第五十一話 元服
「で、あるか。茶筅、孫次郎。大儀であった!」
三河から戻って半年。俺は岐阜城の大広間で大勢の家臣たちが見守る中孫次郎と共に父の前に進み出て謁見に臨んでいた。
三河から帰った俺は父の命で、三河に向かう前に依頼していた新たな火器の作製状況を確認し、出来上がっていた清兵衛砲(木砲)と与左衛門筒(携行砲)の増産を指示し、熱田の港に向かうと待っていた九鬼孫次郎の案内で和製南蛮船・『尾張』に乗船。孫次郎と共に和製南蛮船・『尾張』の操船習熟に付き合っていた。
『尾張』の操船習熟は、これまで日ノ本には無かったタイプの帆船を扱うということで、三角帆の扱いと風を読むことが求められたため、『尾張』を操る前に小型の竜骨を備えた船を用意し小型帆船を使って三角帆を使った風の捉え方などを実体験した後に『尾張』を使っての操船習熟訓練を行った。
とはいえ、帆が一枚の小型帆船とは異なり『尾張』は三本の帆柱に幾つもの帆を張り、船を操らなければならず、小型帆船で風を捉える実体験をしてもそう簡単に船を動かすことは出来なかった。
それでも孫次郎率いる九鬼水軍は『尾張』を操船することが、己たちの生きる道と思い定めて数限りない失敗を繰り返しながらも僅か数か月という異例のスピードで『尾張』を操る術を習得していった。
そんな九鬼水軍に混じり俺をはじめ寛太に五右衛門それに小六郎の四人も半年の間、熱田の港に留まり水軍衆と共に船に乗り続けた。
事の起こりは俺が不用意に漏らした言葉だった。それは『尾張』に乗船し舳先に立ち眼下に広がる水平線をしばらくの間眺めていた俺に孫次郎が船内を案内しようとしたとき、
「この海の先には一体どのような景色が広がっているのだろうか。いつか九鬼水軍が操る『尾張』で目の前に広がる大海に漕ぎ出し、己の眼で実際に見たいものだ…」
と不用意に口走った言葉だった。その俺の呟きに、寛太に五右衛門だけでなく小六郎も大きく頷きながら口々に追従する言葉を口にしたのだが、傍らで俺たちの様子を見守っていた孫次郎は俺たちが口にした言葉を真に受けてしまった。
「志摩で他の水軍衆との争いに敗れ、九鬼水軍の頭領であった兄を失い行き場を失い尾張に辿り着いた我らを上総介様は熱田に置いて下さり、これまで日ノ本には無かった南蛮船の建造をお命じ下さった。
更にその御子である茶筅丸様には我らが造り上げた船に乗り大海原へと漕ぎ出したいとまで仰っていただけるとは…。
水軍衆と名乗りはすれど、世の者たちからは“海の賊”と蔑まれてきた我らに斯様なお言葉をお掛けいただけるなど望外のこと。もし、お望みであれば我らが『尾張』を操る様をお見届けいただければ、これに勝る喜びはござりませぬ!」
と感涙にむせび泣きながら言われてしまい後には引けなくなり、途中、清兵衛砲二十門の準備を整えた与左衛門が熱田の港を訪れ、『尾張』に清兵衛砲を設置する数日間を除き半年の間、孫次郎たちと共に毎日海に出る日々を送ることとなった。
俺を筆頭に寛太と五右衛門は初めての船に最初は興奮していたものの次第に船の揺れに酔いはじめ三人とも顔色を青くしながら胃から込み上げてくる物を必死に我慢し『尾張』の甲板を汚さなかったものの、権六や小一郎が付いてこなかった理由は是だったのかと実感する事となった。
それでも、数日もすると船の揺れに体が慣れたのか酔いに苦しむことは無くなった。そうなってくるとただ何もせず、指揮を取る孫次郎の傍らに居るだけはつまらなくなり、水軍衆に混じって操船習熟訓練に参加するようになっていった。
特に、伊賀の忍びでもあった五右衛門はその鍛えぬいた身軽さが真価を発揮し、目が眩むような高さの帆柱の上でも平気な様子で動き回り、水軍衆の皆から一目置かれる様になっていった。
また、小六郎も川並衆の頭領として長年親しんできた河川とは勝手が違い戸惑っていたようだったが昔取った杵柄は伊達ではなく、河川の流れを読むようかのように、長年に渡り海で生活していた漁師が長年の経験を元に見極めている潮の流れを読むようになり、孫次郎をはじめ九鬼の水軍衆を驚かせた。
更に、『尾張』に積み込んだ清兵衛砲の海上での試射も行ったところ、与左衛門曰く清兵衛砲の射撃耐久度上では十射は間違いないとのことだったが、障害物のない海上での試射ということで実際にはどのくらいの射撃耐久度があるのかを検証したところ、与左衛門が告げた十射では不具合を見せる様なものは皆無であり、多いものでは五十射以上使用しても問題がないことが分かった。
しかも、射撃回数を重ねても砲身を締める荒縄と箍を締め直せば再び使用を継続することが可能であった。
これは、清兵衛が作ってくれた砲身の砲底部が火薬の爆発の圧力を受け止めてくれた為、砲身本体への衝撃が抑えられたことによるものだった。
『尾張』では舷側で五門、両舷で十門の清兵衛砲が発射可能だが、『尾張』には二十門の清兵衛砲が持ち込まれており、海戦時十門の清兵衛砲を使用し砲身に緩みが生じたとしても残りの十門を使用している間に使用済みの砲身の箍と荒縄を締め直すことで連続して使用することが可能となった。
もっとも、通常の海上戦闘で砲身を締め直して使用しなければならないことなど現状では考えられず、仮にあるとしたらこの後起きるであろう願証寺攻略戦や史実で行われた毛利水軍との海戦時などにこの力が発揮されるのであろう。
そんな様々なことがありながら、『尾張』の操船技術を身につけていった九鬼水軍。
『尾張』の操船に一定の目途を付けた孫次郎と俺はそのことを文にしたため、父に報告した。そこで、父から「岐阜城に孫次郎と共に報告に登城せよ!」との呼び出し状が届けられたため、俺と孫次郎は大急ぎで岐阜城へと向かった。
熱田から岐阜へと急ぎ、城下に到着したことを知らせると、その日の内に父から城へ登城するようにと召し出され、父が指定した大広間に向かうと、大広間には織田家に仕える家臣たちが勢揃いしていた。居並ぶ面々に面食らいながらも父の小姓の指示で俺と孫次郎は大広間の上座を正面に控えると直ぐに早足で踏み鳴らす足音を響かせながら父が大広間へと姿を現した。
「面を上げぇい!茶筅、話せ!!」
何時ものように端的に報告を求める父に対し、俺は織田家に仕える多くの家臣の前で和製南蛮船『尾張』の操船技術を身につけたことを報告した。
俺に続き孫次郎からの話を父は真剣な表情で聞き入っていたが、俺たち二人が話し終わると、
「茶筅!孫次郎!ようやったぁ!!」
満面の笑みを浮かべ俺と孫次郎を家臣たちが揃っている前で褒め称えた。
織田家家臣が揃う中、まだ新参者である孫次郎を父自ら褒め称えるなどという行為は、この時代では稀有なことだったためか孫次郎は感極まり父に平伏したままなかなか顔を上げることは出来なかった。
そんな孫次郎に対し権六をはじめ多くの家臣たちは祝いの言葉を口にしていたが、一人苦虫を噛み潰した様な顔をしていた者がいた。
知多半島を治める佐治八郎信方。
桶狭間の戦の後、父に臣従し父の妹お犬の方を妻に迎えた織田家では一門衆並の扱いを受ける人物で、伊勢湾の海上交通を掌握する“佐治水軍”を率いる水軍の将でもあった。
そんな八郎にしてみたら、これまで一門衆並とされ伊勢湾を治めて来た自分にではなく、志摩を追われて父に庇護を求めて来た孫次郎と九鬼水軍に南蛮船が任された事に苛立ちを覚えても致し方ない事だっただろう。
父としてはこれまで伊勢湾で威を張る八郎に、まだ海のものとも山のものとも分らない南蛮船を任せて、仮に上手くいかなかった場合、これまで築き上げてきた佐治水軍の顔に泥を塗ることになり、伊勢湾での制海権が揺らぐことを恐れ、八郎よりも新参者でたとえ失敗してもあまり問題にならない孫次郎を指名するという選択を取っただけのことだった。その為、
「孫次郎!今、貴様に命じてある和製南蛮船の二番船が完成したら、船を造った船大工の半分を佐治八郎の元に預けよ。八郎、お主の元に居る船大工を半分に分け半分を孫次郎の元に預け、孫次郎の元より預かった船大工から和製南蛮船の造り方を学び佐治水軍でも南蛮船を建造し、新たに造りし船を以て水軍力の増強を図ると共に交易を促進させよ!!」
と八郎に対し命を発し、これまでと同様に八郎にも期待をしているとの意思を示した。そんな父の姿に、史実では“戦国の覇王”と称され傍若無人の印象がある父・信長は、実は家臣領民に気を配る気遣いが出来る人なのだと感じた。
「さて、茶筅。三河への質の役目に続き新たに南蛮船を造り支度を整えた働きに儂も報いねばならんな。昨年には三七郎を元服させたことであるし、吉日を選びそなたを元服させることとする!」
「「「「「「「「「「おめでとうございまする!」」」」」」」」」」
父の口から俺の元服が告げられると、大広間に集った家臣一同から一斉に祝いの言葉があがった。普通なら元服を告げられると大人に仲間が出来ると喜ぶものなのだが、俺は元服を告げた父の目を見て無邪気に喜ぶことは出来なかった。何故なら、父の瞳には憐憫の思いが見て取れたからだ…
「茶筅には元服の後、南伊勢の攻略を命じることとなろう。権六!貴様は茶筅の与力として南伊勢攻略のため万全の手配りを致せ!」
「はっ!畏まってござる。」
『来るモノが来たか』そんな想いが俺の胸に広がった。とは言え、史実で敵対していた六角家は織田に臣従し三七郎信賢兄上が養子として入っている事を考えれば、南伊勢においても有利に事を運ぶことが出来るだろう。織田家の武威を示し、南伊勢の者たちを屈服させねばと膝の上に置いた拳を強く握りしめた。
「茶筅殿、良き男振りにございますよ。」
「うむ。馬子にも衣裳とはこのことじゃな。常の“たわけ”振りが嘘のようじゃ。」
「「お似合いにございます茶筅様。」
元服の日。生駒屋敷で支度を整えた俺の直垂姿を見て母・吉乃をはじめ生駒八右衛門伯父上、傅役の半兵衛などニコニコと笑顔で褒めて(?)くれた。三人からの言葉に照れながら視線を振る。其処には俺と同じように直垂を纏った寛太と五右衛門がいた。
「八右衛門殿の申す通り!馬子にも衣裳とは正にこのことだな。わ~っはっはっはっは」
「これ慶次郎、そう冷やかすものではない。そなたとて元服に際し寛太や五右衛門と同じように身を固くしておったではないか。寛太、五右衛門。二人とも良き若武者ぶりでござるぞ。」
「助右ヱ門の申す通りじゃ。寛太に五右衛門も慶次郎のいうことなど気にするでないぞ。コヤツは茶筅様に輪をかけてヤンチャな悪たれ小僧であった。そんな慶次郎さえ元服を済ませておるのじゃ心配はいらぬからな。」
寛太と五右衛門の直垂姿に笑い声を上げる慶次郎を窘める助右ヱ門と蔵人利久。そんな一同のやり取りを小野和泉守政次は微笑みを浮かべ静かに見守っていた。
質の役目を終え三河から戻ると利久は諸国漫遊に出ていた慶次郎と助右ヱ門を尾張へと呼び戻し、三七郎兄上からの「父が南伊勢の攻略を茶筅に任せようとお考えだ」との知らせを元に政次と共に南伊勢の攻略に向けての準備を内々で進めさせていた。
と言っても、未だ父から正式に話を窺っていた訳ではなかったため南伊勢の国人に調略を掛けるという訳にも行かず、初陣となる俺に寛太と五右衛門のための甲冑や太刀・槍に馬などを整える程度しか出来ることは無いのだが、甲冑を仕立てるとなれば依頼してすぐに用意できるものではないため、三河から戻ってすぐ動いてくれた利久と政次には感謝しかない。
しかも、俺が種子島に床尾を備えさせたため、既存の甲冑を着て使うには多少の不具合がある事が判明したため、それに対応できるように甲冑に細工を施す必要があったが、早くから動いてくれていたおかげで南伊勢攻略という初陣に際し甲冑が無いなどと言う事は回避出来そうだ。
もっとも、俺の甲冑を仕立てるに当たり俺に仕えている面々の甲冑も仕立て直すことにしたようで、慶次郎や助右ヱ門などは嬉々として自分好みの甲冑を依頼した様だ。
甲冑を依頼したのは、勘九郎兄上の甲冑を仕立てた尾張の甲冑師・加藤彦三郎正之だったようだ。そのため、彦三郎から父の耳に俺たちが甲冑を仕立てていることが入り、「甲冑の仕立て料は父が払うゆえ納得のゆく物を仕立てよ」と書かれた文が届けられ、文を持参した父の小姓を前に利久は恐縮しまくっていたらしい。
閑話休題
兎にも角にも、俺たちの元服に際し家臣一同打ち揃いその日を迎えたのだった。
生駒屋敷にて装束を整えた俺たちは、利久が用意した馬に乗り岐阜城へ登城すると、父をはじめとした織田家の家族たちに一門衆並の扱いを受ける佐治八郎信方に東美濃の岩村城を治める遠山内匠助景任もいた。
遠山内匠助殿の奥方・お艶の方は父の祖父・信定の娘で叔母に当たる。史実では内匠助殿の死後、織田家を裏切り甲斐から攻めて来た秋山伯耆守虎繁と婚姻し内匠助の死後、養子としてお艶の方の元に預けた父の子・御坊丸を甲斐に差し出してしまったために父の怒りに触れ、お艶の方は処刑されてしまう。しかし、史実とは異なり朝倉の件を新九郎長政に押し付けたことで本願寺と敵対していないため、甲斐の武田は大義名分を得ていないので駿河の侵攻の後は動きを控え、内匠助は健在で俺の元服の儀に参加していた。
一門衆が集まる中、多くの者は俺の織田の“たわけ”殿という異名に如何して良いか分からない様で遠巻きにしながらこちらを横目でチラチラと見るだけで近寄ろうとする者は少なく、俺に対して会釈で笑顔を見せてくれたのは冬姫の母上(養観院)だけだった。
一同打ち揃う中、父と勘九郎兄上と三七郎兄上が姿を現すと元服の儀が執り行われることとなった。
俺の烏帽子親は父・信長の庶兄三郎五郎信広伯父上が務めた。
三郎五郎伯父上とは徳姫と竹千代の婚姻について徳姫の我儘の折衝のために三河に赴いたときからの付き合いで、正使である三郎五郎伯父上を差し置いて家康に直談判に及んだ俺を苦笑交じりに許してくれただけでなく、その後も何かと気に掛けてもらっていた。そんな三郎五郎伯父上に烏帽子を付けられる際、
「よいか!これまでは元服前であったからお主の奇行も大目に見てもらえていたのじゃ。されど、元服を済ませればこの後は一人前として扱われることとなる。殿(父・信長)はお主の奇行を楽しんでおられるようだから織田家家中では問題になることは無かろうが、一度外に出ればお主の行動は織田家の不利益となることもあるのだと言うことを肝に命じ“たわけ”た行動は慎むのだぞ。
もっとも、お主の行動は奇行に見えて後で思い返して『あれで良かった』と思わせるものが多いし、お主には己が取る行動に確固たる思いがあってのもののようじゃから、儂の小言を言うても直ることはあるまいがのぉ。」
そう俺に言い聞かせるようにしながら苦笑する三郎五郎伯父上に、俺は何と返せばよいのか分からず、伯父上と同じように苦笑を返すしかなかった。
元服の儀を執り行い父の元へと進み出ると、父が部屋の外へと視線を動かしその動きに合わせて数人の者たちが部屋に入ってきた。
部屋に入ってきたのは父の命により俺と共に元服することとなった寛太と五右衛門それぞれの烏帽子親を勤めてくれた丹羽五郎左衛門長秀と池田勝三郎恒興だった。
三河に向かう前に父に挨拶をした際、俺に付き従い三河に向かうと告げた寛太と五右衛門を元服させると父が告げていたが、約束通り寛太には五郎左衛門尉長秀が、五右衛門には勝三郎恒興が烏帽子親となり元服の儀を執り行ってくれていた。
元服を済ませた俺たち三人が揃って父の前に進み出ると、父は背後から三巻の巻紙を取り出すと寛太の前に一巻を広げ、
「元服を済ませ各々にそれぞれ名を与える!先ず寛太には川之辺の姓を与え烏帽子親の五郎左衛門尉の名から一字を取り、この後は“川之辺寛太郎顕長”と名乗るがよい!!」
“川之辺寛太郎顕長”と書かれた巻紙を掲げる父に対し、寛太は顔を赤く染めて緊張しながら、
「あ、ありがとうござりまする!いただいた名に恥じぬよう精進いたします!!」
と大きな声で返すと、そんな寛太に父は大きく頷き今度は五右衛門の前に別の巻紙を広げた。
「五右衛門。伊賀の百地丹波守から話を聞いたところそちは“石川”家の五右衛門だそうじゃのう。そこで姓はそのままに烏帽子親の勝三郎の名から一字を取り、この後は“石川五右衛門顕恒”と名乗れ。」
「はっ!有難き幸せにござりまする。」
父がわざわざ百地丹波守に確認したと知って少し驚いたようだが、五右衛門は直ぐに取り繕い何事もなかったかのように返したものの、父の気遣いに感激した様だった。そして最後に…
「さて、最後に茶筅じゃがそちには“織田三介信顕”の名を与える。信は織田家の通字じゃ。顕は貴様が起こした兵法“自顕流”の中の一字を選び、寛太郎と五右衛門にも貴様の顕の字をそれぞれに用いた。二人はそちにとって無二の者たちじゃ、二人の言に耳を傾けるようにせよ。
寛太郎と五右衛門にも言い置く、三介はこの儂でさえ持て余すようなところがある。されど、そちたち二人はこれまでそんな三介のやり方を見て理解してきたはずじゃ、そんなそちたちの言葉ならば三介も意固地にならず聞き入れるであろう。もし、三介が無茶・無理・無謀を押し通そうとした時にはそちたちが三介を止めよ。三介を生かすも殺すもそちたち次第だという事を肝に命じ、三介の力となるのじゃ。良いな!」
そう告げる父に呼応するように、烏帽子親となった五郎左衛門尉と勝三郎に笑顔で背中を叩かれる寛太郎と五右衛門は、叩かれた痛みに一瞬顔を顰めるも烏帽子親からの檄だと察し、
「はっ! 某は河原にて妹と共に三介様に拾われ此処まで生き永らえられた身にございます。そんな某に『川之辺寛太郎顕長』という名を賜りました。某の身と忠義は全て三介様の御為に使い潰す所存にござりまする。」
と、寛太改め寛太郎が答えると、五右衛門も大きく頷き、
「茶筅様に初めて会った時にこのお方にお仕えしたいと願い、百地丹波守様に我儘を許していただきました。その思いは今も変わらずむしろ強くなっております。某が歩く道は茶筅様…いや三介様と共にありまする。」
と応じた。そんな二人の言葉に父はニヤリと笑うと大きく頷き俺の顔を覗き込むようにして、
「三介、良き家臣を持ったな。されど寛太郎と五右衛門には『貴様を止めよ』とは申したが元服をしたとて賢しき大人などになる必要はないぞ。これからも大いに“たわけ”、儂を楽しませ時には驚かせるが良い!」
と言い放った。その父の言葉に寛太郎と五右衛門はハトが豆鉄砲を喰らったかのような表情を浮かべていたが、五郎左衛門尉と勝三郎は苦笑を浮かべていた。俺も父のニヤついた顔に苦笑したが、直ぐに挑戦的な表情をうかべ声を上げた。
「そのお言葉に安堵いたしました。某、元服を済ませたとて生来の“たわけ”の性分は変わりそうにもありませぬ。その事でこの後父上からお叱りを受けることが多くなると懸念しておりました。ですが、父上から晴れて“たわけ”の免状を頂きました上は、この後も大いに“たわけ”ようと思いまする!」
「わっはっはっはっは!“たわけ”の免状とは正に言い得て妙。しかし、正にその通りよ。元服したからと小賢しく行儀よくする三介などに儂は興味はない。これまで以上に儂を驚かせるがよい。貴様の“たわけ”振り大いに楽しみにしておるぞ!!」
父は俺の言葉に『我が意を得たり』とばかりに笑い声を上げると上機嫌で元服の儀を終了したのだった。
元服ですが、当初は北畠家に入ってからのつもりでいましたが、勘九郎信重に続き同じ歳の三七郎信賢も元服させているし、人質生活から戻ってきて与えた仕事もやり遂げた者を元服させないと言うのも不自然かなと思い、思い切って元服させました。
史実では北畠に入って具豊→信意→信勝→信雄と名を変えたようですが、今作ではどうなるか?楽しみにしていただけると嬉しいです。




