第六十七話 南伊勢の仕置き
ギックリ腰もようやく痛みが治まりPCの前に座れるようになったので更新を再開します。
◇京 本圀寺 三淵大和守藤英
「面白ぉないのぉ…」
手に持った扇子をパチリパチリと鳴らしながら呟かれた公方様(義昭)の御言葉が耳に飛び込んで来て、私は伏していた頭を一層深く下げる何とかこの場をやり過ごさねばと冷や汗を流していた。
今ここで下手に反応などすれば、公方様から無理難題を押し付けられるは必定。それだけは何としても避けたかったのだ。しかし、
「まことにござりまする。左近衛中将様がもう少し早く話を持ってきていただければご配慮申し上げたのに。そうは思われませぬか大和守殿!」
そう私に話を振るは共に公方様ので平伏していたはずの摂津中務大輔晴門殿であった。
中務大輔殿は公方様から政所執事の御役を任されておられる方ではあったが、上様を京に御戻しになられた織田上総介改め弾正忠信長殿に反感とまでは申さぬが妬心を抱いているようで、弾正忠殿の行われることに対し何かと文句をつけたがる御仁であられた。
此度も、弾正忠殿の御三男・三介信顕殿と六角家に御養子に入られた三七郎信賢殿による南伊勢の攻略に対しご不満を口にされておられた。しかも、此度の南伊勢の攻略に際しては、伊勢国司・北畠家から上様の元へ織田・六角との和睦をと申し入れが北畠権中納言具教様の御実弟・木造左近衛中将具政様からあったものの、半月もせぬうちに権中納言様は織田と六角に降伏されてしまい上様が介入する間がなかったのだ。
その為なのか、先ほど行われた公方様立ち合いの下での和睦交渉で北畠が織田の要求をすんなりと受け入れてしまい、交渉の折衝を行い幕府の権威を示そうとしていた公方様の思惑は水泡に帰してしまった。
ご上洛を終えて後、公方様はそれまで京を掌握していた三好勢と三好に担がれ将軍の座に就いた義栄様の出自・平島公方家を討ちたいと御考えであったが、弾正忠殿は三好勢を淡路と四国へ追い払った後は守りを固めるに留め、浅井新九郎殿に越前・朝倉左衛門督義景殿の御上洛を促すようにお手配成された後は、国元にお戻りになられ周囲の勢力を固めることに注力なされておられる。
その中には公方様の御上洛に際し反旗を翻した六角家との和睦など上様の御了解を得ぬまま執り行われた事柄が多数有り、そんな弾正忠殿に対し公方様の苛立ちを募らせていた。そんな中で起きたのが南伊勢の攻略であり、北畠家との和睦の交渉であった。
織田と六角による南伊勢の攻略が始まり、戦い敗れた長野家が恭順を申し出ると北畠家は前領主・権中納言具教様を中心に大河内城に居を移し、阿坂城と大河内城にて織田と六角を迎え撃つ間に、公方様の下に権中納言様の御実弟・左近衛中将具政殿を送り織田・六角との和睦の仲介を願い出た。
そんな左近衛中将殿に対し公方様は直ぐに動く事はせず、仲介に対する見返りを少しでも多く求めようとして時を浪費してしまわれた。
結果、阿坂城、大河内城共に落城。北畠家の当主・右近大夫将監具房様は織田と六角の軍勢に対して降伏の意を伝えてしまわれた。
堅城と名高い大河内城ならば今少し持ち堪えるであろうと高を括り、下心を出した公方様にとって痛恨の極みであったのだろう。その知らせを聞いた際には何度も知らせの真偽を確かめておられたほどであった。そして、知らせが真の事であると分かるや、弾正忠殿に対し北畠家を始めとする伊勢の領主との交渉を京で執り行うようにお命じになられたのだった。
当初、私は公方様の差し出口に対し弾正忠殿は拒否されるのではないかと案じたのだが、意外にも弾正忠殿は公方様の申し出を受けられると、早々に京へ上られ、北畠家からは右近大夫将監様と権中納言様のお二人が織田と六角の兵に護衛されて京へと上られた。
京に上った北畠家に対し公方様は内々に北畠家が少しでも有利になる様に取り計らうと申されたのだが、北畠家の者たちは公方様の申し出を断り、和睦交渉の場で弾正忠殿の要求をあっさりと呑んでしまわれた。
その中には権中納言様に続き右近大夫将監様の隠居と、織田家三男・三介信顕殿を北畠家の息女・雪姫の婿とし、北畠家当主として迎え入れる事まで含まれていた。
確かに北畠家は織田と六角の軍に敗れはしたものの、伊勢の国司と公卿家という家柄を考えればいくら弾正忠殿の御子息とは言え、それを当主として受け入れるなど考えられぬ事であった。その事を思い、
「まさか権中納言様が弾正忠殿の御子息を北畠家の御当主として迎えることを、あのようにすんなりと受け入れられとは私も思いもしませんでした…」
そう言葉にすると、公方様はお顔を歪ませた。
「北畠家の阿保どもが!もっとも、建武の乱において鎌倉殿(尊氏)に反旗を翻した一族であっただけの事はあるという事か、度し難い者どもよ!!」
そう吐き捨てられた所を見るに、相当にご立腹な様子。そんな公方様の様子を見て中務大輔殿がニヤリとされるととんでもないことを口にされた。
「公方様。これは早々に越後の関東管領様と甲斐の武田徳栄軒殿の間を取り持ち、徳栄軒殿にご上洛をお勧めされては如何でござりましょう。確か徳栄軒殿の御妻女は本願寺光佐(顕如)殿の義妹だったはず。徳栄軒殿がご上洛なされれば光佐殿もお喜びになられることにござりましょう。」
その言葉に私は平静ではいられなかった。間もなく、弾正忠殿と新九郎殿の尽力により朝倉左衛門督殿がご上洛され、天下(五畿内)が落ち着くと言う時に甲斐の徳栄軒殿を上洛させれば弾正忠殿はその対応に追われることとなる。そうなれば弾正忠殿が抑えていた加賀の一向宗が動き出し左衛門督殿も動きが取れなくなり、天下は再び荒れることとなるは必定。
天下の静謐を図らねばならぬ公方様に、天下騒乱の種を蒔くように進言するとは…。
これは何としても御諫めせねばと、公方様の方へと顔を向けた私は凍り付いた。
何故なら、中務大輔殿の言葉に公方様が満更でもないような笑みを浮かべておられたからだった…。
◇京 北畠権中納言具教
「父上、これで良かったのでござりますか?」
共に織田弾正忠殿との和睦交渉に当たった息子・右近大夫将監が儂の顔色を窺いながら訊ねて来た。なりは大きくなったがつい最近まで家督を継がせずにいたことが良くなかったのであろう、ここぞという時の肝の座りが成っておらぬ。右近大夫将監が当主のままでは遅かれ早かれ北畠家は他家に食われていたであろうことを思い、嘆息した。
「右近大夫将監。我らは敗れたのだ、それも完膚なきまでにな。儂が今こうして息をしておられるのも城に籠っていた兵たちを無為に散らさぬためにという織田方の配慮からよ。その事ゆめゆめ忘れるでないぞ。」
そう告げる儂の言葉に右近大夫将監は、意外なものを見たという様な顔をしていた。
「父上からその様なお言葉を聞くとは思いも致しませんでした。私は直に見る機会を得ませんでしたが、それほどに織田は強ぉござりましたか?」
儂は大きく頷き、
「確かに織田の軍は強かったが、それにもまして織田の将の器が大きかった…「例え、生き恥を晒そうと石に噛り付いてでも生き延び、汚名を雪ごうとする者だけがこの乱世を勝ち抜く事が出来る」と戦の最中に敵である儂を説教する者など聞いたことが無いわ。わっはっはっはっは!」
大河内城での出来事を思い出して笑い声を上げてしまった。そんな儂の言葉に右近大夫将監は神妙な表情をし、
「左少将殿からも聞きました。“諦めぬ事、波の如し”と立浪巴の前立てを掲げた朱鎧の若武者でござりますな。
父上は随分とその若武者を買っておられる様子、しかし件の若武者を率いた三介殿の御狭量が父上のお眼鏡に適うか如何か分かりませぬぞ。なにしろ“織田のたわけ”と評される御仁と聞き及びまする。
此度、弾正忠殿と共に交渉の場には嫡男の勘九郎信重殿と次男で六角家に養子に入られた左京大夫信賢殿は顔を見せておられ、お若いのに落ち着きのある御仁とお見受けいたしました。共に幼き頃より弾正忠殿の下で薫陶を受けられたと聞き及んでおります。ですが三男の三介殿だけは御母堂の御実家にて妹君と共に過ごされ、その奇行は尾張の者たちを驚かせていたと耳に致しました。
更に、弾正忠殿の断りもなく三河・遠江を治める三河守殿の元に質に入る事を決めたとか…」
懸念を口にした。儂はそんな右近大夫将監の言葉に頷き、
「確かに、なかなかに常人には推し量れぬ事をする御仁のようじゃな。されどな…」
と其処で口を閉じ、大河内城で儂が持つ脇差を一刀の下に斬り飛ばし儂を一喝した朱鎧の若武者が放った覇気と、先ほどまで対面していた弾正忠殿がその体から漂わせた覇気が非常に似通っていた事を思い出した。
「すでに賽は投げられたのじゃ。今、此処で騒いでおっても何の益も生まぬわ。年明けにも三介殿が霧山に来ると言うのだ、その時に直に顔を見て噂通りの“たわけ”か否か見極めれば良かろう。どうするかはその後じゃ!」
そう声高に告げる儂に、右近大夫将監は少し呆れつつも苦笑を浮かべておった。
◇京 六角左京太夫信賢
「父上!ようござりましたなぁ、北畠権中納言殿は素直に此方の要求を呑み和睦が整いましたぞ!!」
半月前の大河内城の落城によって終わった南伊勢の攻略。その仕上げとして伊勢国司北畠家をはじめとした南伊勢の国人領主との和睦交渉が京の本圀寺で行われることとなった。
元々、大河内城で北畠家の前当主・北畠権中納言具教殿が降伏し、軍を北畠家の本城である霧山城へ向かわせ早々に和睦の交渉を進める予定だったのだが、急遽公方様からの使者が霧山城に向かう我らの元に派遣され、京で公方様立ち合いの下で和睦の交渉が執り行われることとなった。
公方様による横槍以外の何物でもないこの申し入れに対し、養父上は激怒しその場で使者を手打ちにしようと腰に佩く太刀に手を伸ばしたところで三介が養父上を宥め、岐阜の父上に判断を委ねることとした。
当初、父上も公方様の横槍に怒りを露わにされたが、公方様はそんな父上に対し“弾正少忠”の官位を、私に養父上も賜った“左京大夫”の官位を贈ると告げて来た。
織田家はこれまで弾正忠の官位を私称してきたが、これを朝廷から正式に任官する事で、名実ともに“織田弾正忠家”となることを認められたことになる。
養父上もご自身が賜った左京大夫の官位が私に贈られると聞き留飲を下げたようで、渋々ながら京での和睦交渉をお認めになられた。
交渉前、三介と三雲新左衛門から北畠家が織田と六角の軍が長野家を臣従させた段階で、公方様の元に使者を走らせ和睦の仲介を頼んでいた様だとの知らせがあった。この時、公方様の元に向かったのが木造左近衛中将具政殿であったため、木造城を留守にしており我らが木造城を囲むと早々に城明け渡したのだと合点がいった。
しかし、城主不在で城を明け渡すこととなったにも拘らず、本圀寺に駆け込んだ木造左近衛中将殿に対して公方様は仲介の労に対する過分な見返りを要求し、時を費やしその間に大河内城は落城し権中納言殿は降伏してしまったのだから左近衛中将殿の悔しさはいかばかりであっただろうか。
しかも、呆れた事に公方様は北畠家の降伏を知って慌てて使者を出したというのだから始末が悪い。一体何を考えておられるのか見識を疑う所だ。
それにしても、新左衛門が公方様の動きを探り知らせて来たのは甲賀の忍びを束ねる三雲家の面目躍如といった所だが、独自の忍びを持たぬ三介がどの様にしてこの事を掴んだのか…どうやら三介には私に知らぬ事がまだまだありそうだ。
京での和睦交渉には織田家からは父上に勘九郎兄上と南伊勢攻略軍の将であった佐久間右衛門尉信盛、堺の代官を勤める木下藤吉郎秀吉の四名。
六角家からは私と平井加賀守定武にその子息・右兵衛尉高明の三名。
北畠家からは当主である右近大夫将監殿と前当主の権中納言殿に木造左近衛中将殿の三名。
そして、公方様に摂津中務大輔殿と三淵大和守殿が立会人として交渉の席に着いた。
当初、私たちは北畠側が大河内城での降伏について有耶無耶にするものと身構えていたのだが、権中納言殿が大河内城にて織田の将に降伏したことを認め、織田と六角の要求を全て飲むと告げたため、間に入った公方様をはじめ中務大輔殿も大和守殿も権中納言殿の言葉に目を白黒させていた。
そんな公方様たちを尻目に、父上は北畠家が織田家に臣従する事。その証として、三介を養子として迎え入れ北畠家の当主とする事を求めると、公方様たちが何か言う前に権中納言殿が父上の要求をあっさりと呑み、権中納言殿の御息女・雪姫の婿として三介を北畠家に貰い受けるとまでも申されたのだ。
その言葉に、要求を突き付けた父上も驚いたようだったが、何か思い当たる事があったのか苦笑を浮かべつつ何時もの様に「で、あるか。」と一言告げ和睦交渉は終了となった。
もちろん、この場では和睦の大筋を決めただけで後の細々とした所は、双方の家臣が擦り合わせて行くことになるが、北畠家が娘婿としてであれ三介を北畠家の当主として受け入れる事を認めたという事は、六角家と同様に北畠家も織田家に臣従することとなり、尾張~美濃~伊勢~南近江に広がる一大勢力圏が形成されたことを意味していた。
そのため勘九郎兄上は父上に対し祝いの言葉を口にしたのだが、当の父上は眉間に皺を寄せ不機嫌を絵に描いた様な顔をしておられた。
まぁ、先の交渉の席での事を思い返してみれば、とても上機嫌という訳には行かぬのであろう。
その事が分かっていながらも祝いの言葉を口にしなければならない勘九郎兄上のお立場というものが如何に大変なものであるか、私も織田家の外に出てようやく気付ける様になれて少しは成長したと思ってよいのだろうか…と、そんな益体も無いことを考えていると、末席に座る藤吉郎に父上が声を上げられた。
「サル!公方の動きをその方は掴んでおったか!!」
「申し訳ござりませぬ。本圀寺に北畠の者が出入りしている事までは掴んでおりましたがそこまでで、まさか斯様な事になろうとは…面目次第もございません!」
「たわけぇ!何のためにその方を堺代官に任じたと思っておる。堺の地から京の動きに目を光らすためであろうがぁ!!」
そう父上から叱責される藤吉郎に右衛門尉が助け舟を出された。
「お怒りはごもっともでござりまするが、藤吉郎殿が堺の代官に就いてまだ時がござりませぬ。いくら藤吉郎殿とは申せ今はまだ堺を掌握するので精一杯にござりましょう。海千山千の商人を相手にしておられる藤吉郎殿に京の動きにまで目を光らせよとは些か酷かと。」
「なにぃ?」
藤吉郎との間に割って入った右衛門尉殿に対し父上は目を三角にして睨みつけるが、父上との付き合いが長い右衛門尉殿は臆することなく、
「ここは京の動きを見張る為、別の者を京に置いては如何でござりましょうか。堺は金と物の動きによって多くの事を知る事が出来まする。そんな堺の代官を務めながら京にまで目を光らせるなど、藤吉郎殿にも至難の業。
間もなく朝倉左衛門督殿が御上洛されまする。さすれば浅井新九郎殿と共に説得に当たっておられた明智十兵衛殿の御役が解かれることとなりまする。十兵衛殿は先ごろまで公方様の御側近くに居られた御方ゆえ、京の動きに目を光らせる御役目には打って付けかと。」
右衛門尉殿の進言にいつもの「であるか。」と返し、暫し黙考された父上は隣で成り行きを見守っていた勘九郎兄上に視線を向けると、
「勘九郎。十兵衛と藤吉郎を使い畿内一円に目を光らせよ。左京大夫、お主も勘九郎を助け畿内の静謐に尽力せよ!お主らが畿内に目を光らせている間に儂は越前に強盗に入ろうとする輩を懲らしめてくれる。よいか、ぬかるではないぞ!!」
そう告げると父上はその場から立ち上がり何時ものように足音を踏み鳴らし歩き出されるのだった。




