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第四十二話 井伊直虎と虎松そして小野道好 その三

なんとか書けました。想像以上に長くなってしまった・・・


 鳳来寺は真言仏教系列の山寺で、創設は奈良に都が定められていた時代にまで遡り、利修という仙人が山の霊木で薬師如来をはじめとした仏像を彫り、時の帝の要請に従い加持祈祷を行って帝の病を癒したことで伽藍が建立されたのが寺の始まりらしい。

その様な成り立ちの寺らしく苔生した山中に在り、まるで修験道の修行場にある寺院の様に見えた。

 寺は杉などの巨木に囲まれて静寂に包まれていると思いきや、声を張り上げる老人と元気な童の声が響き渡っていた。


「これ、虎松大人しくせぬか!もう間もなく次郎法師殿がお客人を連れて参られるというに一体何処へ行く気じゃ!!」


「和尚!私は井伊の領主となり武功を上げて領地を豊かにしなければならぬのです。その為には誰からも一目置かれるような武功を上げねばならんのです。そのためには日々鍛錬を積まねば!養母上様には和尚から良しなにお伝え下され!」


「井伊の領主になる為にも次郎法師殿がお連れ下さるお客人にお会いせぬばならぬのじゃ。これ!虎松~!!」


じゃれ合う老人と童の声を聴きながら寺の門をくぐると、俺たちの目に入ったのは年老いた僧形の男が総髪の童を羽交い絞めにしている所だった。その光景に思わず足を止めた俺たちの姿が二人の目にも入ったのか二人は同時に体の動きを止め、次の瞬間僧形の老人が声を上げた。


「お~!次郎法師殿、良く参られた。」


「南渓和尚様!」


老人に名を呼ばれた直虎はその場から駆け出し、笑みを浮かべ二人の元へと駆け寄り、直虎に付き従う井伊谷の国人たちも直虎の後を追い南渓和尚の元へ向かったが、但馬守は俺の元を離れなかった。


「南渓和尚様、いつもご足労をお掛け致します。虎松!南渓和尚様の云う事を聞く様にと申し付けておいたではありませんか。」


南渓和尚と虎松の元に駆け寄った直虎は、和尚にお礼を告げると和尚に羽交い絞めにされている虎松は朱に染まった頬を膨らめて不貞腐れた様に顔を横に向けた。

その様子は実の母に叱られた童が不貞腐れてそっぽを向いた様な微笑ましいものだった。

そう感じたのは俺だけでなく、俺の後方で控えている但馬守も直虎と虎松のやり取りを見て僅かに表情を緩めた。その表情からは史実に残されたような井伊谷を我が物にしようと何度も虎松の命を狙った“奸臣”の姿は無く、感情を殺し井伊谷のために尽くそうとする忠臣に見えた。

そんな但馬守は俺の視線に気づくと緩めていた表情を再び引き締め、能面の様な感情が読み取れない表情を作ると、和気あいあいと和む直虎たちに声を飛ばした。


「次郎法師様。久方ぶりに虎松様にお会いし喜ばしい気持ちは分かりまするが、わざわざ斯様な所まで足をお運びいただいた方々を蔑ろにするのは如何なものかと。」


その言葉に井伊谷の国人たちはバツが悪そうに顔を伏せ、直虎もまた顔を伏せながら俺たちに謝罪の言葉を口にしようとしたのだが、そんな直虎よりも早く反応したのは虎松だった。


「但馬!養母上との語らいに水を注すとは、お主らしい人の情を解さぬ物言いじゃなぁ!!」


そう吠え但馬守を睨みつける虎松の瞳には怒りの感情がありありと見て取れた。そんな虎松に対し但馬守は僅かに目を細めると、


「虎松様。ご健勝のご様子、恐悦至極に存じます。次郎法師様と語らいたきお気持ちはお察しいたしまするが、それが許されるのは時と場合がございまする。しばしのご辛抱を。次郎法師様!」


如何にも慇懃無礼を絵に描いた様な対応に終始した但馬守は、その先を直虎に委ね自分は脇に控えた。但馬守に促された直虎は虎松と南渓和尚を促し俺の傍によると、俺の前に虎松を控えさせ、


「茶筅丸様、竹千代様。この者が井伊肥後守直親が一子、虎松にございます。虎松、茶筅丸様と竹千代様にご挨拶なされませ。」


「…井伊家当主肥後守が一子、虎松だぁ!」


直虎に促され、俺と竹千代の顔をジロリと睨みつけると虎松は生意気なやんちゃ盛りの子供らしく大声で名乗りを上げた。

そんな虎松の態度に但馬守は思わず顔を顰め、直虎は顔色を青褪めさせた。そこへこれまで黙って様子を窺っていた南渓和尚が割って入った。


「ほっほっほっほ、この様な山寺まで難儀でござりましたなぁ。斯様な所で立ち話もなんですからな、どうぞ本堂の方にお入り下され。」


そう言って俺たちを寺の中へと招き入れた。

本堂に入り利修仙人が掘ったとされる薬師如来をはじめとした仏像を鑑賞していると、南渓和尚は喉が渇いているだろうと白湯を饗してくれた。

白湯で喉を潤し一息ついていると、尼姿となった直虎を先頭に直垂に着替えた井伊谷の者たちが本堂の中に入って来て俺たちと対面する位置に腰を下ろした。


「改めまして、井伊次郎法師直虎にござりまする。但馬守がお二人に引き合わせたかったのは、この虎松についてお願い申し上げたきことがござりまして、わざわざこの様な山寺までご足労いただきました。」


先ずは俺の前に腰を下ろした直虎が口火を切った。


「願いの儀とは、こちらに居られる虎松殿の事についてでござりまするな。しかし、井伊家並びに井伊谷の者たちは三河守様に臣従する事をお決めになられたのでござりましょう。であれば浜松のお城に居られる三河守様の元に参ればよろしいのではござりませぬか?」


直虎の言葉に対し、俺は徳川家に臣従したのなら井伊谷とは目と鼻の先にある浜松城に入った家康の元に虎松を連れて行けば良いのではないのかと問うと、直虎が答えるよりも先に虎松が声を上げた。


「俺が井伊谷に戻るのを良しとせぬ者がおるのだ!そうであろう但馬ぁ!!」


虎松の言葉に本堂に集った者たちの視線は一斉に直虎の後方に控える但馬守に注がれた。だが、但馬守は自らに視線が集中しようとも表情を変えることは無かったが、直虎だけは虎松の言葉に悲しげな表情を浮かべた。


「但馬!何か言うことは無いのかぁ、今川刑部大輔氏真様の歓心を買い井伊谷を我が物とするため、父にあらぬ疑いが掛かるように讒言を弄し父を謀殺させたのは貴様であろう。違うかぁ!!」


畳み掛けるように但馬守を糾弾する虎松に、直虎の悲し気な表情が一層深いものとなっていった。しかし、当の但馬守は一切表情を変えることなく反論や弁明もする事はせず、黙して語らずの姿勢を保った。そんな但馬守に対し虎松は苛立ちが抑えられなくなり立ち上がり後ろに控えていた但馬守を殴りつけようと拳を振り上げた。


「やめぇい!」


目の前で行われようとする愚行に俺は一喝するように声を張り上げ、その声は本堂を震わした。

俺の口から放たれた声に、今にも但馬守を殴らんとしていた虎松の動きはピタリと止まり、驚きの表情を浮かべて振り返り俺と目を合わすとガタガタと震え出しその場に尻もちをついた。

そんな虎松に直虎と但馬守を除いた井伊谷の国人たちが助け起こそうと手を注し伸ばしたものの、虎松を見つめる俺の視線に気づくと慌てて手を引っ込め顔を伏せてしまった。そんな国人たちに代わり虎松に手を伸ばしたのは、先ほどまで虎松に殴られるところだった但馬守だった。


「虎松様。お気をしっかりとお持ちなされませ!そのような事では井伊家の次期当主として肥後守様に顔向けできませぬぞ。」


そう言って虎松の体を支え俺と正対するように座らせると、顔を伏せ丸くなろうとする背中を叩いて背筋を伸ばさせた。但馬守に叱咤された虎松は初めは俺と目が合おうとすると伏せたり横に逸らしたりしていたが、背中を叩かれて背筋を伸ばされると口を真一文字にして奥歯を噛み締めながら俺と目を合わせて来た。

虎松と但馬守のやり取りを意外に思いながら視線を横に振ると、但馬守に支えられながら俺と対峙する虎松を微笑まし気に見つめる直虎がいた。


「…竹千代様、虎松殿のお相手をお願いしてもよろしゅうございますか?」


唐突に告げる俺に竹千代は虎松を一瞥すると直ぐに頷き、


「虎松殿、そなたは剣術はお好きにござるか。もし良ければ某に披露していただきたいのだが。」


そう言って寛太と五右衛門に半兵衛と半蔵を供に本堂から虎松を連れ出していった。突然の事に井伊谷の者たちは如何して良いのか分からず戸惑っている所へ俺は、


「次郎法師殿。但馬守殿。お二人と話がしたいのだが宜しいか。平八郎殿はこの場に、余の者たちはしばし場を外していただきたい。」


と告げて、井伊谷の者たちも本堂から追い出しにかかった。そんな俺に対し、待ったをかける者が…


「茶筅丸殿。拙僧もよろしいですかな。何、余計な事を言うつもりはござらぬ。ですが拙僧にとっても井伊谷は故郷でございましてな。」


そう告げて直虎の横に座ったのは南渓和尚だった。

そんな和尚の行動に驚いたのは俺だけではなかったようで、


「お、大叔父上…」


直虎は驚きと共に呟きその後は言葉を失っていた。そんな直虎に対して南渓和尚は微かに微笑み、その後方に控える但馬守には悲しそうに眼差しを向けたがそれは一瞬のことで、何事もなかったような顔で俺へ向き直った。


「やはり南渓殿も井伊谷ゆかりの御仁でしたか。初めてお見掛けいたした時、虎松殿が南渓殿に対し甘えておられていたように見えましたが、これで合点が行きました。そうであれば構わぬでしょう。」


南渓和尚の申し出を受け入れた俺の言葉に直虎は安堵したのか小さく息を吐いたが、そんな直虎に但馬守は小さく咳ばらいをして気を抜くなと注意を促していた。


「さて、次郎法師殿。井伊家並びに井伊谷の国人は徳川家に臣従するという事で相違ありませぬな。」


「はい。谷の者たちとも話をし、井伊谷の者たちは徳川様に臣従しこの後はお下知に従う事と決しましてございます。」


俺の問い掛けに対し直虎は逡巡する事なく応えた。俺はその言葉を聞き鷹揚に頷いて見せてから改めて言葉を続けた。


「それは重畳にござります。これで虎松殿もこの様な山寺に身を隠すことはございませぬな。堂々と井伊谷に戻られると言うもの。ですが、そういう訳にはゆかぬ仔細があるのでござりますな。それで、某をこの場に呼び寄せたと…お話をお聞かせいただけますか。」


徳川家に臣従すると里の者たちと話し合い決したにもかかわらず、虎松を井伊谷に戻せない。その状況を打開するために俺を虎松の元にまで案内したのだろうと問うと、直虎は目を大きく見開き驚いたが、但馬守は表情を変えることなくその場で平伏し、


「流石は織田の“たわけ”様にござりまする。尾張より伝わって来たお噂を頼りとしおすがりした甲斐がござりました。仰せの通り、虎松様は御命を狙われており、徳川様に臣従を決めたものの今、井伊谷にお戻りになられてはあまりに危険。そこで、茶筅丸様に虎松様の御身をお預かりいただき、その間に虎松様の命を狙う者たちの動きを封じたいと…何卒お力添えを!」


但馬守の言葉に合わせ彼に追従するように直虎も平伏したが、南渓和尚は二人の姿をジッと見つめていた。


「虎松殿の命を狙う者がか?それは但馬守をはじめ刑部大輔氏真に臣従をと動いていた者たちか、あるいは南渓和尚をはじめとした徳栄軒信玄入道殿に繋がりを持つ者たちか?」


俺の言葉に直虎は驚きと共に顔を上げると俺の顔を見て、冗談で言っているのではないと気付くと今度は南渓和尚へ視線を動かしたが但馬守は小動もせず


「御慧眼、感服いたします!」


と俺の問いを肯定した。その言葉にこの後、但馬守が何を成そうとしているのか気付いてしまった。

 但馬守は虎松を俺に預けて井伊谷に戻り、刑部大輔の意を受けた奸臣として井伊谷を横領し、浜松城に居る家康に自ら処刑されることで刑部大輔に繋がる者たちの動きを封じるつもりなのだと。

 今のままでは、井伊家の家臣たちは今川・徳川・武田に分かれ相争う事となる。事が表沙汰になれば家中の仕置き不手際の責めを負って直虎や虎松に難が降りかかり、井伊家を支える家臣たちも離散する恐れがある。

井伊家の家老職を勤める自分が奸臣として処刑されれば、家臣の間にある争いも鳴りを潜め、井伊家の勢力を残したまま虎松に引き継がせる事が出来るかもしれない、と。

史実で但馬守は井伊谷を横領するもその直後に家康の命を受けた井伊谷の国人衆によって奪還され、近隣に潜伏していたところを捕らえられ処刑されている。しかし、駿河を手に入れた信玄が矛先を遠江・三河へと伸ばしたため井伊家は勢力を衰退させることとなったが、虎松の命だけ救われ家康に見出されて大出世を果たした。

大出世を果たした井伊直政の元には“奸臣”とされた但馬守の弟の子供が家康から直政と同じ“万”の一字を賜り、井伊家の家老職を勤めその子孫が井伊家の家伝記を記している事を考えると、但馬守が自ら“奸臣”の汚名を被り井伊家を残したことは、暗黙の秘密だったのではないだろうか。

そして、俺の目の前で史実と同じように汚名を被ろうとする但馬守を見て、俺は死なせるのは惜しいと思ってしまった。


「俺に虎松を預けた後、井伊谷を横領して奸臣の汚名を被り死ぬことで今川の動きを封じるつもりか。だが、それで井伊谷が安泰となるとは…如何思いますか南渓和尚。駿河を押さえた武田がそれで満足すると思いまするか?」


但馬守が考えた井伊家の生き残り策を暴露しつつ南渓和尚に話を振る俺に、但馬守は初めて驚きの表情を浮かべ俺を見つめて来た。

南渓和尚は驚く但馬守を一瞥すると、


「満足などいたしませぬでしょうな。駿河を手に入れて一旦は動きを止めようとも甲斐から甲州乱破が放たれ、数年も経たず遠江そして三河へと動き出しましょう。」


と悲哀に満ちた声で応えた。


「そうなった時、和尚は虎松殿を匿うおつもりなのですね。井伊家の血筋を残すために…」


俺の言葉に南渓和尚は小さく頷いた。


「甲斐は貧しき地にございます。周囲を山に囲まれ耕地は少なく、民は飢えに苦しむ地にございます。そんな地で武田は他の地を奪わねば生きて行けなかった。その為に強くなるしかなかったのでございます。そんな武田に今川では、刑部大輔殿では抗し切れますまい。」


「それで、和尚は武田との繋がりを保ち井伊家の命脈だけは守ろうとお考えなのですね。」


「拙僧の兄、井伊直満も武田と今川の間に揺れ苦労した挙句、今川治部大輔様にお疑いを掛けられ命を縮めることとなり申した。その際、但馬守の御父上・小野和泉守殿と謀り亀乃丞(直親)殿を伊那谷の松源寺に匿い申した。井伊家は二代に渡り武田と今川の間で翻弄されて参ったのでございます。」


「大伯父上…」


南渓和尚の口から紡がれる言葉は、大名の間で翻弄された国人領主の悲哀に満ち、和尚の言葉を耳にした直虎はポロポロと涙をこぼしその場に崩れ落ち、本堂内は重苦しい空気に包まれた。

本堂に立ち込める空気を払うべく俺は大きく柏手を打ち鳴らした。


「『パァン!』何を囚われておられる、今こそ今川や武田の軛を払い除ける時ではござりませぬか。」


「茶筅丸殿…」


柏手を鳴らし告げた言葉に、南渓和尚は驚きと共に縋る様な目で俺を見つめた。俺はそんな南渓和尚の視線を受け止めながら傍らに控え黙って俺たちの話を聞いていた平八郎に問い掛ける。


「平八郎、三河守様は三河だけでなく此度は臣従して参った遠江の国人衆を守るため刑部大輔殿だけでなく武田徳栄軒信玄入道とも矛を交える御覚悟は御有りか。」


「元より、その覚悟なくば居城を遠江に移すなどいたしませぬ。ですが、我が徳川だけでは武田の武力に抗しきれず、織田様の御助勢なくば事は成りませぬ。

茶筅丸様。武田が遠江・三河に牙をむいた時、織田様はご助勢いただけましょうか?」


平八郎は徳川家が三河・遠江の国人衆のため武田が牙をむいた時は敢然と武田に抗う覚悟があると答えるとともに、徳川家だけでは武田には勝てず織田の助勢が必要と正直に語った。これが他家の者ならば口先だけで覚悟があると語るが、平八郎は実状を口にすることで直虎や但馬守、南渓和尚に徳川家の覚悟が本物だと伝えた。

そんな平八郎に俺はニヤリと笑い、


「去る年、我が父・織田上総介が足利義昭様を奉じて上洛した際、三河守様は御自ら三千の兵を率いご助勢いただきました。さらに、来年には我が妹・冬姫が竹千代殿の下に嫁ぎまする。その徳川家から助勢を求められて断る父上ではございませぬ!もし、某が元服を済ませておれば某が織田の兵を率い三河守様、竹千代殿の元に駆け参じましょうぞ!!」


俺が声高に宣言した言葉を聞き、南渓和尚はその場に泣き崩れそんな和尚に直虎が縋り付き和尚の背を撫でて労り、但馬守は俺の顔を凝視しその瞳から一筋の涙を溢した。


 井伊家の者たちが落ち着くのを待って、席を外していた竹千代や虎松たちを再び本堂の中へ呼び寄せると、僅かの間にもかかわらず竹千代と虎松は意気投合したのかニコニコと笑みを浮かべていた。その様子に俺は苦笑しつつ、


「竹千代殿。虎松殿の事を気に入られましたか?」


と水を向けると竹千代は満面の笑みを浮かべて、


「はい、茶筅様。虎松は某よりも年少なれどなかなかの気構えを持った男子にござりまする。こちらの寺に預けられてからも一日も欠かすことなく剣の稽古に励み、体の鍛錬にと山中を駆けていたそうにござりまする。」


嬉しそうに話してくれた。俺は竹千代の言葉に何度も頷き、


「では、虎松を竹千代殿のお傍に置いては如何でござります。井伊家は徳川家に臣従を決めたよしにござりまする。年も竹千代殿に近しく、元服後は竹千代殿の側仕えへとされてはと思いまするが…もちろん、武芸だけでなく手習いも必要となりましょうが、共に登誉住職から学ばれれば良き事にございましょう。」


そう勧めると、竹千代は大きく頷き、


「虎松!これより某と共に岡崎に参るがよい。次郎法師殿、虎松は某の側仕えとするがよいな!!」


井伊家の当主である直虎に、虎松を岡崎に連れて行くことを告げると、直虎は即座に了承した。

 直虎が了承したことで話はとんとん拍子に決まり、虎松が元服するまでは平八郎が後見する事となった。これは、井伊谷を離れた虎松の面倒を平八郎がみるとともに虎松の後ろ盾に平八郎が成るという事であり、本領が遠江にある井伊家にとって徳川家譜代の重臣である平八郎の庇護下に入る事を意味し、井伊家からすれば格別の待遇となった。そして、


「小野但馬守。これで今川刑部大輔の目を欺くため井伊谷を横領などする必要はなくなったな。かと言って、何事もなかったように井伊谷に戻りこれまで通り家老職を務めるという訳にも行かぬであろう。」


「…肥後守様を死地に向かわせてしまった責めは追わねばなりませぬ。井伊谷に戻り処罰を受ける所存にござりまする。」


但馬守に虎松の身の心配をする必要が無くなった事で、これより如何するつもりなのかを訊ねると、但馬守は表情一つ変えず井伊谷に戻ってこれまでの責めを負うと淡々と告げ、それを聞いて直虎が声を上げた。


「但馬。もう良いではありませぬか、何故それほど己を罰しようとするのです。これまで今川と武田の間に翻弄される井伊谷を何とか残そうとしてきた上での事ではありませぬか!」


「いくらお家を残すためとはいえ、戦場での事ならばまだしも家臣が当主に詰め腹を切らせるなど許される事ではありませぬ。その責めを誰かが負わねば示しがつきませぬ。」


「なれど…」


直虎は但馬守に翻意を促すものの、頑として聞き入れない但馬守に直虎は言葉を失い涙を溢した。

そんな二人に俺は溜息を吐きつつ口を挟む。


「はぁ~。但馬守、井伊谷に戻り責めを負わねばと申したが、その様な悠長な事をしておって良いのか?先ほどの某の言葉。信じてもらうのは結構だが、確実に履行されるように某から…織田家から目を放さずにおらねばならぬのではないのか。」


「なっ、なんと仰せられまする。武田が遠江に攻め寄せてきた折、三河守様をお助けするため織田様はご助力いただけるのではないのですか!?」


「三河守様をお助けするために織田は動きましょう。しかし、それが井伊谷を救う事になると思うのは甘いのではありませぬか?三河守様や竹千代殿からすれば虎松さえ手元に置けば井伊谷など武田に奪われようとも井伊家の名跡は残せまする。

何より徳川の本貫は三河。

三河を守るために一時、遠江を武田に預けておいて時を稼ぎ、信玄入道の死に乗じて遠江を取り返せばよいだけの事にござりましょう。もちろんその際には武田に組した国人からは悉く領地を召し上げることになるでしょう。」


「…。」


まさか元服も済ませていない俺の口から斯くも悪辣な言葉が出てくるとは思いもしなかったのだろう。但馬守は言葉を失い、直虎と南渓和尚は青褪めた。俺自身さすがに言い過ぎだったかと思わないではないが、こうでも言わないとこの後の提案に但馬守がのって来ないと思ったのだ。


「織田家と徳川家が遠江を切り捨てても止む無しと判断せぬようにするためには、徳川家はもとより織田家にも仕え力を尽くす事が肝要ではありませぬか?徳川家には虎松が入り竹千代殿のお側にお仕えすれば良いでしょう。ですが、織田家への手当ては如何致します。」


「…そのお役目を拙者が担えと申されるのでございますか?」


「他にその任を全うできる者が井伊谷に居るのですか?汚名も自らの命も顧みず井伊谷に、井伊家に尽くす事が出来る者。」


但馬守以外にはいないだろうと言う俺の言葉に、但馬守も「はい、そうです」とは言えなかったようで口を閉ざすと、直虎が声を上げた。


「但馬!茶筅丸様がここまで申されてくれているのに何を躊躇っているのです。元服前の茶筅丸様でさえここまでの事を瞬時にお考えになり策を講じられるのです。上総介様はもとより織田家にお仕えしておられる方々に伍して行ける者は井伊谷には其方しか居らぬではありませぬか。井伊谷に住む者の為、井伊家そして虎松の為に織田家にお仕え下さりませ!」


直虎の言葉と直虎を後押ししようとしているのかジッと見詰める南渓和尚に但馬守は大きく溜息を一つ吐くと、


「分かり申した。茶筅丸様、拙者の様な者でお役に立てるかは分かりませぬが、井伊家のため織田家に誠心誠意お仕えしたしまする。」


俺は但馬守の言葉に大きく頷き、


「よくぞ決心されました。ですが、小野但馬守道好のままでは今川家などに接触を持った井伊家の家老としての名が知られておりましょう。織田家に仕えるのですから心機一転、名を改めては如何でござりますか?

…そうですね、御父上は“和泉守政直”と名乗られておられましたから、この後は『小野和泉守政次』と名乗られては如何にござりまするか。」


唐突に俺から改名を勧められて但馬守は呆気にとられたようだったが、父親の名前を引き継ぐような名を提案されると、いつもの能面がほころんだ。


「はっ!以後は小野和泉守政次として織田家にお仕えいたしまする。」


と告げて、俺に対し深々と頭を下げた。


 この後、政次は父宛てに書いた俺の文を持ち岐阜城へと向かい、無事に父の許しを得て織田家に仕えることとなったが、父の下に居たのは一年ほどで冬姫の輿入れのために奔走した後は俺の与力として付けられることとなり、利久と共に俺の下で官吏として北畠家の内政を回す両輪として奮闘する事となる。

 常に表情を表に出さず、怜悧に官吏としての仕事を進める政次だったが、その力は大きく“今韓非”と呼ばれるようになる。

(韓非・中国の戦国時代の法家の思想家で『韓非子』という著書を残し始皇帝に大きな影響を与えたが、その力を恐れた宰相の李斯に謀殺された。しかし、その著書『韓非子』は法治理論の名著として多くの為政者の手本となってきた)


今週は地区の会合などが多くて、更新できないと思います。

来週は出来るように頑張ります。


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[気になる点] ご都合主義万歳とキーワードにも入ってますし、ご都合主義を入れることに関して批判するわけではありません。ですが、これだけご都合主義が詰め込まれてるのに面白くないのはどうなのかなと思います…
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