表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/146

第四十話 井伊直虎と虎松そして小野道好 その一

なんとか書けました。ですが、長くなりそうなので分割して更新させてもらいます。


永禄十二年の年も明け年賀の挨拶を済ませると、家康は居城を岡崎から移すべく動き出した。

家康が目を付けたのは三河から遠江の国境を越えた先の湖・遠淡海(浜名湖)の近くにある曳馬城という城だった。

曳馬城は今川氏に帰属していた飯尾善四郎連龍の居城だったが、桶狭間の戦の後に岡崎に入った家康と同じように曳馬城で守りを固めた善四郎の動きに疑いを持った今川刑部大輔氏真によって駿河に呼び出され謀殺され、善四郎亡き後は、奥方で治部大輔義元の姪に当たるお田鶴の方が女城主となって城を治めていた。


史実では曳馬城を巡る攻防で、お田鶴の方は緋色の甲冑を纏い薙刀を振るって侍女と共に壮絶な討ち死をしたのだが、開城を迫る家康の文と共に送られた築山殿の文を読んだお田鶴の方は、開城する事に同意した。

築山殿とお田鶴の方は治部大輔義元の姪という同じ立場であったため幼き頃からよく知った仲だった。しかも築山殿は父親を、お田鶴の方は夫を刑部大輔氏真に謀殺されたという近しい境遇にあった為、築山殿の言葉はお田鶴の方の心に届き、開城を決心した様だ。

家康も城を明け渡したお田鶴の方とその子息たちを厚く遇し、嫡子である辰之助に“康”の一字を与え、飯尾善四郎連康として元服させると自らの小姓に取り立てた。


 遠江に曳馬城という足場を築いた家康は石川数正たち家臣を従え、築山殿と共に岡崎から曳馬城へ居城を移した。

家康が居城を移す際、家康から竹千代と共に曳馬城を見分しないかと誘われた俺はその申し出に驚きながらも同意し、竹千代に平八郎や半蔵に加え半兵衛や寛太、五右衛門と共に曳馬城へ入城した。

 曳馬城には新たな主となる家康を迎えるため、東三河や遠江で家康に臣従する事を決めた国人たちが集まっていたが、その中の一人に俺は目を引かれた。

その者も俺の事を知っていたようで、家康との対面を済ませて後、一人でそっと俺に近づき声を掛けて来た。


「織田茶筅丸様とお見受けいたしまする。拙者は遠江の井伊谷を治めまする井伊次郎法師直虎が家臣、小野但馬守道好と申しまする。」


「茶筅丸にございます。井伊次郎法師殿といえば確か女地頭とも呼ばれる御方でございましたな。」

声を掛けて来た小野但馬守は、何処か半兵衛に通じるような雰囲気が滲み出ていた。しかし、半兵衛とは異なりその表情には一切の笑みは無く、鋭利な刃物を思わせるような顔つきの男だった。


「…流石でございますな。聞きしに勝るとは正にこの事、遠江と信濃の境に位置しているとはいえ、小領主でしかない井伊谷の井伊次郎法師の名を聞いて即座に井伊の女地頭だと言い当てるとは。」


「世辞は結構にございます。それよりも女地頭殿のご家臣‥否、家老を勤めておられる但馬守殿が某に何用でござりましょうか。」


前世の知識から姫領主として大河時代劇にも取り上げられた井伊直虎の事を口にする俺に対し、但馬守は俺の事を探る様に一瞬だけ目を細めたが直ぐに俺が直虎を女地頭と評したことを褒めそやしたが、俺はそんな但馬守の言葉を遮るようにして声を掛けて来たその真意を問い質した。すると、但馬守はその場に片膝をつき首を垂れると、


「では、単刀直入に申し上げまする。茶筅丸様はこの曳馬城を見分された後、竹千代様と共に三河の岡崎にお戻りになられるとお聞きいたしました。その際に是非、足をお運びいただきたい所がございます。織田様の御子息様に対しこの様な願いを口にするなど畏れ多きことにござりまするが、この小野但馬守の願いどうかお聞き届けいただけませぬでしょうか!」


「但馬守殿!茶筅丸様に対しそのような事を申し出るなど僭越であろう!!」


小野但馬守の申し出に対し、それまで俺の脇に控えていた平八郎が怒気を孕んだ声で但馬守を押し留めようとした。しかし、平八郎の威圧に怯むことなく但馬守は俺の顔をジッと見詰め返答を待っていた。その顔には何かを思い定めた男の覚悟があるように見えた。


「お待ち下さい平八郎殿。この者は命を捨てる覚悟でこの場に望んでいるものと推察いたします。

但馬守殿。貴殿、某が『否』と答えたら即座にこの場で腹を斬る覚悟であろう。」


俺の言葉に平八郎はビクリと体を震わし、俺の前に膝をつく但馬守の顔を覗き込んだが、但馬守はそんな平八郎の視線を気にすることなく、肯定も否定もせず俺の顔をじっと見つめ続けた。その態度に俺は自分が口にした但馬守の覚悟が本物なのだと確信した。

小領地とは言え家老を勤める武士もののふが命を懸けての申し出を無下にすることは出来ない。しかも、但馬守は岡崎に戻る際に足を運んで欲しいと言った。確かこの時期、井伊谷は当主であった井伊肥後守直親は今川刑部大輔氏真によって謀殺され、前当主の娘である直虎が当主に立ち、直親の嫡男・虎松は三河の鳳来寺に匿われていた筈。という事は…


「分かりました。竹千代殿らと共に岡崎に戻る途中で良ければ案内をお願いします。」


「はっ!有難き幸せ。では、岡崎に戻る際に道中にて合流させていただきます。しからば御免。」


そう言うと但馬守は一礼して去っていった。その振舞いには澱みや躊躇いといったものは微塵もなかった。


「…なかなかの人物と見ました。平八郎殿は彼の御仁の事、何か知っておられますか?」


但馬守の立ち居振る舞いに、半兵衛は感じる物があったのか平八郎に何か知らないかと訊ねたが、平八郎は眉間に皺を寄せて暫し黙考した後、


「申し訳ござらぬ。彼の者の事について拙者はあまり存じませぬ。井伊谷はこの曳馬城の近くの地名にてその地の国人と思われまする。その地を治める井伊氏の御当主は先の桶狭間の戦において討ち死にされたと聞いておりました。その後に領主となられた肥後守直親殿も非業の死を遂げたと耳にいたしました。それ以上の事は…」


と申し訳なさそうに口を濁した。

三河を治めていた松平=徳川家からしてみれば遠江の一国人領主など、今川氏傘下の同輩という以上の関心は無く、武田の駿河侵攻に合わせて、東三河に続き遠江への勢力拡大が現実的になるまでは、大して気にも留めていなかっただろうから、平八郎が知らなくても仕方がないのかもしれない。

しかし、但馬守をはじめとした井伊谷の国人たちから見れば、今川の力が徐々に衰え武田が介入してきた中、戦ではなく交渉の上とは言え武田から東三河と遠江を奪った徳川に注視していない訳が無い。

そして、曳馬城を攻めることなく開城させて自らの居城とした家康を現状の今川よりも頼りになるのでは?と考えたとしても何らおかしくはないだろう。

しかも、井伊谷の領主はお田鶴の方と同じく、女領主の次郎法師直虎だ。

お田鶴の方と同じように領主であった肥後守直親を刑部大輔氏真に謀殺された直虎にしてみれば、自ずと答えが決まると言うものだろう。

ただ、お田鶴の方の嫡子が家康の小姓と取り立てられたのを見て、井伊谷の者たちはどう考えただろうか?

流れに従い家康に仕えれば領地は安堵されるだろうが、曳馬城を差し出した飯尾家の後塵を拝する事になるのは目に見えている。

さて、如何したものかと思案している所に、織田家から人質として徳川家に入っている俺が、竹千代と共にのこのこと顔を出したのを見て、上洛を主導した織田家に子息を通して繋がりを!と考えたとしても不思議ではない。

しかし、そうだとしても俺に挨拶のため顔を見せたのが小野但馬守道好だったのには驚いた。

史実では、今川の元に走り井伊谷を押領しようとしたとされた但馬守道好は、家康についた国人の訴えによって捕らえられ、井伊谷で処刑された。

しかし、今川・武田・徳川が三つ巴で争っているのを見て遠江の国人たちは、三家のどの家が勝ち残っても良い様に主家を守るために示し合わせた上でそれぞれの大名と繋ぎを持っていた事は考えられる。

その三家の中から今川が没落していく中、井伊家で今川と繋ぎをつけていた道好が井伊家や井伊谷の国人たちを守るために人身御供となり、詰め腹を切らされたのではと考えられなくもない。

実際、井伊氏の嫡男である虎松が家康に仕えるのは道好が処刑されたすぐ後ではなく、三方ヶ原の戦いで武田に惨敗したものの信玄の死によって武田が遠江から退いた後の事で、大勢が大凡決するまで日和見をしていたのではないだろうか。

その後、徳川家において異例の大出世を遂げた井伊直政は元々仕えていた三河衆から妬まれることになっただろう、そんな周りからの妬みを躱すため井伊谷の国人たちは様々な手で井伊家の印象を良くしようとした。そんな印象操作の一つとして小野但馬守道好は今川にすり寄った奸臣で虎松を暗殺しようとした“大悪党”とされ、井伊家を残すために道好もその事を受け入れていたのだと思う。

 まぁ、曳馬城の交渉による開城と飯尾善四郎連康の小姓への取り立てが無ければ、小野但馬守道好も俺が竹千代と共に遠江に来たとしても話を持ち掛けようとは思わなかっただろう。


 曳馬城は史実と同じく、曳馬という名称が『馬を引く』から敗戦を連想させるからと、かつて当地に在った荘園の名を取り浜松城に改名し、武田の侵攻に備え南西方向に拡張改修が行われることとなった。

俺と竹千代は浜松城への改名と、飯尾家をはじめ徳川方についた国人たちの挨拶を受けた後、家康と築山殿に石川数正、大久保忠世、大須賀康高、榊原康政ら三河衆などに見送られ岡崎に戻ることとなった。

曳馬城改め浜松城で面会する事となった大久保忠世と大須賀康高それに榊原康政は、初めは俺や半兵衛の事をいぶかし気な表情で見ていたが、家康や竹千代の話を聞いて次第に表情は緩み最後には少し呆れて苦笑を浮かべるようになっていたが、概ね好意的に見てくれるようになったようだ。

俺の印象としては、大久保忠世は堅物で実直そうな史実で語られる様になる“三河武士”そのものといった感じの男だった。大須賀康高もまた実直そうな雰囲気は持っているのだが、ある程度の柔軟さを持っているようで大人な雰囲気を醸し出す人物だった。一方、榊原康政は平八郎と同い年の筈なのだが平八郎の様な落ち着きは無くヤンチャな兄ちゃんといった雰囲気で、竹千代が話す俺の武勇伝に目をギラギラと輝かせて「是非、手合わせを!」と言い出し、養父の康高に窘められていた所から康高が大人な雰囲気を持ちえたのはヤンチャな康政が巻き起こした様々な事柄を治めるため奔走する事で身につけたものなのだろうと思う。

 築山殿は家康と共に浜松城に入り、この後は“築山殿”ではなく瀬名様・瀬名の方又は浜松御前と呼ばれるようになる。


家康らに見送られ岡崎に戻る途中、遠江と三河の国境にある本坂峠まで来た時、


「お待ち申しておりました茶筅丸様。」


姿を現したのは数人の供の者を従えた小野但馬守道好だった。

挨拶に進み出た但馬守はそれまで人の目を遮るように被っていた笠を取っていたが、供の者たちは笠を取らず顔を伏せたまま片膝をついて、但馬守の背後に控えていた。


「但馬守殿、出迎えご苦労でした。して、供の者たちが笠を被ったままなのは何故にござりますか?」


俺の問い掛けに、但馬守も笠を取らず控えていた者たちも一瞬緊張したように体を震わせた。その反応に、平八郎が手にしていた蜻蛉斬りを但馬守たちの方へと向けると一振りして穂先を治めていた槍鞘を振り落とした。


「小野但馬!お主、不埒な事を企んでおるのではなかろうなぁ。ならば容赦はせぬ、我が蜻蛉斬りのサビとしてくれるわ!!」


平八郎の怒声が周囲の空気を震わせた。しかし、そんな平八郎の一喝にも但馬守はジッと俺の顔を見つめてたまま微動だにしなかった。

そんな但馬守の胆力に感心していると、


「お待ちくださいませ平八郎様!私共には茶筅丸様・竹千代様に害を成そうなどと大それた考えを持ってなどおりませぬ。ただただ人目を気にしての無作法にてお許しくださりませ!!」


但馬守の背後に控えていた一人から声が上がったが、その声は明らかに女性のものだった。

 声の主は、片膝をついたまま但馬守の隣までにじり進み出ると、急いだ様子で笠を取り素顔を露にし、今度は平八郎が驚いた様子で声を上げた。


「こ、これは次郎法師殿ではござらぬか…」


笠の下から現れたのは髪を短く落とし尼姿の井伊次郎法師直虎だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ