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第六十二話 大河内城攻城戦 その二~六角家の意地~

やっと更新できました。

遅くなってすいません。

 

すいません、蒲生氏郷ですが『忠三郎』は信長の織田弾正忠の“忠”から忠三郎としたとされているらしいので、急遽『忠三郎』から『藤太郎』に変更します。

『藤太郎』は蒲生家の祖・藤原藤太秀郷(別名・俵藤太)から来ている一族伝来の名のようなのでこちらを使う事にします。

 長野家を降伏させた六角と織田の連合軍は長野家とその周辺の国人領主を傘下に加えて安濃津城から一路南下、北畠家が治める領地へと進軍を開始した。


史実では、信長率いる織田軍は初手から北畠の本拠地である多気にある霧山城を攻めた。

霧山城での抗戦は困難と判断した北畠具教・具房親子は霧山城の東にある大河内城に移り籠城。一か月以上も城に籠り落城は免れた(?)ものの、将軍・足利義昭の仲介により和睦することとなり、俺が養子として北畠家に入る事となった。

 しかし、今回六角と織田の連合軍は安濃津城から南下する侵攻ルートを取ったため、北畠の城を落としながら本拠地である霧山城へ向かう事となった。

 安濃津城から北畠領に入り安濃津城に近い木造城へと軍を進めると、城主で北畠権中納言の実弟である木造左近衛中将具政は霧山御所からの呼び出しにより不在。その子・左衛門尉具康が城代を勤めていたが、三万という大軍と安濃津城での戦いの様子が既に兵の間にも伝わっていた為、抗戦の意気が高まらない状況におかれていた。

そこへ、滝川彦左衛門が出家していた左衛門尉具康の叔父・源浄院主玄を伴い現れ。「開城すればその後は父・左近衛中将殿の下に向かおうと一向に構わない。その際には追手などはさし向けない」と告げ、叔父・源浄院主玄の強い説得により開城する事を決めた。

開城した後は一族郎党をひき連れて父・具政が呼び出されたという霧山御所、そして霧山城に入り右近大夫将監の下に身を寄せることとなる。

 木造城は開城の使者として出向いた滝川彦右衛門と左衛門尉具康を説得した源浄院主玄に兵二千を預け任せると、六角と織田の連合軍はそのまま南下し阿坂城へ向かった。

 阿坂城は史実でも織田軍に激しく抗った城で、大宮含忍斎と大之丞影連親子が城主を勤めていた。

この時、阿坂城を攻めたのが木下藤吉郎秀吉だったが、弓の名手として名を知られていた大之丞影連の弓によって秀吉はその生涯でただ一度の戦傷を負ったとされている。

この戦傷に因るものか秀吉は無理攻めはせず、調略により含忍斎の家臣・遠藤五郎左衛門などに内応させることで落城させることでようやく勝ちを治めた。

そんな阿坂城を前に俺は軍議のため六角の本陣へ向かった。



「三介様!此度の阿坂城攻めは我ら六角の者らにお任せいただけませぬか!!」


六角の諸将に長野次郎と細野壱岐守をはじめとした伊勢の国人衆が居並ぶ中、本陣の上座に座られる三七郎兄上と承禎入道の隣に置かれた床几に腰を下ろした俺に対し、強張った表情で進藤山城守が声を上げた。

その唐突な申し出に眉を顰め俺が上座に座る三七郎兄上に視線を向けると、三七郎兄上もまた山城守と同じように緊張した様な張り詰めた表情を浮かべていた。


「山城守殿。何故に突然そのような事を申されるのでござりまする?これから行われる軍議の中で話を詰めて行けばよろしいのではありませぬか。それを軍議の冒頭からその様に申されるのは…」


これから始まる軍議を前に性急に申し出た山城守に対し釘を刺す俺に、蒲生左兵衛大夫が声を上げた。


「三介様。これまで、緒戦の鈴鹿川での戦いにて長野家を、安濃津城では援軍に駆け付けた北畠家の軍を退けたは三介様が率いられる織田の方々にござりまする。

上総介様の下知により南伊勢の攻略を命じられた際、六角からは一万二千、三介様が率いられる織田勢八千にて事に当たる事となり申した。

しかしながら、南伊勢攻略において此処まで武威を示したは三介様率いる織田勢のみにて、これでは我ら六角家の面目が立ちませぬ!」


この言葉に、どちらかと言うと“武”よりも“智”の将だと思っていた左兵衛大夫の戦国の武将として一面が垣間見えた気がした。

しかし、安濃津城を抑え長野家に手も足も出させなかったのは六角勢の働き。鈴鹿川での戦いはいざ知らず、安濃津城の攻略は六角勢に力なくしては出来なかった事だと考えていたため、『六角家の面目が立たぬ』というほどの事はないと反論しようとしたのだが、その場の空気に違和感をおぼえ視線を周囲に巡らしてみると、左兵衛大夫が“六角家の面目”とまで口にしたことで、俺が如何に返すのかを六角家の者たちは勿論の事、長野次郎をはじめとした伊勢の国人たちも固唾を飲んで見守っているのが察せられた。

 此処で、俺が六角からの要請を無下に断り織田主導で阿坂城の攻略へと乗り出せば、織田は臣従した六角の面目を考慮に入れず物事を進めると捉えられ、戦の後伊勢国を纏めて行く上で織田は臣従した者の面目を考えぬ主君であると思われてしまい伊勢の安定に支障をきたす恐れが出てくると感じた。

さらに六角家家中でも三七郎兄上の弟である俺は兄上のお立場を考えず己の栄達を求める輩だと思われるだけでなく、弟を抑えることも出来ない兄として三七郎兄上を蔑ろにする者が出てこないとも限らない。

それはこの後の織田家…いや天下の統一に向けて動こうとしている父上にとって南伊勢の攻略が成功したとしても後に禍根を残す失策となるだろう。それだけ避けねばならないと思案を巡らせ…


「…分かり申した。阿坂城の攻略はお任せを致しまする。ですが、思い違いをされぬ様に、某は決してこれまで南伊勢の戦において六角勢が武威を示さなかったと思っている訳ではござりませぬぞ。

鈴鹿川での戦いでも安濃津城において北畠勢を打ち払った際にも、我らの背後に六角勢が居たからこそ背後の憂いなく戦う事が出来たのでございます。

言うなれば我らは六角勢の“露払い”をしたにすぎませぬ。

その事をお忘れなきよう、阿坂城はお譲りいたしますが次の大河内城では再び某に“露払い”の役目をお任せいただけますようお願いをいたしまする。」


そう言って頭を下げる俺の口上と姿に、六角の諸将と伊勢の国人たちは呆気にとられたように目を大きく見開き言葉を失った。


「ふっはっはっはっはっは!六角勢の露払いとは何とも“たわけ”た事を口にしたものよ。“織田のたわけ”は元服と初陣を済ませても変わらぬようだ、困ったものよ。

山城守!左兵衛大夫!お主らの願い通ったぞ。この上は“織田のたわけ”殿に六角の武威を存分にお見せいたすが良い!!」


「「はっ!」」


皆が言葉を失う中、一人三七郎兄上は俺の言葉を笑い飛ばしつつ山城守と左兵衛大夫に檄を飛ばした。兄上から名指しされた二人はその言葉に驚いたのかビクリと体を震わせたものの慌てて身を正すと顔に覇気を漲らせて兄上の檄に応えたのだった。


◇伊勢国 阿坂城前 六角承禎


 阿坂城を前に開かれた軍議において、三介殿から阿坂城の攻略は六角勢に任せるとの言質を取り付けたものの、実際に阿坂城を前にしてこの城は攻め辛き城だという事が分かって焦りを覚えた。

阿坂城は台地の上に築かれた城で、南北に二町半ほど離れた位置に二つの郭が建てられその周囲には空堀が巡らされ攻め入る敵に対し南北の郭が互いに庇い合いようにしながら守る事が出来る様になっておった。

城を守る将は北の郭を大宮含忍斎が、南の郭を大之丞影連が入っておる様子。

本陣となる郭は北の郭になるようじゃが、その北の郭を落とすためには南の郭を無力化する事が必要とじゃった。

しかし南郭を守る大之丞影連は弓の名手として知られており、不用意に攻め掛かれば無駄な人死にを出すこととなるは明白。 されど、弓には弓。六角にも大之丞にも劣らぬ弓の名手はおる。

元々、六角には日置へき流弓術が広まり、斯く云う儂も吉田出雲守重政から家伝の伝授を受けた身であり、出雲守の子・出雲守重高に返伝し重高からその子・助左衛門重綱へと受け継がれておる。

日置流弓術は徒歩武者(歩兵)が用いる弓術として発展してきており、膝立ちの体勢で射撃を行う技も伝えられておる。この技は戦場などで敵から射掛けられる矢を避け身を隠しながら敵の矢の間隙を縫い瞬間的に身を起こし射撃を行う実践的な技として伝わる。

此度の戦には助左衛門重綱をはじめ多くの門弟たちが参陣している。大之丞は弓の名手として武名高いとはいえ、引けは取るまい。

山城守が三介殿に申したように、これまで南伊勢の攻略が進んでおるのは織田勢の働きによるもの。

このままでは総大将としての三七郎の面目が立たぬ。何としても阿坂城を落とし、三七郎の面目を立てねば…



 南伊勢の攻略に乗り出した六角と織田の連合軍は安濃津城に籠った長野勢を臣従させると、即座に軍を発し北畠家が治める領域へと軍を動かした。

長野家との領地に最も近い木造城は城主である木造左近衛中将具政が北畠の本拠地である霧山御所に出仕していて不在だったため、留守を預かっていた木造左衛門尉具康は滝川彦右衛門一益と共に使者として姿を現した叔父・源浄院主玄の説得により城から退去したために戦とはならず、本格的な戦いとなったのは大宮含忍斎、大之丞影連親子が籠る阿坂城を巡る戦いとなった。

 阿坂城は南と北の二つの郭から成り立っており、二つの郭がお互いを補完し合う事によってより防御力を高めていた。

二つの郭には本陣となる北の郭には父親の含忍斎が、南の郭には息子の大之丞影連が将として入り安濃津城から南下してきた六角・織田連合軍と対峙した。

阿坂城の攻略には六角勢が当たることとなったが、これには戦の前の軍議において進藤山城守賢盛と蒲生左兵衛大賢秀から織田三介信顕に対し、阿坂城の攻略は六角勢に任せて欲しいとの嘆願があっての事だった。

南伊勢の攻略戦において鈴鹿川での戦い、安濃津城攻城戦においての北畠家からの援軍撃破とたて続けに挙げられた織田勢の武威に対し、このままでは六角家の面目が立たないと感じた末の事であったが、この際三介信顕は願い出た山城守と左兵衛大夫に対し、これまでの働きは『六角勢の露払いをしたに過ぎない』との言葉を添えつつ阿坂城を六角勢に任せると快諾した。

この物言いに六角家の諸将は言葉を失ったが、三七郎信賢は三介の言葉に笑い声を上げ父・上総介信長と同様に三介を“織田のたわけ”と評し六角家の諸将に檄を飛ばしたという。


 三介信顕の快諾を受けた六角勢は全軍をもって阿坂城攻略に乗り出した。

阿坂城攻略は定石どおり南の郭(以降、南郭と呼称)から始められた。

南郭を差配する大之丞影連は弓の名手として知られる剛の者で、阿坂城に攻め寄せる六角勢に対しても弓矢による攻撃を行った。これに対し、六角勢も吉田助左衛門重綱を中心とした弓隊を出し応戦した。

六角家では日置流弓術が伝わっており、六角承禎も若き頃に日置流弓術を治め家伝の伝授を受けた身であり、六角家家中において日置流弓術の射手は多く大之丞影連に勝るとも劣らぬ者たちが参陣していた。

開戦当初、南郭から放たれる大之丞影連の矢は城に攻め寄せる兵を慄かせ、その名に恥じぬ力を示したが、城方の弓矢に対抗し三介信顕ら織田勢から供与された竹束と矢盾を組み合わせた防護盾を前面に押し立てて助左衛門重綱率いる日置流弓術の門人を中心とした六角勢の弓隊が南郭に対し攻撃を開始すると、形勢は徐々に六角勢へと傾いていった。

助左衛門率いる日置流弓術の門人たちは、防護盾にその身を隠し大之丞が指揮する南郭から放たれる矢を避けると、その間隙をついて膝立ちで射撃を行う事で城方の射手を射抜いていった。

しかも、その際日置流の複数の射手が城方の射手一人を同時に狙う事で、確実に敵方の射手を排除していった。

日置流は室町中期に起こった流派で、その骨子は戦場において歩兵による射撃を念頭に生み出された流派で、戦場で生きる弓術としての色合いが濃く、騎射や礼射(儀礼的な射撃)による品位や見た目の美しさを重視する小笠原流に対し実利・実践的な歩兵用弓術として的中や矢の貫通力に重きを置いたのが日置流だった。

そんな日置流の射手がここぞとばかりに投入され助左衛門の指揮の下、南郭に対し雨霰の如く射撃が敢行されては弓の名手として名の知れた大之丞も抗いきれず、自身も矢を受けるに至り南郭の守りは崩れると、進藤山城守、目賀田次郎左衛門尉が指揮する兵が南郭に流れ込みこれを攻略し大之丞を捕虜とした。

続けて含忍斎が指揮する北の郭(以降、北郭と呼称)に蒲生左兵衛大夫率いる兵が攻め寄せた。

この時、真っ先に北郭の城門を突破したのは左兵衛大夫の嫡男・藤太郎賦秀だった。藤太郎はこの時弱冠十六歳で元服をすませ南伊勢攻略の戦が初陣となる若武者だった。そんな藤太郎が父・左兵衛大夫の下を離れ北郭の城門突破という偉業を成し遂げたのは異例というよりも異常と評した方が良い出来事ではあったが、忠三郎[藤太郎]が城門の突破に成功したとの報は瞬く間に六角勢内を駆け巡り、『初陣の若造に負けてはならじ!』と六角勢の諸将は奮起。

瞬く間に北郭に籠る北畠の兵を蹴散らすと、奥の間で指揮を取っていた含忍斎の下へと攻め寄せた。

含忍斎は六角勢の猛烈な攻勢を前にして、最早これまでと自刃を決意。此処に阿坂城は陥落した。


少し説明調になってしまいましたが、如何だったでしょうか?


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[気になる点] そんな藤太郎が父・左兵衛大夫の下を離れ北郭の城門突破という偉業を成し遂げたのは異例というよりも異常と評した方が良い出来事ではあったが、忠三郎が城門の突破に成功したとの報は瞬く間に六角勢…
[気になる点] 進藤山城守賢盛と蒲生左兵衛大賢秀から織田三介信顕に対し、阿坂城 ?蒲生左兵衛大賢秀? ひの左兵衛大 って何? 左兵衛大夫 じゃないの?
[気になる点] 、滝川彦左衛門が出家していた左衛門尉具康 ?滝川彦右衛門じゃないの? 滝川彦左衛門っていたの?
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