山田と内宮に隣接する宇治の二つの町とは古来から繋がりが強く、公界としての色合いが強かったものの、南北朝から室町そして戦国の世と時代が移り変わる中、伊勢の国司を勤める北畠家と結びつき河口の港町と言う立地を生かして東国の大名との交易で発展。堺や博多に並ぶ日ノ本の代表的な商業都市となっていた。
一方、宇治と山田は神宮に隣接し発展してきていたものの、武士が権力を握る様になり朝廷の力が弱まる中、神宮もまた衰微しており宇治山田も往年の勢いを失っていた。
史実では、徳川幕府成立後、社会が安定し余裕が出来ると庶民が旅をするようになり、お伊勢参りは一大ブームとなりその門前町である宇治山田は大きく発展したが、大湊は河口の土砂の堆積に伴う港湾機能の低下と、隣接する鳥羽の台頭によって衰退し明治に入り宇治山田に吸収されることとなるのは皮肉な事といえるかもしれない。
ともあれ、戦国期の大湊は日ノ本に隠れもなく一大都市だったことは紛れも無い事実だ。そんな大都市を北畠家は支配下に置いていた。史実では権中納言具教の意向を汲み願証寺と取引を行い駿河に侵攻した武田家に上洛の支援約束するなど信長に対し敵対的抵抗を示していたが、俺の養子と当主就任を不智斎以下北畠家の者たちが容認したため大湊を取り仕切る商人たち(会合衆)も俺に対し反抗的な態度を取る者は少なかった。
もっとも、北畠家の意向ということだけでなく北畠領に入る際に大湊の港に南蛮船で乗り付け礼砲を放ったことが大湊の者たちに強く刻み付けられ、反抗心そのものが打ち砕かれていた様だ。
大湊に出向いた俺に対し、会合衆を務める商人どもが雁首揃えて俺たちを出迎える姿には、これまでの統治者であった不智斎さえ驚いた様だった。
そんな大湊の会合衆に対し、俺はこれまでと同様に北畠家の支配を受け入れる様に命じると共に、九鬼孫次郎率いる九鬼水軍の本拠地を大湊に設けることを伝え、南蛮船を擁する九鬼水軍が大湊の守護者となる事、更に古くから造船業などを行っていた大湊でも南蛮船を建造するように命じた。
また、造船に関連して釘や錨などの鉄工業が発展していたことから、熱田から福島与左衛門・市松親子に加藤正左衛門と加藤虎之助を大湊に呼び寄せ与左衛門と正左衛門の指導の下、改良火縄銃と清兵衛砲並びに与左衛門筒の生産を命じ北畠家の戦力増強を図ることとした。
宇治と山田はそれぞれ内宮、外宮と結びつき御師の活躍により発展していたが、北畠家と結びついた宇治に対し、山田は外宮の神官が唱えた伊勢神道を拠り所に参拝客を呼び込むために宇治に繋がる街道の封鎖を行うなどしたために、宇治と山田の間で激しい対立を起こしていた。
時には町や神宮に火を放つなどしたというのだから尋常ではない。しかも、戦国の世で神宮では定期的に行っていた遷宮が行えず、祖父・信秀が長年滞っていた伊勢神宮の式年遷宮の為に寄進を行い、百年振りに外宮の遷宮が行われたのがやっとで、内宮の遷宮は未だ行われていない状態となっていた。
そこで、俺は対立する宇治と山田の町を取り仕切っている宇治会合衆と山田年寄衆に争いを止める様に命じ、それに反した場合は責任者の首を刎ねると明言し、争いを止めるのならば式年遷宮の復活に手を貸すこととし、先ずは未だ百年以上遷宮が行われていない内宮の式年遷宮から行う事を約束した。
また、山田が宇治に対し街道封鎖などを行う根拠とした伊勢神道を排し、伊勢神道を唱えていた外宮の禰宜・度会氏を追放。伊勢神道以前の本来の神道へと立ち戻らせるなどした。
これには裏があり、伊勢神宮は多くの御師を抱えており御師は神宮で御払い行った御払大麻や暦などを全国の信徒の下へと届けていた。俺はこの御師を使い全国へ諜報網を張り巡らせようと考えていた。
もちろん、忍びが行う高度な諜報活動を行う訳ではなく、その地の習俗・社会情勢、土地を治める大名の評判などその地に住む者なら誰でも知っている事柄や風聞などを取集し、時には派遣する忍びの隠れ蓑として使えるようにと目論んでいた。
しかし、この時は子飼いの忍びは五右衛門の伝手を頼る程度で極僅かな者しかいなかった。
大湊と宇治山田に神宮を押さえると、俺は父・信長に倣い南伊勢の関所を廃し尾張から美濃・南近江・南伊勢と広域な商業圏を作り商業を活発化させていった。
当初。関所を廃するという俺の言葉に北畠家の者たちは困惑の表情を浮かべていたが、関所を廃した事でより多くの商人が領内に足を向ける様になり、商人の動きに合わせて各地の産物が安価な価格で領内に入り、領民の暮らし安定し領内が潤うようになると関所の復活を望む声は消えていた。
更に、俺が家臣に与えた綿花や茶の生産が始まると、関所を廃した事で商人が領内で生産した産物を買い付ける様になり、関所を設けていた時以上に家臣の懐に銭が転がり込むようになり、それに味を占めた家臣領民たちは、綿花や茶の交易を契機に南伊勢では様々な産物が作られ売買が行われる様になる。その銭を元に家臣たちは兵を雇い、徴兵から解放された領民はより一層産物の生産に力を入れることで北畠領は富める領地へと変貌していった。
そして、その影響は隣国にも波及して行く。
最初に影響を受けたのが、南伊勢攻略の際に北畠家と共に織田・六角勢と戦った長野家だった。
長野家の当主は戦の後も変わらず長野次郎具藤が務めるが、史実では父の弟・三十郎信包が長野家に入り、次郎具藤は北畠家に返されることとなったが、和睦交渉の際に父・信長が要求する前に北畠具教が率先して俺を北畠家の当主に迎えたいと申し出たため、そんな具教の実子である次郎具藤をそのまま長野家の当主に据えておいても問題は無かろうと考え三十郎信包を強引に捻じ込むことはしなかった。
また、戦で実際に矛を交えた事もあり織田家の武力を実感してか、長野家を支える細野壱岐守藤敦・分部興左衛門光嘉・雲林院慶四郎祐基らも父・信長の決定に対し異を唱えず、次郎具藤を支え長野家領内を治める事を約していた。
そんな長野家が、俺を当主に迎えた北畠家の動きに注視していない訳はなく、北畠家の動きを不智斎や右近大夫将監などから伝え聞くと、北畠家に倣い北畠領に入って来た商人を自領に引き入れるよう関所を廃した。
さらに、明応の大地震による津波で荒廃した安濃津を大湊と海運による交易が可能になる様に港を整備。尾張をはじめとした東国の港からの船が大湊に入る前に立ち寄る港となり、安濃津の港に降ろされた荷が安濃津から関の宿を通り鈴鹿川・鈴鹿峠を越えて近江に(鈴鹿街道)。安濃津から長野峠をこえて伊賀へ(伊賀街道)と物流が生まれた。
この経済的な波及は織田家と誼を通じる関家・神戸家へと広がっていったが、願証寺のある長島や繋がりの深い桑名の周辺では関所を設けたままであった為に関所を避け商人たちは安濃津から知多半島へと船を進め、知多を経由し熱田(尾張)や岡崎(三河)への流れが出来たため長島や桑名は除外される形となり、願証寺に対し経済的な打撃を与えることとなった。
その動きを見て慌てたのは志摩の地頭(水軍)たちだった。
志摩の地頭は北畠家と協力関係(半臣従状態)にあったが、九鬼水軍が織田に組し、俺が九鬼水軍を大湊に連れて来たこともあって、俺が北畠家の当主になってからは没交渉状態となっていた。
九鬼水軍は元は志摩に本拠地を構えていたが、他の地頭との間で諍いが起き九鬼は志摩から追い出されて織田に身を寄せることとなっていため、尾張から伊勢に本拠地を移した九鬼水軍が志摩の地頭に対し何時牙を剥くかと戦々恐々としていた様だ。
もちろん、九鬼孫次郎も志摩の地頭に対し心穏やかではいられなかっただろうが、俺と共に伊勢を本拠地として力をつけると腹を決めてくれていた為、俺から志摩の地頭に対し改めて臣従を誓えば北畠家を支える水軍衆として認めると約束してくれた。もちろん、俺からの打診を断れば容赦なく攻め滅ぼすともいっていたが。
その孫次郎の思いを汲み俺が志摩の地頭に臣従の打診を問う書状を不智斎の添え書きと共に送ると、志摩の地頭たちは挙って北畠家の臣従を申し出てきた。
志摩の地頭たちの反応を俺から告げられた孫次郎は、最初は半信半疑で何度か真の事かと問い直して来たが、俺と不智斎から間違いなく志摩の地頭たちが臣従すると伝えて来たと聞くと、その場で大声で笑いひとしきり笑った後、
「致し方ござりませぬな。お約束通り先年の恨みは腹に収めると致しましょう。」
と俺に告げて苦笑を浮かべる孫次郎に俺は「すまぬ」の一言しか返す事が出来なかった。
だが、この孫次郎の決断によって俺は権中納言が治めていた北畠家の勢力範囲をそのまま手中に収めることとなったのだった。




