第六十八話 お国入り その一
「兵庫頭様、間もなく大湊にござります!」
「相分かった。いよいよだな…」
和製南蛮船の一番艦『尾張』の艦上で波間をジッと見据える俺に声を掛けて来たのは、九鬼水軍を束ねる九鬼孫次郎嘉隆だった。
孫次郎の言葉に俺は簡潔に返しながら、南伊勢攻略の後に起きた事を思い出しつつ、これからの事に思いを馳せた。
南伊勢攻略は大河内城に入っていた北畠権中納言具教が降伏すると、日を置かず霧山城にいた北畠家当主・右近大夫将監具房からも降伏するとの使者が差し向けられた。
右近大夫将監の申し出によって南伊勢はそのまま臣従する事になると思われたのだが、此処に来て京の公方から使者が遣わされ、本圀寺で公方の立ち合いの下で和睦交渉を行うようにと命令と届けられた。
その際、使者からの書面を見た承禎入道は顔を真っ赤にして怒り狂い、その場で公方からの使者に斬り付けようとしたため慌てて止め、この事は美濃で南伊勢攻略の報を待っている父に知らせて対処してもらう事にした。
俺と三七郎兄上からの知らせにより公方からの横槍を知った父も承禎入道と同じ様に激怒し、公方からの命を無視して北畠家との和睦交渉を進めようとしたところに、公方から父に弾正少忠の官位が、三七郎兄上には左京大夫の官位を任官させるとの知らせが届いたことで、父は渋々京・本圀寺での和睦交渉を受け入れた。
しかし、これによって北畠家の織田家への臣従は反故にされるだろうと覚悟したのだが、蓋を開けてみると北畠家は父からの和睦条件をすべて受け入れ、具教の息女・雪姫と俺を婚姻させた上で俺が北畠家の当主に就くことを認めたのだ。
具教がこの決定を下した背景には、先の南伊勢攻略戦での織田と六角の精強に敬意を持った半面、安濃津城が落城し長野家が臣従を決めた時点で織田・六角勢には勝てぬと判断して公方に和睦の仲介を頼んでいたのだが、仲介を頼んだ公方が欲心を出し、仲介する代わりに大湊の町が北畠家に収めている上納金を全て公方に差し出せと言ってきたらしい。
大湊は北畠親房の時代から繋がりがある湊。いくら和睦の仲介とはいえそう簡単に差し出せる類のものではなかったのだろう。公方との交渉に当たった左近衛中将具政も直ぐに返答することは出来なかったようだ。その間に、阿坂と大河内の城が落ち北畠家は降伏してしまったのだから公方は欲のために名を上げる機会を失した事になった訳だ。
もっとも、南伊勢の攻略に動いた俺たちとしてみれば公方が欲をかいたことで面倒な事にならなかったのだから公方の欲心に感謝と言った所だろうか?
まぁ、公方の思惑は横に置いておいて、俺は史実の通り北畠家へ養子に入り当主になることとなった。しかし、史実との違いは俺が北畠家の当主として入る事をこれまで北畠家の実権を握っていた具教が認めている事だろう。
史実では、具教は信雄(北畠家に入った時は具豊)を当主として認めておらず、具教は父・信長に反発し願証寺の支援を大湊に命じたり、遠江に侵攻してきた武田信玄の下に密かに腹心の鳥屋尾石見守を向かわせ支援を申し出るなどしていた。
しかし、この事は全て父・信長の耳に入っており実権を握ることの出来ない信雄に業を煮やして三瀬の変が勃発する事となるのだが、その三瀬の変回避に向けての重要人物である具教が、俺の北畠家当主の就任を容認しているという事は今後に向けて幸先が良いと言えるだろう。
もちろん、それに慢心することなく当初の予定通り動く予定ではあるが…という事で、俺は父に北畠家に入る際に三つの事を願い出た。
先ず一つは北畠家が治める南伊勢へのお国入りに、最新の和製南蛮船『尾張』に乗って行う事だった。これは即座に了承を得る事が出来、孫次郎率いる九鬼水軍も俺の旗下に加えられることとなった。これには今後行われるであろう願証寺との戦において水軍に働きが不可欠であると考えられるからでもあった。
二つ目は独自の馬印と旗印を用いる事。馬印は軍の大将を示す物で、その軍に所属する兵であることを示す旗印と共に特別に許可された者にしか用い事が出来ないものだった。俺は北畠家の当主になるのだから通常であれば既存の北畠家の旗を掲げることになる。
しかし、それでは織田家に北畠家は臣従し、俺が当主に入ったことを示すには弱いと感じていた。そこで、北畠鎮守府大将軍顕家が用いていた孫子の旗を再び北畠家の軍旗として登用しようと思ったのだ。
ただ、孫子の旗と言えば武田徳栄軒信玄が用いていることが広く知られていた。そこで、俺は風林火山と省略された物でなく、
“故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。”
(其疾如風: 其の疾きこと風の如く、其徐如林: 其の徐かなること林の如く、侵掠如火: 侵掠すること火の如く、不動如山: 動かざること山の如し、難知如陰: 知り難きこと陰の如く、動如雷霆: 動くこと雷霆の如し、掠郷分衆: 郷を掠めて衆を分かち、廓地分利: 地を廓めて利を分かち、懸權而動: 権を懸けて動く)
の軍事行動に関わる陰と雷を、更に“不諦如波:諦めぬ事、波の如し”を加えて『風林火山陰雷波』の七文字を記し旗印にすることを伝えると、それを見た父はクシャリを悪戯を仕掛けるときの子供の様な笑顔を見せて許可してくれた。
その父の表情から、これまで争う事の無かった武田ともこのままでは行かないと感じている事が窺えた。何より武田信玄の正室は一向宗本願寺派の教主・顕如の義理の妹。今は加賀の一向宗と直に矛を合わせる事ないものの、朝倉義景が浅井長政と父の説得に応じ上洛すれば、加賀一向宗が空き巣強盗の様に越前に攻め入ること必定。そうなれば、朝倉との約のために父は飛騨から軍を発し加賀に攻め入ることになる。そんな父の動きに対し顕如がこれ幸いと「仏敵・織田を攻めよ!」と号令を発するだろう。そうなれば顕如と関係から武田信玄が動くことが予測される。その時、父の背後を守るのが三河・遠江の徳川家康・信康親子であり、伊勢の国司となる俺の役割となるだろう。
そんな俺が武名高き顕家公が掲げていた北畠の孫氏の軍旗を掲げたら、なかなかに面白いことになると思ったのかもしれない。
そして最後の三つ目に願い出た事は、名を“信顕”から“具顕”に変える事への許しだった。
史実でも、信雄は北畠家に養子として入る際には北畠家の通字である“具”の一字を用いて名を“具豊”としている。それに倣い俺も具顕に変えようと考えたのだが、意外にも父はこれに反対した。
南伊勢攻略戦において、阿坂城と大河内城を落城させて前当主・権中納言具教を降伏させ霧山城にいた当主右近大夫将監具房からも降伏するとの使者が遣わされた事から、俺が養子として入るまでもなく北畠家は織田に臣従する事になっていた。
そんな北畠家に娘婿として俺が養子に入るのだから名を変えて北畠家におもねる事など無いと考えている様で、「改名など断じて許さぬ!」と声を荒げた。
幸い、俺の名には“顕”の一字が使われている事だし、北畠家に対して鎮守府大将軍顕家と同じ一字だと言って言い逃れることにした。
まぁ、父に此方が望んだ三つの内二つを認めてもらえたのだから良しとしようと、父の前から下がろうとした俺に今度は父から北畠家に入るに際して…と話が振られた。
「三介。北畠に入るに際し、朝廷から官位を賜った。従五位上 兵庫頭だ。この後は兵庫頭信顕と名乗るが良い。
更に、今その方に仕えておる竹中半兵衛重治、前田蔵人利久、前田慶次郎利益、奥村助右ヱ門永福、小野和泉守政次、川之辺寛太郎顕長、石川五右衛門顕恒の他に、六角家の重臣・平井加賀守定武と縁を結んだ木下小一郎長秀とその同輩、蜂須賀小六郎正勝、南伊勢攻略の折に与力とした佐脇藤八郎良之、長谷川右近橋介、山口飛騨守正盛、加藤弥三郎順家を新たにその方の家臣とする。
小一郎長秀と小六郎正勝をその方に付けるは、この後六角左京大夫(信賢)は勘九郎(信重)と共に京から西へ睨みを利かせねばならぬ。
一方、北畠家に入るその方は願証寺や東の武田に対する事となろう。そんな北畠と六角の間に齟齬が起きぬよう繋がりを密にせねばならぬ、その為によ。
それと、儂の母衣衆を勤める佐脇藤八郎、長谷川右近、山口飛騨守、加藤弥三郎の四名から南伊勢で見せたその方の武勇に感化されたか、その方が北畠家に入るならば我らもお供にと直訴してきおった。まさか、“たわけ”に儂の母衣衆を奪われるとはのぉ。ワッハッハッハ!!」
と何故かご機嫌で笑い声と共に告げられてしまい、否とは言えなかった。
この時、父との話には出なかったが南伊勢攻略で共に戦ったもう一人の母衣衆・毛利新左衛門良勝はそのまま父の母衣衆として残り、佐久間右衛門尉殿信盛は勘九郎兄上の与力として付けられた。
柴田権六勝家は、美濃の岩村城城主・遠山大和守景任が信濃から美濃を狙う武田家との小競り合いで討ち死したため、それまで養子として預かっていた父の弟で反旗を翻した武蔵守信勝様の遺児・坊丸様を遠山家の養子として入れ、自身は大和守景任の正妻として織田家から嫁いでいたお艶の方と婚姻し、お艶の方と坊丸様を支え信濃との国境を固める岩村城に入ることとなった。
景任とお艶の方の間には御子が無く、遠山家としては養子を取らなければならない状況であったためこの養子縁組は遠山家の者たちにとっても渡りに舟の話だった様だ。
また、権六は早くに妻を亡くし長らく独り身を通していたために、お艶の方との婚姻への障害もなく、墨俣築城や上洛戦さらには南伊勢攻略戦でも武勇を示した権六が相手となれば、信濃からの干渉に頭を悩ませていた遠山家の者たちにとっても頼もしい将の入城であったようだ。
さらに、権六は父・信長の父上で織田家の当主であった信秀様に可愛がられていた武将で、お艶の方もそんな権六を兄の様に慕っていたらしい。しかし、美濃で道三入道と子息・高政の間に起こった長良川の戦いの後、美濃の国人領主との関係強化を図るためお艶の方は岩村城の遠山景任に嫁ぐことになったが、権六に対するほのかな思いを持ち続けていたようで、この話を打診された時に騒ぐ遠山家の家臣たちを説得したのはお艶の方だったとの事だ。
坊丸様は元服し名を遠山左衛門尉信澄と変えて岩村城の城主となり、権六は正七位下左京少進の官位を賜り、信澄の後見役となり柴田左京進勝家として岩村城に入った。
閑話休題
ご機嫌で笑う父に少し引きつつも、父との間では北畠家に入りについての話は終わったのだが、問題は尾張の生駒屋敷に戻ってからだった…
「兄上! 三河からお戻りになられたと思えば南伊勢の戦に行ってしまわれ、戦から無事にお戻りになられたと思えば今度は伊勢の国司・北畠家に御養子に入られるとお聞きいたしましたが、真にござりますか!?」
生駒屋敷に着いた俺を待っていたのは妹・徳姫からの詰問だった。
余りの剣幕に、一体何が?と視線を彷徨わせると、徳姫の後ろには顔は笑っているものの明らかに怒っている母上・吉乃と二人に折檻されたのか、頬を腫らし目の周りを青く変色させ髪の毛が乱れた八右衛門伯父上が申し訳なさそうに俺に両の手を合わせていた。
どうやら事前に俺の北畠家入りの話が噂になっていたようで、その真偽を確かめようとした母上と徳姫に八右衛門伯父上は尋問を受けて話してしまったようだ。
それを見て俺は顔が引き攣りそうになるのを何とか堪えて何事も無かったように、
「はい。何でも、北畠家の方から権中納言様の御息女・雪姫様の婿として某を迎え入れ北畠家の当主として仰ぎたいとの過分なる申し出が京の本圀寺にて公方様がお立会いの場であったそうにござりまする。これを受け父上も、伊勢の国司たる北畠家からの要請なれば喜んでとお受けされたそうにござります。
某も先ほど父上から直にその事をお聞かせいただき、北畠家行きをお受けいたしました。」
笑顔で北畠家の当主就任を受諾したと話すと、徳姫は目を三角にして
「そうですか!雪姫様に婿入りし、北畠家の御当主様に御成りになるのですね。それは大層なご出世です事。それで、わたくしの事は如何なされるおつもりなのでしょうか?」
と問い詰めて来た。背中に冷や汗が流れていたがそんな事はおくびにも出さず、
「徳の事とは一体何の事なのだ?その方の嫁ぎ先は父上がお考えになられているであろう。某がとやかく言う事ではないと思うが…そうではありませぬか母上?」
然も当たり前の事のように笑顔の母上に話を振ったのだが、そんな俺に八右衛門伯父上は焦りの表情を浮かべて激しく首を横に振っていた。そんな八右衛門伯父上の事など歯牙にもかけず母上は笑顔のまま、
「三介…今は兵庫頭殿でござりましたか。確かに常ならば兵庫頭殿の申される通りなのでしょうね。ですが、徳の縁談は兵庫頭殿の御働きにより破談となっております。
謂わば兵庫頭殿によって徳は臑に傷も持つ身となったのです。そんな徳を尾張に置いて兵庫頭殿は北畠家の姫君を娶り北畠家の御当主になると言うのは徳に対する責を投げ出すと同じ。徳の兄として些か無責任なのではありませぬか!」
その母の言葉に俺は絶句した。そもそも、破談にしたという徳姫と三河の竹千代(信康)との婚姻に難色を示し、無理難題を言い出したのは徳姫自身。そして、そんな徳姫の意向を汲んで動くに様仕向けたのは母自身だったはず。それを棚に上げ、徳姫の破談は俺が成した事のように言われるのは甚だ心外であった。
「た、確かに徳と竹千代殿の婚姻を破棄し、改めて冬殿と竹千代殿の縁談を纏めたのは某ではござりまするが、それは徳が輿入れに際し姫子らしからぬ条件を付けたからにござりましょう!」
そう反論する俺に母はニッコリと笑い、
「その通りですが、それは常日頃の兵庫頭殿の姿を見て徳は感化された結果です。今では徳の事を“生駒の鬼姫”などと評する者まで居るのですよ。これも全て、兵庫頭殿の行い故にござりましょう。三郎殿も徳の事は兵庫頭殿に任せると申されているのですよ。聞いていないのですか?」
告げられた母の言葉に、この騒動の元凶が何者であったのか全て理解した。そして、この後に告げられるであろう徳姫からの要求に対し俺には拒否権が無いことも悟らざるを得なかったのだ…
「で、では如何せよと仰せなのでござりますか?」
ガックリと肩を落としながら訊ねる俺に、徳姫は満面の笑みを浮かべた。
「わたくしも兄上と共に北畠家に参りとうござります!
北畠家は彼の剣聖・塚原卜伝様の教えを受けた方々が多くおられるとお聞きしました。その様な地にならわたくしに相応しき殿方がおられるに相違ござりませぬ。兄上には是非ともわたくしに似合いの御方をお探しいただかなくては!!」
そう言って頬を赤らめる徳姫に、俺はただただ頷くことしか出来なかった。そして…
「間もなく北畠家の御領地に着くのでござりますね!」
孫次郎の声を聞いてウキウキした様な声を上げたのは、緋色の胴巻を着込んだ徳姫その人だった。
此度の北畠家お国入りに際し、俺は和製南蛮船で北畠領の大湊に乗り入れる事と、乗艦する者に戦支度を厳命した。
斯く云う俺自身も南伊勢攻略戦の折に纏った朱色の鎧に立浪巴の前立ての兜を身につけていた。
これは、北畠家に対する示威行為であり公卿家である北畠家に婿入りしようとも俺は武士であるという事を印象付ける為と、“津田戯之介”と名乗り大河内城で一騎打ちをし、具教に降伏を迫った者が南伊勢攻略の織田勢を率いていた織田三介信顕であったという事を知らしめるためでもあった。
流石に合戦の最中、織田の大将を勤める者が一騎打ちなどと言ってひょこひょこと出て行けば、これ幸いと数を頼りに俺の首を狙ってくることは必定。そんな事になれば、家族大好き親父の父が怒り狂い北畠家族滅に動く事も考えられる。
俺の武勇を北畠家の者たちに魅せると共に、余計な人死を出さない為には偽名を使った後で、武勇を魅せた者が俺だったと明かせば良いと考えての事だった。
そんな訳で、『尾張』に乗艦する者は雑兵に至るまで鎧を身につけるよう命じたのだが、まさか徳姫まで自身の鎧を用意して乗艦するとは思わなかった。
此度のお国入りは俺にとっては婿入りでもある。そんな時に、妹姫を伴うのは流石に憚られると思ったのだが、
「雪姫様の御器量、わたくしが見定めてさしあげます!」
と意気込む徳姫とそれを後押しする母に、情けない事ではあるが何も言えなかった。
俺が婿入りすると決まって兄が取られると感じたのか姑・小姑根性全開にならなくとも良いのにと思うのだが、何ともトホホな状況になったものである。
しかも、そんな俺と徳姫の関係を半兵衛や利久、政次は微笑ましそうに見ているし、慶次郎や助右ヱ門に至っては俺の弱みでも握ったかのようにニヤニヤとしているから始末に悪い。さらに、寛太郎と五右衛門は生駒屋敷でもそうであったように徳姫に対し甲斐甲斐しく世話を焼いている始末で…
そんな事をつらつらと考えている間に波間に見え隠れしていた大湊の町がはっきりと見える様になり、小舟が多数停泊する湊で大湊の町衆が近づいて来る南蛮船に右往左往している様子まで見えた。
「面舵~ぃ、湊に対し艦を水平に。左舷砲門、開けぇ!兵庫頭様。」
孫次郎の号令に従い『尾張』は右に回頭し大湊に対して左舷を晒す様に進行方向を変えると、左舷の砲門を開いた。
「礼砲用意~ぃ! 放てぃ!!」
俺の号令に合わせ大湊に続く海に五門の清兵衛砲から砲声が轟いた。




