第六十九話 お国入り その二
◇伊勢国 大湊 北畠権中納言具教改め不智斎天覚
「御隠居様、如何やらアレに見える船がその様にござります。」
昨年(元亀二年)の師走末に行われた公方立ち合いの下で行われた織田・六角と北畠との和睦交渉において、儂は南伊勢攻略に織田軍を率いた織田三介信顕殿を娘・雪の婿にし、北畠家の当主として迎え入れる事を約した。
それを受けて、織田弾正忠殿からは年明け早々に三介改め兵庫頭信顕殿を北畠に送るとの書状が届けられた。その余りに早い対応に、北畠家の者たちは慌てて兵庫頭殿の受け入れ準備を整え、本日晴れてお国入りと相成った。
しかし、そのお国入りに際し大湊に舟で参られると知らせがあり、儂は十人ほどの家臣と共に大湊に駆け付けていた。
通常であれば、行列を従えてその数で婿入り先に織田家の力を誇示するところなのだが、婿入り行列ではなく船にて大湊に参られるとは思わなかった。
何とも変わった婿殿だと思っていると、供の一人である鳥屋尾石見守が波間の奥に見える船影を見つけ声を上げた。
目を凝らすと確かに波と波の間から遠くに黒い船影を見る事が出来たのだが、大湊に来る船に比べて波間に垣間見える船影は何か違うように感じた。儂の直感は見事に的中しており、しばらくの後に大湊に近づいてきたその船はこれまで見て来た舟とは明らかに異なるものであった。
大湊には商人どもが商いに使っておる小早や関船といった昔からよく知る船が数多停泊しておる。が、いま大湊に近づいて来た船は関船の何倍も大きく、織田家の家紋である木瓜紋が書かれた帆と合わせて三本の帆が張られていた。
その威容を誇る船影に、大湊の者たちは慌てふためき右往左往する中、その巨船から風に乗って、
「面舵~ぃ、湊に対し艦を水平に。左舷砲門、開けぇ!兵庫頭様。」
という声が聞こえて来たかと思うと、大湊に向かって真っすぐ近づいていた巨船が方向を変え大湊に舟の左舷を晒したかと思うと、再び
「礼砲用意~ぃ! 放てぃ!!」
という声が響いた。と、次の瞬間大河内城で耳にしたのと同じ轟音が冬晴れの海原に鳴り響いた。
その轟音に近づく巨船に右往左往していた大湊の者たちは腰を抜かし、儂の供をして来た家臣の半数以上が轟音に驚き頭を抱えてその場に伏せた。
「ご、御隠居様、危のおござります。お伏せ下さりませ!」
儂の身を案じ、その場に身を伏せる様に声を上げる家臣たちもいたが、儂はその声に首を横に振り、
「轟音の前に『れいほう』との声が聞こえた。手荒いがこれが婿殿の国入りの挨拶なのであろう。正に聞きしに勝る“たわけ”殿よ。」
そう告げる儂の言葉に顔を引き攣らせる家臣たちであった。そんな中、石見守は直ちに供をして来た家臣の内数人に先ほどの轟音は来港の挨拶の音だから恐れる必要はないと触れて回るよう指図していた。
そんな儂らの動きなど気に掛けることなく、織田の巨船は左舷を向けたまま大湊に近づいてきたかと思うと帆を降ろして動きを止めると錨を降ろし、巨船から数隻の小舟を降ろし甲冑を纏う織田の者たちが次々と下船してきた。
真っ先に降りて来たのは大河内城で目にした朱槍を携えた武者と見事な大弓を携えた武者。そして、その配下らしき兵たちで、その後も百名ほどの兵と武将が下船し我らの前に整然と並ぶと、最後に数人の将と思しき鎧武者を引き連れて、あの立浪巴の前立ての朱鎧の若武者が下船し、儂の前に進み出て来た。
「これは、権中納言様自らお出迎えいただけるとは恐悦至極にござりまする。」
そう言うと、徐に鬼を模した面具と兜を取るとその下から現れたのは凛々しい若武者で、京で会った織田弾正忠殿の面影があった。
「久方ぶりにござりまする。戦場では“津田戯之介”と名を偽りましたことご容赦下さりませ。改めて名乗らせていただきます。“織田兵庫頭信顕”にござります。再び権中納言様お目に掛かる事が出来て嬉しゅうござります。」
その名乗りに、やはりそうであったかと云う得心しつつ儂はこの者に負けたのだなと何故か納得させられるものがあった。
「織田兵庫頭殿、遠路よぉ参られた。儂は此度の縁組と家督相続を機に仏門に入る事にいたし、名を不智斎天覚と変え申した以後、不智斎とお呼び下され。ところで、アレは一体何でござるか?」
儂は仏門に入り名を変えた事を伝えると共に、兵庫頭殿の背後に浮かぶ巨船について訊ねると、兵庫頭殿は一度背後を振り返られて、
「アレにござりまするか。あれは織田家で建造いたした南蛮船『尾張』にござりまする。この後は北畠家の船として、大湊をはじめ伊勢の海の守りの要となることにござりましょう。」
と、事も無げに答えられたのだが、その兵庫頭殿の言葉に、儂は驚き大湊に供をして来た家臣たちからもどよめきが沸き起こった。そして、そんな家臣たちを代表するように石見守が声を上げた。
「申し訳ござりませぬ、お訊ねしても宜しいでしょうか?兵庫頭様はあの海に浮かぶ巨船を“南蛮船”と申されましたが、南蛮船とはあの堺などに来航すると聞く南蛮人が乗る船でござりましょうか?」
その問い掛けに兵庫頭殿は石見守に視線を向けると、
「其方は?」
と問われた。その言葉に石見守は慌てて、
「これは失礼を致しました。鳥屋尾石見守満栄と申しまする、以後お見知りおきくださりませ。」
と深々と頭を下げると、兵庫頭殿は微笑みを浮かべ一つ頷かれると、
「石見守殿、頭を上げられよ。それで、問いの答えだが其方が申す通りにござる。今、堺などに来航している異国の船と同じものだと思ってもらって構いませぬ。
たまたま尾張の廃寺に在った書物の中にあの船の絵図面を見つけ、そこにいる寛太郎や五右衛門と共に小さき物を作って屋敷の池に浮かべていた所、父・弾正忠が目を止めて興味を示し、三河へ質として向かう前に某と九鬼孫次郎嘉隆に建造を指示致したのでござります。それから二年を掛けて孫次郎が苦労の末にあのように見事な南蛮船を建造いたしたのでござります。今では知多の佐治八郎信方殿も和製南蛮船の建造に着手しておられ、間もなく二番艦・三番艦が就航の運びとなりましょう。さすれば、尾張から伊勢の海の守りは盤石なものになるものと考えておりまする。」
そう澱みなく堂々と告げられる兵庫頭殿の言葉に、石見守は頷き返すのが精一杯で、完全に兵庫頭殿に呑まれてしまったようであった。
そんな石見守や供をして来た家臣の姿に苦笑しつつ、改めて頼もしき若武者が北畠家の当主になるのだなと感じた。
「それでは、ご案内仕る。」
そういって霧山御所へ向かおうとする儂に対し、兵庫頭殿は右近大夫将監と同世代と思われる武将に目配せをすると、その者は小さく頷き配下の者に何かしらこえをかけた。それを確認してから兵庫頭殿は儂の後について大湊の大通りを抜け町の外へ出た。
「なっ、これは?」
儂が大湊の町外に出て目にしたのは、整然と集められた軍馬の群れであった。
その光景に驚くのは我ら北畠家の者のみで、兵庫頭殿以下織田の者たちは町の外に馬が用意されているのが当たり前であるかのような顔をし、躊躇する事なく各々に割り振られた馬に跨り馬上の人となった。その姿に圧倒されそうになるのを何とか堪えると、儂たちも各々の馬に跨り兵庫頭殿とその配下たる織田の方々を案内し一路霧山御所へと向かった。
「此方にござります。お召替えの時間も必要にござりましょう。一刻の後に大広間にてお待ち申し上げまする。」
霧山御所に着くと儂は、兵庫頭殿に此処まで着て来た鎧兜から着替えると思いそう申し出たのだが、兵庫頭殿は首を横に振られ、
「それには及びませぬ。先ずはこのままの姿にて北畠家の皆に目通り致したく思います。」
そう告げられると、引き連れて来られた兵にこの場での待機を命じると、兵庫頭殿は武将と思しき者達を引き連れ案内されることなく霧山御所の奥へと歩を進められた。
その歩みに戸惑いや躊躇いを感じさせることは無く、まるで己が屋敷であるかのように力強い足取りで大広間に一直線に向かっていった。
しかし、先の戦で霧山御所に着く前に公方の使者が訪れたため、兵庫頭殿は此度が初めて霧山御所に足を踏み入れた筈。それなのに躊躇うことなく大広間へと向かわれるその姿に、儂は戦慄せざるを得なかった。
大河内城でもそうであったが、この御方が霧山御所に攻め入って来たならば大広間は言うに及ばず、我が妻子が住まう館にまでも迷うことなく突き進まれたと容易に想像できたからだ。
大名の城や居住する館は敵に攻め込まれても直ぐには奥に進めぬように間取りが作られているもの。
にもかかわらず兵庫頭殿は迷うことなく大広間まで進まれるは、既に霧山御所の間取りが頭に入っているという事に他ならず、秘中の秘である城や館の間取りを詳しく探り出すことの出来る術を持っておられるという事なのだから。
そんな儂の心の内を知る由もない兵庫頭殿は、大広間に入ると北畠家の者たちが平伏する間を抜けて上座に向かった。兵庫頭殿の動きに合わせ付き従う同じ年恰好の若武者が素早く床几を二つ用意しその一つに兵庫頭殿は座られると、
「不智斎様。此方にお座りください。」
ともう片方の床几に座るように告げた。その声に促されるままに兵庫頭殿の横に置かれた床几に座ると、それを確認した兵庫頭殿は大広間に集まる北畠家の者たちに向かって声を上げられた。
「面を上げられよ!」
その声に従い顔を上げた北畠家の者たちは上座に儂と共に床几に腰を下ろしている甲冑姿の兵庫頭殿に驚きと困惑の表情を浮かべた。
「某が織田兵庫頭信顕にござる。此度、北畠不智斎様の御息女・雪姫様と祝言を上げ北畠家の当主となることと相成り申した。されど、祝言の前に北畠家の者達に言っておきたいことがあり申す。
某は見ての通り武士に御座る。北畠家は公卿家ではござりまするが、武士たる某が当主になるのだと左様心得ていただきたい。
さらに、某と共に同道した者達は某の直臣と織田家から預けられた家臣にござる。この後はこの者達と北畠家に長らく仕えて来られた其の方達が手を取り合って北畠家を差配して行くことになり申す。
これまで北畠家で行われてきたことを先ずは聞き、その後に今後の北畠家にとって有用である如何かを皆で考え、より良き政へと進めて行く所存。その時に念頭に置いて欲しいのは北畠家を中心とした伊勢一国のことではなく、この日ノ本の中にある伊勢国と北畠家だという事にござります。
応仁の大乱より既に百年が経とうとしているにも拘らず世は乱れたままにござります。そんな乱れた世で北畠家は如何にすれば良いのか?
我が父・織田弾正忠は“日ノ本の静謐”を考えておられます。そんな織田家に臣従を決めた北畠家は如何にするのか。よくよくお考えいただきたい。」
“日ノ本の静謐”。兵庫頭殿から、織田弾正忠殿が考えているのは乱れた世を正し日ノ本に平らかな世を齎そうとしているのだと告げられ、体が震えてくる気がした。
兵庫頭殿の言った通り、応仁の大乱より既に百の年月を数えてなお、各地の大名、国人領主が互いに争い日ノ本は乱れに乱れた末法の世(仏の教えは形骸化し、修行する人も、悟りを開く人もいなくなり、人々は慈しみの心を忘れ、私利私欲に走り、悪行を重ね、争いが絶えない世の中となる。親子関係が不和になり、年長者を敬わず、奇病が蔓延していく)と化しておる。
そんな今の世を弾正忠殿は本気で正そうと考え、その弾正忠殿に臣従を申し出た北畠家は如何にすれば良いと考えるのかを問われたのだ。
それは取りも直さず、兵庫頭殿もまた弾正忠殿と同じように世の乱れを正し日ノ本に静謐を齎そうと考えているという事に他ならぬ。
建武の乱以降、足利将軍の世となり北畠家は偽朝(南朝)に組した家として冷遇され、伊勢の国司と認められたものの、その立場は曖昧模糊としたものであった。そんな北畠家が日ノ本の静謐を目指す織田家の一翼を担う事になれば、二百年来の不遇を払う事が兵庫頭殿の下でなら出来るやもしれぬという思いが沸き起こり、年甲斐もなく儂の心は熱く猛るのだった。




