第七十話 婚儀
「雪殿、なかなかやりますね。キィヤァァァァァ!」
「徳殿も!セイィィィィ!!」
北畠家の家臣と顔を合わせた後、俺は身に着けていた鎧兜を脱ぎ絞った布で体を拭った後に直垂(武家の正装)に着替え、半兵衛と共に不智斎殿の案内で霧山御所の奥殿へと通された。
もちろん、婚姻相手の雪姫に会うためだったのだが、奥殿に入ると直ぐに奥に仕える女中らしき女性たち何やら慌てた様子で右往左往していた。その様子に不智斎殿は顔を顰めると、近くを通ったお女中を捕まえて問い質した。
「これ!何をその様に慌てておるのだ。これより雪の下に婿殿を案内するのだぞ!!」
「は、はい。申し訳ござりませぬ。それが…」
と何か言い辛い事でもあるのか言葉を濁すお女中。そんな女性の態度に不智斎殿は苛立ち、
「えぇい!一体如何したというのじゃ、有体に申してみよ!!」
そう声を荒げるとお女中はその場に平伏して、
「はいぃ!織田の徳姫様が雪姫様のもとをお訪ねになられまして…」
そう言ったかと思うと不智斎殿は顔を青くしその場から駆け出されてしまった。俺は慌てて不智斎殿の後を追うと、奥殿の中庭で小袖に旅袴姿で木太刀を構える徳姫と小袖に襷掛けをして木製の薙刀を持った娘子が向い合い、気合いと共に木刀と木製の薙刀を打ち合わせていた。
「雪!」
「徳!」
不智斎殿と俺の口からそれぞれの名が飛び出した。同時に俺と不智斎はお互いの顔を見合わせることとなった。
「“雪”とは、此方が雪姫殿にござりまするか。」
不智斎の顔を見ながら確認のために敢えて訊ねる俺。その俺の言葉に不智斎は顔を顰めた。
「は、はぁ。あの薙刀を振るう女子が娘の雪にござります。それで、雪のお相手は彼の“生駒の鬼姫”と名高い徳姫殿にござりまするか…なるほど、ここ伊勢にも風の便りに耳にしておりましたが納得い‥これは失礼な事を申しました。」
不智斎の言葉に俺も“生駒の鬼姫”という名が伊勢にまで届いているのかと溜息が出そうになるのを何とか堪えていると、そんな俺に同情したのか、
「兵庫頭殿もご苦労をされておられるのですなぁ…」
と同病相憐れむといった様に不智斎は苦笑を浮かべた。
俺たちのやり取りの間も徳と雪姫は嬉々とした表情で木太刀と木製薙刀を振っていた。そんな二人に対し、俺も不智斎も沸々と怒りが湧き上がって来たのか再び同時に声を上げていた。
「雪!何をしておるかぁ!!」
「徳!じゃじゃ馬が過ぎる様なら尾張に帰すぞ!!」
館中に響き渡る様な俺たち二人の怒声に、徳と雪姫はビクリと体を震わせ二人同時に動きを止めると、怒声の主を探す様に頭を動かし俺と不智斎に目を止めた瞬間、ワタワタと手に持っていた木太刀と木製薙刀を背後に隠しその場を取り繕おうと考えたのか、ぎこちないながらも作り笑いを浮かべた。
「御父上様。兵庫頭様の御出迎えはお済になられたのでござりますね。お疲れにござりましょう、茶など一服如何でござりますか?」
と告げる雪姫。
「あ、兄上。じゃじゃ馬などとは心外にござります。これも武家の女子のたしなみと言うものにござります。ところで、北畠家の皆様との面会はお済なられたのでござりますか。」
と嘯く徳。そんな二人の反応に俺と不智斎は堪らず、大きな溜息を溢すのだった…。
「それで、何故に斯様な仕儀となったのか我らにも分かる様に説明いたせ。」
俺と不智斎は雪姫と徳を連れて館の一室に入り二人を下座に座らせると何があったのかと問い質した。
「それは、その…。」
と言葉を濁す雪姫に対し徳は視線をあらぬ方向へと向けて、如何にも悪戯が露見しそうになっている所を何とか誤魔化そうとしている悪ガキといった仕草をしていたため、不智斎にも事の発端は誰の仕業なのか丸分かりだったようで苦笑を浮かべて、俺の対応を『お手並み拝見』とばかりに見守るつもりの様だった。
俺は仕方なく、
「徳。北畠家について早々騒ぎを起こすとは何事だ!言っておいたはずだぞ、織田の名を貶める様な事をしたら尾張に追い帰すと。まさか忘れたのではあるまいなぁ!!」
と問い詰めると、徳は心外だとばかりに顔を真っ赤にして、
「兄上!わたくしは織田の名を貶めるような事は致してはおりませぬ!!」
と声を上げた。そんな徳に俺は大仰に溜息を吐き、
「北畠家に到着して早々に勝手に奥の間に入り込み、雪姫殿と木太刀を交えるなど大名家に名を連ねる女子の所業ではないぞ!一体何を考えているのだ!!」
と叱ると、
「尾張を立つ前に申したではありませぬか。兄上とご婚儀を執り行われる北畠家の雪姫殿が兄上に相応しき御器量をお持ちの御方かわたくしが確かめると!それを実行しただけにござります。」
と胸を張って言い放った。その言葉に俺は頭を抱えたくなった。
確かに尾張を立つ前にその様な事を言っていたが、まさか北畠家に着いて早々に行動を起こすとは思いもしなかったのだ。
これは明らかに俺の監督不行き届きであったと不智斎並びに実際に被害を被った雪姫に謝罪をしなければと思った矢先に、思いも掛けない方向から声が飛んできた。
「それで徳姫様は『公卿家の姫君が“今益徳”の奥方として相応しい御方か否かその真偽を確かめさせていただきます』と申されたのですね。それで合点が参りました。」
そうニコニコと笑顔を浮かべたのは雪姫だった。その笑顔に、不智斎は益々顔を顰め、雪姫付きの女中を『何故に雪姫の行動を止めなかったのだ!』とでも言うように睨みつけたものの、当の女中は不智斎の顔を一瞥したものの何もなかったと言うように静かに視線を外し、無視を決め込んだ。
その女中の対応で、雪姫と俺の婚儀は雪姫の了承を得ずに不智斎が独断で決めた事で、雪姫本人は分からないが雪姫に仕える女中には不本意な決定だったのなと感じられた。それにしても“今益徳”とは何の事だから分らず、後ろに控えていた五右衛門に視線を向けると五右衛門は素早く近づき、
「“今益徳”とは兵庫頭様の事にござります。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田弾正様の三人の御子息を三国志の英傑になぞらえ勘九郎様を“今玄徳”左京大夫様を“今雲長”そして兵庫頭様を“今益徳”と称する者たちが増えてございます。」
と教えてくれたのだが、これには頭痛がしてくるような気がした。
確かに、この時代(室町~戦国)には能力の高いと思われる武将を三国志などの中国の書物に出てくる人物になぞらえて呼ぶことが多々ある。半兵衛の“今孔明”も彼の者の智謀の才を諸葛亮孔明になぞらえての事だ。しかし、それは半兵衛の才あってのモノで俺たち兄弟を蜀の義兄弟になぞらえるなど烏滸がましいにも程がある!と思ったのだがその事が顔に出ていたのか五右衛門は小さく首を横に振り、
「兵庫頭様は南伊勢の戦いにおいて大いに武威を示され、左京大夫様と共に次代の織田家を支える柱と考える者は多くおりまする。そのお二人を、蜀王を支えた義弟になぞらえ長兄の勘九郎様をお支えして欲しいと願っても無理からぬことにござりましょう。」
と耳打ちしたために口を噤まざるを得なくなってしまった。下衆の勘繰りかもしれないが、俺の事を“今益徳”と口にする者は他家に養子に入った俺たち二人が織田家に反旗を翻すことなく、この後も勘九郎兄上を助けて織田家領内を平らかに治めて欲しいという願望が込められているのかもしれないと感じたからだ。
戦国の世では兄弟で争い国が荒れるなど枚挙に暇がない。実際、父上に御舎弟・武蔵守信勝が反旗を翻し誅されたのだ。次代にはそのような事が起こらぬようにと願う者も多い事だろう。もちろん、俺も左京大夫兄上も勘九郎兄上に刃を向けようなどとは微塵も思っていないのだが…。と思考が本題と逸れていた俺の耳に雪姫を叱責する不智斎の声が飛び込んできた。
「かと言って、木太刀を以って立ち会うなど以ての外じゃ!」
「そうは言われますが、立ち合いを所望されてそれを避けたとあっては公卿の御血筋とは申せ、北畠鎮守府大将軍顕家様をはじめ武勇を以って力を示してきた北畠家の名折れとなりましょう。その様な事、わたくしは甘受できませぬ!」
不智斎の叱責に対し堂々と己の考えを口にする雪姫の凛とした美しさに一瞬見惚れてしまった。そんな俺の様子に、徳は頬を膨らませてジロリと睨みつけてきた。
「兄上。何を鼻の下を伸ばしておられるのですか?!」
「い、いや。鼻の下など伸ばしてなど…と、そもそも其の方が断りも得ず北畠家の館に乗り込み騒ぎを起こしたのが原因であろうが!
不智斎殿、雪姫殿、失礼を致した。この慮外者は早急に尾張に帰す故、如何かご容赦下さりませ。」
そう言って徳からの追及をはぐらかして謝罪の言葉を口にする俺に、不智斎と雪姫は言い争いを止め戸惑いの表情を浮かべた。だが、俺の言葉に納得がいかないのか即座に徳が声を上げた。
「兄上!それは横暴と言うものにござります。わたくしは兄上を婿とされる御方がどの様な御方なのかを知りたかっただけにござります。それに、兄上は母上からわたくしの嫁ぎ相手を決める様にと申されているではありませんか。その為には兄上の御近くに居た方が宜しいのではありませぬかぁ!」
尾張に帰すという俺の言葉に焦りを感じたのか、少し悲鳴混じりの声を上げる徳の言葉に真っ先に反応したのは、何故か雪姫だった。
「そうなのですね!ですから徳姫様は私との立ち合いを望まれて…そ、それでわたくしは徳姫様の御眼鏡に適いましょうか?」
「こ、これ雪…」
雪姫の言葉に不智斎は焦りを見せたが、そんな不智斎に構うことなく徳姫は笑みを浮かべると、
「実際に立ち合いをしてみて、雪姫様ならば兄上を婿にされるのに異存はないと感じました。自らの口で言うのも何ですが、わたくしと満足に立ち会える者は尾張にも数える程しかいませんでした。
ですが、雪姫様はわたくしの打ち込みにも臆することはありませんでした。貴女様なら兄上が戦場に向かい城を開けられても、北畠の家臣領民を守っていただけるものと信じる事が出来ます!」
「徳姫様…」
徳の言葉に雪姫は頬を染め感じ入ったように目を潤ませた。その二人の姿に俺と不智斎は顔を見合わせ苦笑を浮かべるしかなかった。
「改めまして、この者が娘の雪にござります。」
「雪にございます。父の不躾な願いをお聞き届けいただきありがとうござりまする。」
場を改め俺は雪姫と挨拶を交わすこととなったのだが、雪姫からのたっての願いという事で徳まで同席する事となり対面の席に着いたのは、俺に半兵衛と寛太郎と五右衛門に徳の五名。対して北畠家からは雪姫の父である不智斎に兄で現当主である右近大夫将監具房とその弟の式部少輔親成に不智斎の正室・北の方の五名だった。
北の方は管領代を勤められていた六角弾正少弼定頼の娘で、承禎入道の妹に当たり雪姫は北の方の実娘ではないものの北畠家の奥を取り仕切る者として同席していた。
また、式部少輔親成は史実では信雄の北畠入りを頑強に反対した人物でとして知られており三瀬の変において誅殺されているが、兄・右近大夫将監と共に対面する様子は俺の事を睨んでいる訳でもなく、どちらかと言えば憧れの人物に会ったという様に目をキラキラと輝かせ俺の顔を凝視していた。
一方、右近大夫将監は体は大きいものの荒ぶる様子はなく、“気は優しくて力持ち”を体現している様な人物に見えた。これが史実では大腹御所と揶揄される男とはとても思えなかった。そんな北畠家の面々に、
「織田兵庫頭信顕にござりまする。以後、良しなに願い奉りまする。某は幼き頃に寺に有った太平記を読み、後醍醐の帝に仕え若きながらも武勇を馳せた北畠鎮守府大将軍顕家公に魅せられ申した。その御生家である北畠家に婿入りする事となりましたこと誉と感じております。」
と挨拶すると、不智斎をはじめ右近大夫将監や式部少輔は驚きの表情を浮かべていたが、俺と対面に座る雪姫は頬を赤らめて満面の笑みを浮かべた。
「父上!お聞きになられましたか。兵庫頭様も鎮守府大将軍顕家様に魅せられたと申されておられますよ!!」
「ま、まことに…他家では鎌倉殿(尊氏)に逆らい偽帝についた逆賊とされる顕家公を『魅せられた』と申される方がおられるとは。儂の判断は間違いではなかった…。」
「「父上…」」
「御前様…」
俺の言葉に雪姫に続き不智斎まで感極まったように声を詰まらせ目には涙が浮かんでいた。そんな不智斎に右近大夫将監と式部少輔はこれまでの労を労うように声を掛け、北の方は涙ぐむ不智斎に寄り添いその背中を何度も撫でた。
「お恥ずかしき姿をお見せしてしまい申し訳ござらぬ。」
不智斎の気持ちが落ち着くのを黙って待っていた俺たちに、不智斎は深々と頭を下げながら謝罪の言葉を口にしたが、俺はそんな不智斎に首を横に振り、
「決してそのような事はござりませぬ。帝の下で若きながらも力を尽くされた顕家公を逆賊とする者が愚かなのです。そもそも、帝を脅し退位させるなど最大の下克上にござりましょう。その下克上を成した者が定めし政の下では下克上が起きて当然の事。我が父・弾正忠も公方様を奉じて上洛されましたが、この後天下そして日ノ本の静謐に公方様が仇なす時には下克上にて生まれた政を廃し、直に帝を奉じ奉り日ノ本の静謐に尽力する事となりましょう。某もそんな父・弾正忠に従い日ノ本の静謐の為に邁進する所存。
雪姫殿。そんな某と共にこの乱世を渡り行く御覚悟はござりますか?」
そう告げて雪姫に視線を向けると、俺の視線に一瞬気圧されたのか唾をのんだ雪姫だったが、直ぐに表情を引き締めると徳との立ち合いにも見せていた力を込めた瞳で俺を凝視し、
「兵庫頭様のお言葉をお聞きしわたくしの心は定まりました。兵庫頭様を北畠家に御迎えし、妻として兵庫頭様と共に日ノ本の静謐の為に歩とうござります!」
と力強く応えた。その言葉に俺も大きく頷き、此処に俺と雪姫との婚儀は整ったのだった。
織田信雄に嫁いだ北畠の雪姫は史実では三瀬の変で父と兄弟(具房以外はほとんど殺された模様)に北畠家古参の重臣が誅殺された事で、自殺しようとしたものの一命を取り留め、その後は信雄や子供たちを支えたと言われています。
自死に失敗して、死ねなかったのは自分にしなければならない事が残っているために神仏が死ぬことを許してくれなかったのだと思い、信雄や子等を支える事に尽力したのかもしれませんが、それでも肉親や親しかった者たちを殺され、殺した者に尽くすというのは生半可な覚悟では出来ない事だったのでは無いかと感じています。
そんな肝の座った雪姫が、父親をはじめ周りには剣術バカといえる様な者たちに囲まれていたら、自らも剣術を身に着けたいと思ったとしても不思議はないと思い薙刀術の名手にしてみました。
そう言えば、感想欄の書き込みで剣術女子の雪姫を予測されていた方もいらっしゃいましたね(苦笑)。




