第七十一話 北畠家当主就任
遅くなりました。
今回はなかなかに難産となり、見直しが間に合わなかったため誤字脱字がいつもより多いかもしれません。
重ね重ねスイマセン。
「皆の者、面を上げよ!」
霧山御所の大広間に集まった北畠家の家臣と俺と共に織田家から移った家臣が一堂に会する中、俺は不智斎と右近大夫将監の二人を従え上座に座ると、右近大夫将監が平伏する家臣に対し顔を上げるように声を掛けた。
大湊へ『尾張』で乗り付けその日の内に霧山御所に入った俺は雪姫との対面を行うと日を置かず婚儀(三日間もかけて行われるものだとは知らなかった…)を執り行いその日の内に右近大夫将監の隠居と俺の北畠家当主への就任が告げられ、この日が当主として北畠家の家臣たちとの初顔合わせだった。
右近大夫将監の言葉に従い顔を上げた家臣たちの反応は二つに分かれていた。
一方は、半兵衛をはじめとした尾張から俺と共に北畠家に入った者たちで、その顔は『また何かやらかすつもりだな』という様な少し呆れの入った表情を浮かべる者たち。
もう一方は、出家し名を不智斎天覚と変えて政から退いたはずの具教と、織田・六角勢との戦に敗れ和睦の約定に従い隠居した右近大夫将監が俺を中央に左右に分れ上座に座っていたからだ。
「此度、北畠家に婿入りし当主となった兵庫頭にござる。
この後、北畠家の繁栄と日ノ本の静謐に尽力するつもりにござる、皆も某と共に励んでもらいたい。」
「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」」
俺の第一声に集まった者達は一斉に返事を返して来た。その様子を見回して満足そうに一つ頷き続けた。
「北畠家に到着した日にこの場に居た者は耳にしたことではあるが改めて言い置くことがあり申す。某は武士にござる。それは北畠家の当主に就こうとも変わりはござらぬ。
なれど、北畠家は公卿家でござりますれば公卿としてのしきたり等を執り行わなければならぬ事もあるであろうと思慮致します。その一切を右近大夫将監殿にお任せいたすことと致し申した。その為、ご隠居なされたところ無理を聞いていただき某の“後見役”として霧山御所にて務めていただくことと相成った。
更に、不智斎殿も若輩の某を支えていただくため“相談役”として某の傍に御仕えていただくことと致した。皆も左様心得ていただきとうござる!」
この言葉に北畠家の家臣たちは戸惑いながらも笑みを浮かべる者が多かった、一方で尾張から来た者の中まだ俺との付き合いが短い父の母衣衆だった佐脇藤八郎、長谷川右近、山口飛騨守、加藤弥三郎の四人は『良いのぉ?』と言うように首を傾げていた。
北畠家の者たちにしてみれば、俺が北畠の当主になったことで政もこれ迄とはガラリと変わり、長年にわたり北畠家に仕えていた者は閑職に回され織田家から来た者達によって壟断されると考えていた。ところが、俺の口からこれまで長らく仕えていた不智斎や右近大夫将監を俺の傍に置き重用するとなれば、北畠家の旧来からの家臣が粗略に扱われることは無いだろうと思えるからだった。
そんな北畠家の者たちの表情を見ながら俺は更に続けた。
「某は“尾張の者”“伊勢の者”と出自で差別するつもりはござらぬ。力のある者はそれ相応に取り立てるつもりにござる。とは言え現時点で北畠家の者の力量をすべて把握している訳もなく、個々人の力量について知る者は数える程しかおりませぬ。その為、まことに申し訳なき事ながら政に関して力量確かと某が頼みにする前田蔵人と小野和泉守を中心にしてこの地を治めて来た北畠家の御歴々には二人に合力いただきとうござる。蔵人、和泉守、皆に挨拶いたせ!」
俺から指名をお受けた二人は、拳二つ分ほどにじり進み、
「前田蔵人利久にござります。以前は尾張の荒子城を治めており申したが事情により兵庫頭様のもとに身を寄せお仕え致しておりまする。兵庫頭様の下、当地を平らかに治めとうござりまする。何卒よしなに願いまする。」
「小野和泉守政次にござる。遠江の井伊谷で家老職を勤めておりました。御家の安泰の為、命を捨てるつもりでござりましたが、兵庫頭様に拾われお仕え致すこととなり申した。以後見知りおき下さりませ。」
利久は柔和な笑みを浮かべながら、政次は能面の様に表情を消しそれぞれ名乗りを上げ北畠家の者たちの顔をグルリと見廻した。そんな対照的な二人の表情ではあったが、北畠家の者達は二人の目の奥に同じような強き意思が潜んでいる事に気付き、背中に冷たい汗が流れるのを感じて多くの者が生唾を飲み込んでいた。
その様子を見て俺は安堵し、話を進めた。
「次に、この後北畠家では法家の思想を以って政を行う事にしたいと思っております。その為、基本となる式目を整えることと致します。
式目の策定は早急に進めなければならないと考え、駿河の今川家が策定した『今川仮名式目』を参考に北畠家に合った式目を策定することと致しまする。
式目の策定は竹中半兵衛と鳥尾屋石見守殿を中心に進めてもらう所存にござる。
策定に先立ち今川仮名式目の写本を用意いたした。今川家の仮名式目がどの様な物であるか皆も目を通し、各々ならば如何にするが良いか考えていただきたい。
そして、考えが有る者は半兵衛と石見守の下へ申し出るように、良き案であれば新たに策定する当家の式目に加えることもやぶさかではござらぬ。
半兵衛、石見守殿。両名には苦労を掛けるがよろしく頼む。」
俺の言葉に半兵衛はいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、
「お任せください。後々まで恥じる事の無い式目を策定して御覧に入れまする。」
と堂々と返事を返したのだが、突然式目の策定を告げられた石見守は戸惑いを隠せなかったものの、
「は、はい。誠心誠意励みまする!」
と返すのだった。
この式目策定に半兵衛と石見守を中心にして行ったことで、以前より“今孔明”と呼ばれていた半兵衛に対し、石見守は“今士元”と並び称される事となり、北畠家を智謀で支えていくこととなる。
閑話休題
「次に軍制についても申しておかねばならぬ事がござる。先ほど申したがこの後は日ノ本の静謐の為に織田弾正忠様と共に軍を起こさねばならぬ事が多くなる。そこで、これまでと異なる軍制を取ることと致しまする。
先ず、戦の度に農民を徴兵する事を禁じ常備兵を揃えることと致す。」
俺の言葉に北畠家の者たちから唸り声が聞こえて来た。
戦でしか使い道のない常備兵などを揃えるよりも農民を徴兵した方が簡単で安上がりだと考えたからだろう。戦国の世で常備兵を整える者など数える程しかおらず、農民を徴兵するのが常識だったからだ。
しかし、俺は農民を徴兵し戦をするこの手法が戦国の世を長引かせることになる一因だと考えていた。
この時代、世界は小氷期に入っており冷害などが各地で起きり食料生産が落ち込み易い時期に入っていたため、食料を求め日本各地で争いが起き易い状況だった。そんな時期に戦の度に農民を駆り出していた為に食料生産を行う農民を戦で失うという事態も起こっていた。食料を求めて戦を起こしたにも拘らずその戦で食料生産の担い手を失うという事態を引き起こしては食料生産力の低下を引き起こし、それを補うために更なる戦が行われるという悪循環に陥ることとなっている様に思われた。
農民を戦に徴兵するという事は、国を支える食料生産者を失うという危険を冒すことに他ならない。その危険を回避するには農民の徴兵を止めるしかないというのが俺の答えであり、国を富ます為には常備兵を以って戦に当てるしかないという結論に達したからだった。
もちろん、戦のない時は常備兵など無駄飯食らいだという考えが有ることも理解できる。だが、常に戦に備えて鍛錬に励むことの出来る常備兵ならば、高度な戦術を用いようと考えた場合でもそれに対応出来るだろうし、道・街道の普請や河川の改修など農民を徴し行っている土木工事を常備兵で行うことで農民を徴する事も必要最小限にとどめる事が出来、常備兵を無駄飯食らいにすることもなくなると考えていた。
しかし、いきなりこれまでと同じだけの兵数を常備兵で揃えろと言っても無理な事は分かっている為、三年を目処に整える様にと告げ、その為の財源を確保するためこれまでの稲作の他に茶と綿花の栽培を行うようにと三河の徳川次郎三郎信康から譲ってもらったチャノキの苗と綿花の種を北畠家の家臣たちに配ることとした。
「次に、北畠家の軍旗を鎮守府大将軍顕家様が掲げられておられた孫子の旗に戻すこととする。」
孫子の旗に戻すという俺の言葉に、北畠家の者達は驚きと戸惑いを隠せず大広間にザワザワとざわつき始めてしまった。すると、
「静まれ!兵庫頭様の御話はまだ終わってはおらぬぞぉ!!」
そう声を上げその場を静めたのは、木造左近衛中将具政だった。左近衛中将の行動を意外に想いながらも感謝を込めて小さく頭を下げると、そんな俺に対し左近衛中将は慌てた様子でその場に畏まり、
「兵庫頭様、お話をお続け下さりませ。」
と言う左近衛中将に促される形で俺はこの後終生掲げることとなる孫子の軍旗について話を続けた。
「左近衛中将殿、かたじけのうござります。さて、近年では孫子の旗と聞いて世の者たちが思い浮かべるのは甲斐武田家が掲げる孫子の旗であろう。しかし、武田家が掲げる孫子の旗には前半の風・林・火・山のみ。後半の『郷を掠めて衆を分かち、地を廓めて利を分かち、権を懸けて動く』は軍術に直接かかわる事ではないとして省かれたのは分らなくもないが、『難知如陰: 知り難きこと陰の如く、動如雷霆: 動くこと雷霆の如し』が含まれておらぬのは何故か分らぬ。そこで、某は風・林・火・山に除かれていた陰と雷そして某が身上としている『諦めぬ事、波の如く』の波を加え、風・林・火・山・陰・雷・波の七文字を旗に記したいと思うが、如何に?」
そう問い掛けると、顕家公が掲げていた孫子の旗を戻すと言った俺の言葉に高揚していた北畠家の者達は当惑した表情を浮かべた。その中、一人の若武者が声を上げた。
「兵庫頭様にお訊ねいたしたい。孫子の四如(風林火山)に陰と雷の二如を加えねばならぬとお考えになられたのは如何なる訳にござりまするか。」
「相模守!?」
声を上げた若武者に対し、左近衛中将が困ったような表情を浮かべ窘めようとしたが、俺はそんな左近衛中将を制止し、
「その方は?遠慮は要らぬ名乗りを上げられよ。」
「大河内相模守教通と申します。大河内左少将具良が一子にござります。」
と名乗った。なるほど、言われて見れば大河内城の城門前での一騎打ちに大広間で具教を守ろうと奮戦した左少将具良を思い起こさせる若武者だと納得した。
「相模守殿。先ほどの問いでござるが、陰は軍における情報の漏洩又は収集についての重要性を説いたものと某は解釈いたしております。応仁の大乱よりこれまで日ノ本の彼方此方で行われていた領地や糧秣を奪い合う小競り合い程度ならば軍の行動における情報などにそれほど重きを置く事も無かったやもしてませぬ。ですが、この後北畠家が直面する戦は領地を争う様な小競り合いではなく、御家の存亡を左右する様な大戦にござりまする。しかも、北畠家だけで行う訳ではなく六角家や織田家、あるいは三河の徳川家などと示し合わせて軍を動かすこととなりましょう。その様な時に重要になるのは、情報の共有や秘匿、更に敵方の情報の収集にござります。それを疎かにしては勝てる戦も大敗を喫す事となりましょう。そうならぬ為に、陰の教えが重要であると某は思うのでござります。」
そう力を込めて告げた俺の言葉に相模守は納得したように深く頷くと、
「…なるほど。確かに兵庫頭様の申される通りにござりまするな。それでは雷は如何でござりまするか?風の教えと同じような事を言っているのではありませぬか。」
更に問い質して来た。その相模守に左近衛中将は苛立っていたが、実兄の不智斎が苦笑を浮かべながら抑えるように手振りで示すとしぶしぶ我慢すると言ったやり取りを見せていた。その様子を横目に俺は相模守の問いに答えた。
「『疾き事、風の如く』は行軍の速度を示していると某は考えまする。行軍を速め素早く動く事で敵の先手を取り、有利な地を我が物とし戦を行う。一方、『動く事、雷霆の如し』とは行軍の速度ではなく、軍を起こす初動について指しているのではござりませぬか。いくら行軍速度が速くとも、決断が遅ければ敵に先手を取られてしまいます。軍を起こす際には“果断”である事が求められるとの教えだと某は考えます。」
「まこと兵庫頭様の申される通りにござります。そこに、何万何千と打ち寄せて岩を砕く波の様に、諦めることのない心を示された『諦めぬ事、波の如く』の波を加え、軍旗として掲げられる事で北畠軍の姿勢を示されようとされるとは、感服仕った!」
俺の説明を聞き終えた相模守は大きく頷くと、一際大きな声で納得したことを告げると額を床に付ける様に深々と頭を下げた。
そんな相模守に俺は軽く頷き
「賛同を得られたようでなにより、他にも相模守殿の様に何か腑に落ちぬ事があれば何なりと問うていただきたい。これは軍旗についてだけでは無く、先ほど話した政や軍制についても同様にござる。某は北畠家の当主となったからと言って上意下達による政を行おうとは思ってはおらぬ。もちろん、物事の方針や決定は某が責を負う。しかしそこに至る過程において皆もそれぞれが如何すれば良き様になるのかを考えことが肝要。『三人寄れば文殊の知恵』という、某一人の考えだけでは立ち行かぬことも多々あろう。皆の意見・提言・進言・諫言を大いに期待する!」
「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」
相模守の直言を例に挙げてこの後も北畠家の政に何かあれば言うようにと告げる俺に、大広間に集まった者たちは内心では半信半疑ではあるだろうが声を揃え応じてくれた。
もちろん、全ての事柄で家臣の言葉を参考に進めるなどと言う事は出来はしない事など俺も重々承知している。それで、頭から「当主の俺の言う通りにしろ!」となどと命じては、いくら戦に敗れて俺を当主として受け入れたとしても‥否、受け入れたからこそ俺が傲岸不遜な態度で北畠家の家臣に当たる事など出来ない。そんな事をすれば、北畠家の家臣の心は離れ史実で起きたような『三瀬の変』を引き起こしたような状況を作り出してしまいかねない。
この後、喫緊では願証寺とその次には遠江を虎視眈々と窺う武田家と相対さねばならなくなることが分かっている中で、家中の不和など言語道断。例え、家臣に阿っていると嘲笑われようとも領地経営の実績を出し北畠家の者達が俺を真に北畠家の当主として認めるまでは致し方ない事だと腹を括っていたから出た言葉だった。
しかし、北畠家の者からすれば、俺の言葉は望外のものであった。織田と六角の連合軍によって行われた南伊勢の攻略ではあったが、北畠家の者からすれば堅城と名高い大河内城を攻め落としたのは織田勢であり、しかも総攻めを行うと宣言してその言葉通りに一日で落として見せた姿に畏怖さえ抱いていた。その織田勢を率い城門前での一騎打ちに総攻め時の一騎駆けとその武威を見せつけた俺が、一方的に下知に従えと迫るのではなく、自分たちにも意見を求め共に北畠家を盛り立てて行こうと見せた姿勢に驚き喜んだ。『新たに北畠家の当主となった若武者は自分たちを必要としてくれている!』と。
そして、それを決定付けたのは、俺が相模守に対し告げた言葉から始まるやりとりだった。
「そういえば、相模守。その方の父・左少将の傷の様子は如何なっておられる?」
大河内城の広間で権中納言具教を守って俺に腕と足を斬られた左少将具良のことを問うと、一瞬睨みつける様に俺を見た相模守だったが直ぐに気を静める様に目を閉じた後、再び俺を見つめ、
「はっ。父・左少将の傷は大事に至りませず命を拾いましてござりますが、戦働きは出来ぬ様になりまして隠居すると申しておりまする。」
と答えた。その答えに俺は小さく頷くと、
「戦場での事、謝罪はせぬ。しかし、戦働きは出来ぬからといって隠居を決め込むは些か早計というもの。戦働きは出来ずとも左少将殿には戦場はもとより長年に渡り北畠家を支えて来た経験がありましょう、その知恵を以って某を支えていただきたい。不智斎殿と共に某の相談役を命じる。左少将の見識と武略をこの後の北畠家のために生かす様にと某が申していたと伝え、必ず出仕させていただきたい。」
と告げると、相模守は驚いて目を大きく見開き俺の顔を凝視したが、俺が戯れで言っていないと分かると深々と頭を下げた。
「はっ!必ずや父・左少将に申し伝え兵庫頭様の御傍に出仕致すように説き伏せまする!!」
そう大きな声で答える相模守に俺は大きく頷いた後、大広間に集まっている北畠家の者たちを見回して、
「先の戦で手傷を負い戦働きは出来ぬと申す者は左少将の他にもいるであろう。だが、北畠家には必要なのは戦働きが出来る者だけではない。
先にも申した通りこの後北畠家は法家の思想を以って政に当たる、その為にはこの後に定める式目に沿って政を進める文官が必要となる。その者達の働き次第で、北畠家の浮沈が掛かっていると言っても過言ではない。働きの場は戦場だけではないのだ。その事よくよく忘れぬよう心致していただきたい!」
「「「「「「「「「「はっ!!」」」」」」」」」
力強く告げた俺の言葉に、大広間に集まった者たちは声を揃え承知の返答を返し、俺が大広間に入った時に比べて明らかにその場の熱が上がっていた。
北畠家の当主として顔合わせは兵庫頭信顕の思惑と北畠家の者たちの思いが奇妙に絡み合ったものとなったが、この顔合わせが“戦国、最も強固なる家臣団”と称されることとなる北畠家の萌芽となったのは間違いのないことだった。




