第四十四話 さらば岡崎! その一
元亀二年(1571年)。父は俺が家康と交わした約定通り、この年の秋に冬姫を竹千代の元に輿入れさせるとの旨を伝えて来た。
父の使者として岡崎城に来たのは驚いたことに下の兄・三七改め六角三七郎信賢兄上だった。
父が上洛を果たした翌年・永禄十二年(1569年)の正月。本圀寺に居た足利義昭を狙い三好三人衆が攻め寄せて来た。後に本圀寺の変と呼ばれる戦が始まったのだ。
この時、父は都の治安維持だけの為に少数の兵しか都周辺に残さず、本領の岐阜へ戻っていて、その隙を突かれた。
三好三人衆は、三好家の本領である阿波国から一万の兵を率いて本圀寺へと攻め寄せた。
本圀寺には義昭を守るため奉公衆や織田家家臣が奮戦。中でも一際活躍を見せたのが明智十兵衛光秀だった。
三好勢は一万の軍勢を前にして義昭は早々に降伏すると思っていたようだが、光秀などの奮戦により本圀寺を攻略する事が出来ず、時間を浪費している間に細川藤孝や三好義継など都周辺の織田方に組する国人が援軍に駆け付けたことで三好勢は不利を覚り阿波へ撤退した。
三好勢による本圀寺襲撃の報を受けた父は僅かな手勢だけを連れて僅か数日で都に上り、義昭の無事を確認し本圀寺での防衛線にて力を見せた光秀、そして三好勢を阿波へと追い落とした細川藤孝や三好義継らを褒め称えた。
また、帝が住む御所にも出向き都を騒がせたことを陳謝した。
史実では父はこの後、義昭の為に都の二条に二条城を造営した。しかし、父がしたことは本圀寺へは周囲を囲む空堀と土塁を設けることで防備を固めるに留め、代わりに京都御所の周りに堀を巡らして近くを流れる鴨川から水を流して堅牢な水堀とし、四方に御所に繋がる朱塗りの立派な橋を架けた。
この父の行動に義昭は、
「将軍である我の御座所は空堀と土塁であるのに、御所の周りには水堀を配するは如何なものか…」
と、難色を示したそうだ。そんな義昭に父は、
「義昭様は武家の頭領たる将軍。一朝事あらば、自ら武具を手に仇なす敵を討ち払うが将軍の務めにござりましょう。ですが、帝にその様な事をさせるなど畏れ多き事なれば、災いが降りかからんとした時には四方の橋を落として暫しの間御所に籠っていただき、その間に義昭様をはじめとした我ら武士が帝に仇なす不埒者を討ち滅ぼし、新たに橋をお掛けし参内するが務めと心得まする。」
と答えたため、義昭は口を噤まざるを得なかったという。
その後も父は史実とは異なる動きを見せていく。
史実では、永禄十二年には伊勢に攻め入り北畠家を攻めているはずが、伊勢攻めには着手せず代わりに行ったのが南近江の掌握だった。
上洛の際に南近江の六角承禎(義賢)・義治親子を攻め居城である観音寺城から甲賀へと退け、六角家に臣従していた南近江の国人たちの多くを織田へ鞍替えさせたが、甲賀の三雲成持は居城である三雲城に承禎・義治親子を匿った。
また、甲賀と隣接する日野を治める蒲生賢秀もまた日野城に籠り、三雲成持と歩調を合わせていたが、蒲生賢秀の妹が嫁いだ神戸具盛からの説得によって矛を収めた。
史実では三七兄上は蒲生賢秀を説得した神戸具盛の養子に入る事になっていたが、俺が父に三七兄上を軽々しく養子や人質に出すべきではないと進言したことで、神戸家に養子には入っていなかった。神戸家は伊勢の国人で桶狭間の戦の際に今川治部大輔義元に組し、父を背後から襲撃せんと暗躍していた服部友貞を討った滝川彦右衛門一益と父の弟・織田彦七郎信興によって織田家に降り、蒲生家との繋がりに目を付けた彦右衛門によって蒲生家の説得を任されたようだ。しかし、三七兄上が養子に入らなかった事で神戸具盛は蒲生賢秀の説得に史実ほど力が入っていなかったのか、蒲生賢秀を織田家に臣従させるには至らなかった。
その事に危機感を覚えた彦右衛門は、父の上洛後も独自に六角承禎・義治、三雲成持、蒲生賢秀らと接触を続けた。
彦右衛門は、南近江の甲賀出身で六角承禎の父・六角定頼に仕えていたことがあったようだが、国元で諍いを起こして出奔。諸国を回っている内に父の元に身を寄せ家臣に取り立てられた男だった。そんな彦右衛門からすれば元は主家筋にあたる六角承禎をはじめ三雲成持や蒲生賢秀の力量は侮りがたく、織田家の元に臣従させるか出来なければ南近江から排除したいと考えた様だ。
父にとっても、本拠地である美濃・尾張から都への通り道となる南近江に敵対勢力が残っている状況は決して好ましいものではない。
初めは、上洛戦で支城を落とされただけで居城である観音寺城を早々に捨てた六角承禎・義治に侮りを持った父であったが、甲賀の三雲城に入り抵抗の姿勢を見せる姿に、「観音寺崩れなどで力を落としたとはいえ流石は名門・宇多源氏佐々木氏の末よ」と感心したようだ。
その心には桶狭間の戦の際に見た今川治部大輔の最後まで生き延びようとする姿と、居城を捨てて落ち延び捲土重来を期して抵抗を見せる姿が重なって見えたのかもしれない。さらに、上洛戦の際に織田家に臣従した平井定武、進藤賢盛、目賀田貞政らこれまで六角家に仕えていた南近江の国人たちの心中を慮り、これ以上は六角家と争っても益は無いと彦右衛門の動きを推し進める様に命じた。
父からの同意を取り付けた彦右衛門は、水面下での動きを加速させた。
そんな動きの中で、本圀寺の変が勃発した。
三好三人衆による義昭襲撃の報は、即座に父の元に届けられ父は僅かな供だけで都に向け馬を走らせた。
その途中、南近江に差し掛かった際、都へと急ぐ父の為に代替の馬と水それに食料を用意したのは六角承禎と蒲生賢秀、三雲成持だった。
父に敵対していたはずの六角承禎と蒲生賢秀、三雲成持だったが、彦右衛門の調停により父と敵対する事を止め、義昭救助のために都に急ぐ父の力になることで恭順の意を伝えた。
承禎らの行動に父は喜び、六角家を観音寺城に戻すことを承禎と約した。その際、承禎から嫡男の義治は承禎らが説得しても織田家に降ることを良しとせず、承禎らと袂を分かち南近江から出奔したことが伝えられ、義治に代わり織田家から養子を取り六角家を継がせたいとの申し入れがなされた。
しかし、都の変事に先を急ぐ父はこの時は返事を保留とした。
その後、都から三好三人衆を排除し諸々の手配りをした後岐阜城へと戻る帰路。蒲生賢秀の居城・日野城に立ち寄ると承禎からの申し出を受けることを伝えた。
と言っても、この時父にはまだ産まれたばかりの於次丸を合わせても四人しか男児はおらず、嫡男の信重は論外。三男の俺・茶筅丸は徳川に質に出しており、乳飲み子の於次丸を出す訳にもいかないという事で、六角家からの要望に沿える者は次兄の三七兄上しかいなかった。
結果、三七兄上は蒲生賢秀を烏帽子親とし元服を済ませると六角家に入り名を六角三七郎信賢とし、三七郎兄上の後見は承禎が務めることとなった。
そんな三七郎兄上が、わざわざ冬姫の輿入れの為に岡崎城に来るとは思いもしなかった。
驚く俺に三七郎兄上は満面の笑みを浮かべ、
「これまでいつも茶筅に驚かされてきたからな。たまには驚かせてやろうとこのお役を父上に申し出たのだ。どうだ!驚いただろう。」
とご機嫌な様子の三七郎兄上。そんな兄上に俺は素直に驚いたことを告げた。
「はい、六角家を御継ぎするためにお忙しい兄上にまさか岡崎城でお会いできるとは思いもしませんでした。ですが、お元気そうな兄上の姿を見られて嬉しいです。」
「そうか、そうかぁ。俺の顔を見て嬉しいか。そんなに喜んでくれるなら父上にこのお役を願い出た甲斐があると言うものだ。」
俺の言葉ににこやかに返す三七郎兄上。しかしそれも僅かの間だけですぐに表情を引き締め、チラリと周囲に目配せをして供回りの者に何かを確認すると俺に近くに来るように手招きをした。そんな兄上の様子に俺は戸惑いながらもにじり寄ると、三七郎兄上は小声で話し始めた。
「茶筅。これは未だ公にしておらぬ事なのだが、間もなく父上は越前の朝倉家の要請に応じて加賀国を領する一向門徒と敵対する事をお決めになられた。」
三七郎兄上の口から飛び出したのは史実とは違う父上の動きだった。
「義昭様に将軍宣下が成されてから、朝倉左衛門督義景様に浅井新九郎様が上洛するようにと何度も促されたのだが、加賀を領する一向門徒が再び越前を窺い隙あらば侵入しようとしているために上洛は出来ぬと朝倉左衛門督様からの返答があったのだ。そこで、父上は新九郎様と話し合い伊勢の願証寺や摂津の本願寺に加賀の一向門徒を抑えるように何度も申し入れたのだ。しかし、加賀一向宗の動きはいっこうに止まらず朝倉左衛門督様を上洛させるためには加賀の一向門徒を武力で以て抑えることもやむ無しと…」
「それは危険ではありませぬか!もし、朝倉左衛門督様と加賀の一向宗が手を結んでいれば…」
三七郎兄上の言葉に俺は思わず声を上げていた。史実では朝倉義景が再三に渡る上洛の呼びかけに応じなかった事に業を煮やした父が越前に攻め入ったところで北近江の浅井長政の裏切りに遭い後に『金ヶ崎の退き口』とも『金ヶ崎崩れ』とも呼ばれる撤退戦を余儀なくされることになる。その事を心配しての事だったがそんな俺の言葉に三七郎兄上は小さく頷きつつも、
「確かにその懸念は無きにしも非ず。されど、此度はあくまでも加賀一向宗と対峙するは朝倉・浅井の兵で、父は加賀一向宗が越前に攻め入った際にその背後を突き、尾山御坊に迫るおつもりのようだ。そのため、越中を勢力下に置こうとしている越後の関東管領・上杉弾正小弼輝虎様にも話を通されている。
上杉弾正小弼様は先の将軍・足利義輝様より内々にて関東管領職が送られていたが、永禄の変によって御討ち死にされてしまわれていた為、関東管領職就任が宙に浮いていた。父は義昭様に進言し、上杉弾正小弼様を改めて関東管領職に任命された事もあり、父からの越前朝倉家救援のための越中進軍を弾正小弼様はお許し下されたそうだ。」
と教えてくれた。その父の動きに俺は驚きを隠しきれなかった。
史実でも父・信長は武田信玄と上杉謙信を恐れ、早くから接触をはかり様々な贈り物や縁組を進めていた事は知っていたが、上杉謙信の関東管領職就任についても関わりがあったとは思いもしなかった。思い返してみれば、史実で謙信と敵対するようになるのは父が越前、加賀を領し越中に食指を動かしてからの事だったから、この時点(1571年)では良好な関係が作れていたのだろう。しかも、相手が一向宗となればこの時期の上杉謙信にとっても好都合だったのだと思う。
一向宗と戦った戦国武将といえば織田信長が有名だが、戦国後期の一向宗は戦国大名にとっても頭痛の種で、特に北陸では加賀一国が一向宗の国となっていたためその周辺の大名は一向宗に降るか戦うしか道はなく、朝倉と上杉は特に長く一向宗と戦火を交えた、いわば“不倶戴天の敵”。そんな一向宗に対し桶狭間の戦いで一躍武名を上げ、足利義昭を擁して上洛を果たした父の参戦は上杉にとっては歓迎すべきことだったのだろう。
朝倉左衛門督は永禄の変の後に越前に逃げてきた義昭を奉じて上洛し、天下に朝倉の名を知らしめたかったのだろうが家中を上洛へと纏める事が出来ず、父に手柄を横取りされて面目を潰された格好となり父の事を好ましく思っていないだろうが、目の前に一向宗が迫ってきている以上背に腹は代えられないと言った所だろう。
しかも、義昭の命に従い上洛を勧めているのは父ではなく浅井新九郎なのだ。このままで新九郎の顔に泥を塗り続ければ、六角からの独立の協力に恩義ある浅井でも“敵”になってしまうかもしれない。そうなれば一乗谷で栄華を誇る朝倉とて北からは一向宗、南からは浅井そして東から織田と三方から攻められては風前の灯火。生き残るためにはこの話に乗るほかなかったのだろう。
そんな状況へと朝倉を追い込んだ父の手腕に感心し、
「まさかそのような事になっているとは…流石は父上にござりまする。」
と溢すと、そんな俺を三七郎兄上は大きく溜息を吐き呆れたと言うように首を横に振った。
「茶筅。何を言っているのだ?そもそも父上に朝倉の説得は浅井殿にお任せするよう進言したのはお主ではないか…まぁ良い。実際に一向宗と事を構えるようになるのは実際に一向宗が越前に攻め入ってからの事となる。それまでにはまだ時が掛ろう、その間に此方は備えなければならぬ。冬姫は輿入れし質として役目を果たした後は早々に父上の元に向かい御下知に従うがよい。今の織田家に茶筅に休息を与える余裕はなさそうだからな。」
「と、申されますと?」
「俺も詳しいことを知っている訳ではないが、この後一向宗が越前に攻め入れば約定に従い父は軍を加賀へ押し進める。そうなれば、これまで大人しくしていた伊勢の願正寺や摂津の本願寺が騒ぎ出そう。そうなった時に備え早い内に伊勢をとのお考えの様だ。しかし、これまで伊勢の攻略を任せていた彦右衛門を南近江の調略に駆り出したため、伊勢への備えが手薄となっている。そこで南近江の抑えに置いていた柴田権六と佐久間右衛門尉と共に茶筅を伊勢にとお考えの様なのだ。」
その言葉に、驚くとともについに来たかと武者震いがしてきた。
伊勢の攻略となれば、目指すは伊勢の国司・北畠家の織田家への臣従。伊勢は織田家の本貫である尾張とは木曾川と揖斐川を挟んで隣の国となり織田の本貫を守るためには是が非でも収めておきたい地。そして、伊勢国司北畠家は俺が敬愛する北畠権中納言鎮守府大将軍顕家の生家。
俺が目指す地だった。
異論はあると思いますが、今作品はこの方向にも動いてゆくつもりです。
戦国の覇王たらんとした信長であれば取らない選択だとは思いますが、戦国の覇王になってしまった信長ならこんなのもアリかなと…




