第三十六話 伝聞 父・信長の上洛戦
「失礼を致します。茶筅丸様、先ほどこのような物が届きましたぞ!」
竹千代に呼び出され、本丸御殿の庭にて竹千代に剣術の指南をしていた卜部三兵衛殿と立ち合った翌日、何時ものように登誉住職の手習いに行くと竹千代は姿を現さず、その後も数日の姿を現さなかった。それとなく探りを入れると竹千代は自室に閉じ籠ってしまい取り巻きの者たちが声を掛けても一向に姿を見せないという。
その話を聞き、本丸御殿に見舞いに出向くと竹千代の部屋はまるで強盗が押し入ったかのように物が散らかり荒れていた。
そんな部屋の真ん中には頭の上から夜着を被った竹千代と、それを心配そうに見つめる母親の築山殿が居たのだが、俺の姿を目視するなり竹千代は夜着の下で抱えていた太刀を引き抜くと俺に襲い掛かって来た。
三兵衛から剣の稽古をつけてもらっている竹千代だったが、その太刀筋はお世辞にも鋭いとは言えないお粗末な物で、俺は竹千代が振り回す太刀を躱しながらどうしたものかと視線を動かすと、足もとに竹千代が振り回していたと思われる木太刀が転がっているのに気が付いた。
俺はその木太刀を素早く拾い上げると“蜻蛉の構え”から裂帛の気魄と共に打ち込み、一刀のもとに竹千代が握っていた太刀を叩き折り、その額スレスレで木太刀を止めてみせた。
太刀を叩き折られたショックからか、それとも額スレスレに木太刀を打ち込まれたことによるものなのか、竹千代は気を失いその場に崩れ落ちてしまった。
内心不味かったかぁ…と焦りつつもそんな事はおくびにも出さずその場から退散し、目を覚ました所でもう一度見舞に出向くと、築山殿がいる前で目を覚ました竹千代からどうしたら強くなれるのか教えて欲しいと乞われてしまった。
しかし、戦国の世から四百年余り後の未来から転生した齢五十を超えるおっさんで、この先養子に入る事になる北畠家を後の世に残すために、四百年後に身につけた剣術を戦国の世に持ち込み稽古を積んでいるなどと言えるはずもなく。答えに窮した俺は幼き頃、桶狭間から戻った父から聞かされた今川義元の様な男になれと言われた事を話すと竹千代と共に俺の話に耳を傾けていた築山殿には泣かれて感謝され、竹千代には妙に懐かれる事となってしまった。
史実では、学問よりも武力に傾倒し、岡崎の三河衆に担がれて父親の家康から徳川の実権を奪おうとしたために、家康に殺される事になった竹千代が剣術をはじめとした武力だけでなく、登誉住職の手習いを真摯に取り組むようになり文武両道を地で行くようになった事は良かったのかもしれない。
しかし、弟が兄を慕うかのように俺の事を『茶筅様!茶筅様!』と呼んで朝から晩までついて回られる様になったのには閉口した。
まぁ、何はともあれ世話役の本多平八郎に城代の酒井小五郎に加え、築山殿に竹千代までも俺に好意的に振舞ってくれるようになった事で、岡崎城での暮らしはすこぶる快適なものとなっていた。
そんなある日、蔵人が持って来たのは父・信長の上洛に付き従う柴田権六と木下小一郎からの文だった。
権六の文には上洛を果たした父の様子が書かれており、小一郎の文には上洛戦での権六と藤吉郎の様子が書かれていた。
上洛の途上、淡海乃海と呼ばれている琵琶湖の南側・南近江で上洛軍の前に六角承禎入道義賢・右衛門督義治親子が立ち塞がった。
六角親子を排するため父は六角家討伐を命じ、権六と藤吉郎が示し合わせて六角氏の拠点である観音寺城の支城・箕作城に夜襲をかけて陥落させた。開戦から僅か数日で支城を落とされ、戦況不利を悟った承禎入道と右衛門督は観音寺城から早々に甲賀郡に逃げ出した。
その事実は瞬く間に六角氏に仕えていた国人たちの元に広がり、南近江の国人たちは次々と父に下り配下に加わっていった。この結果に父は大いに喜び、「六角氏攻略の功は権六と藤吉郎に在り!」と褒め称えたそうだ。
史実では何かにつけて反目し合った権六と藤吉郎だったが、墨俣築城以来順調に主従関係を深めている様だ。
父の軍勢が六角氏を退けたことを知った三好左京太夫義継と松永山城守久秀は早々に父に恭順の意を示したが、三好義継・松永久秀は敵対していた三好日向守長逸・三好釣竿斎宗渭・岩成主税助友通ら三好三人衆に追い詰められていた為、父の助力を得て三好三人衆を都より追い出したいという思惑からのもので、三好義継や松永久秀から見れば父は体の良い猟犬といった所だっただろう。
もっとも、畿内の国人領主たちは父を一段下に見る傾向があったようだが、それでも畿内の有力大名六角氏を退けたことで、続々と恭順や従軍を申し出る者が現れ、父の軍勢は六万余を超える物へと膨れ上がり、都のある山城国に入った。
三好義継と松永久秀が父に恭順したことで敵対していた三好三人衆は父とも敵対する道を選び、父は都の南方にあった岩成友通の居城・勝竜寺城の攻略に乗り出した。
先陣として柴田権六、森可成らが野戦にて岩成友通の軍を撃破。友通は勝竜寺城に籠城したものの、父が率いる上洛軍本隊が姿を見せると、勝ち目無しと早々に開城した。
岩成友通の敗戦に三好長逸・宗渭も抗戦を諦め三好家の本領である阿波へと退き、父は無事に入京を果たした。
入京に際して父は都での粗暴な振舞いを一切禁じ、これに反した者は一切の弁明を許さず手打ちにすると触れを出した。
実際に都の民家に押し入ろうとした雑兵を父が自ら斬り捨てて見せたことで、上洛に際して粗暴な振舞いをする兵はほとんど出ることは無かった。
初めは六万余の大軍勢に恐れ慄いていた京の民も、整然と行軍し統制された織田軍の姿に安堵したという。
都を押さえた父の知らせに、後発の足利義昭も都に入京。
当初は兄の足利義輝が御所として使っていた二条御所に入る予定だったが、永禄の変で三好一党が乱入した後は放置されていたために荒れ果てていたこともあり、京の六条にある本圀寺を仮の御所とした。
本圀寺に入った義昭は、晴れて上洛できたことに喜び父を褒め称えたが、父は共に上洛の為に軍を出した家康と北近江を押さえる浅井長政の尽力があったればこその上洛成就であると言上、家康と長政の面目を立たせた。
さらに、長政は永禄の変の後、義昭が二年ほど逗留した越前の朝倉家とは長年に渡り同盟関係を結んでおり昵懇の間柄であることを伝えると、義昭は苦境の折に手を差し伸べてくれた朝倉家に対して、感謝を伝えるとともに将軍宣下が成された折には上洛し謁見するよう朝倉義景に伝える事を長政に命じたという。
どうやら、父は俺の忠告を聞いてくれたようだ。これで朝倉への対応は長政に一任された事になり、朝倉が上洛に応じなければ面目を失うのは父ではなく長政という事となった。
父は朝倉への対応を長政に押し付け、自分は五畿内と美濃や尾張に繋がる琵琶湖から南に注力できる態勢をとる事が出来る状況を作り出すことに成功したのだ。
上洛に加わった国人領主の前で、上洛軍の盟主たる父から功有りと告げられ、義昭から父の次席ではあるものの直々に感状を賜ることとなった家康と長政。
徳川家中では、此度の上洛によって織田家との力の差が開いてしまう事により同盟関係が崩れてしまう事を恐れていた。しかし、父がわざわざ名を上げ次期将軍である義昭から直々に家康を称えるように仕向けたことで、父が今後も家康と対等な同盟関係を堅持しようとしていると感じ、安堵した表情を浮かべていたという。
一方、長政は上洛に加わった国人領主たちの前で名を上げることは出来たものの、父との同盟の際に確約させた朝倉との関係を盾に厄介事を押し付けられた形となり、織田と浅井の同盟に本来は関係のない朝倉への関与まで含めてしまった己と浅井家の意向による浅慮に苦しむこととなる。
都の周辺を平らげ一応の安定をもたらした父に、義昭は“副将軍”の肩書を与え将軍宣下後の幕府に父を取り込もうとしたが、父は尾張の守護である斯波武衛家並の家格の礼遇と堺に代官を置く事だけを求めるに留め、副将軍を辞退した。
副将軍の辞退は史実と変わらなかったものの、堺に代官を置くことを求める事は史実ではもう少し先の事の筈だった。しかし、上洛において勲功一等の父に三管領並の礼遇だけでは、上洛に助力した者たちに対し義昭からその功に報いようとしても父よりも厚遇することになり、功を与える事が出来なくなるため、義昭に奉公を行っても報われないと他の国人たちに思われてしまう。
それを嫌った幕臣たちと義昭は、父に礼遇だけでなく官位や足利家の通字である“義”の一字を贈ろうとした。そんな義昭らに対し父は堺の町に代官を置くことを求めた様だ。
堺は戦国期において日ノ本で最も栄えた町だったが、町は“会合衆”と呼ばれる堺に店を構える大商人の合議によって運営され、それが幕府によって許されていた。
いわば、幕府からお墨付きを貰い自治を行っていたことになる。
そのため、有力大名が堺を欲しても幕府のお墨付きを盾に、誼を通じても支配下に入る事からは抗う事が出来ていた。
そんな堺に代官を置く許しを得るという事は、堺は織田家に帰属する事を幕府が認めたという事を意味していた。
また、上洛に伴い父は朝廷に対して三千貫(三億~四億五千万円)の寄進を行い、祖父・信秀同様に帝や朝廷を敬う姿勢を示した。
父の幕府内に入らず一定の距離を取り、帝を敬う姿勢も史実では二・三年後だったはずだが、上洛前に尾張で見せた義昭の姿に何か思う所があったのかもしれない。
「茶筅丸様、権六殿と小一郎殿からは何と?」
権六と小一郎からの文に目を通し、史実とは違う父の動きに想いを巡らす俺に、半兵衛が呼び掛けて来た。その声に顔を上げると、瞳をキラキラと輝かせ興味津々で俺の言葉を待つ寛太と五右衛門を苦笑しながら抑える利久の姿が目に飛び込んできた。
俺はその様子に苦笑し、
「父上は無事上洛を果たされたようだ。権六殿と藤吉郎殿も南近江にて六角承禎入道殿、右衛門督殿を相手に城を一つ落として織田家の名を上げたとある。それ以外にもいろいろ書いてあるが、俺の口から聞くよりも文を読んだ方が早いだろう。」
そう言って、権六と小一郎の文を四人の前に広げた。
目の前に広げられた文を貪るように目を通す寛太と五右衛門に対し、利久と半兵衛はそんな二人の事を微笑ましそうに笑みを浮かべながら、寛太と五右衛門の頭越しに目を通したようだ。
「茶筅丸様、上総介様のご上洛祝着至極に存じます。」
そう素直に父の上洛を喜んでくれた利久に対し、
「権六殿も藤吉郎殿もお手柄だったようにございますね。これで、お二人の織田家でのお立場はより盤石な物になるは必定にございましょう。
それと、茶筅丸様の献策を上総介様はお取り上げになられたようにございますね。新九郎殿(長政)もこれまで友誼を結んでいたとはいえ織田と浅井の盟約に関係のない朝倉家に対し一方的に便宜を弄したばかりに労苦を背負い込むことになりましたな。
朝倉左衛門督義景殿と義昭様は些か因縁がござりましたからなぁ、義昭様が将軍宣下を受けられても左衛門督殿はおいそれとは上洛されぬことにございましょう。」
と意地悪な事を言いつついつも通りの爽やかな笑みを浮かべる半兵衛に、俺は苦笑で返すしかなく、そんな俺の心情をくみ取り利久も半兵衛の事を困ったものだと言うように苦笑してくれたが、直ぐに表情を正すと文の最後の部分を指で指し示しながら、
「文の終わりに年の暮れには上総介様は尾張に帰国されると書かれておりますな。となれば三河守様もご帰国されることでございましょう。この事を築山様や竹千代様にお教え差し上げては如何でござりましょうか。三河守様の傍にお付きのご家来衆から知らせがあるかとは思いますが、茶筅丸様がお教えされても悪しき事ではないと思われまする。」
と助言してくれた。俺は利久の言葉に大きく頷き
「流石は蔵人殿、良き助言をしてくれた。では登誉住職の手習いの後にでも竹千代殿にお伝えする事としよう。」
と返し、その言葉通りこの日の午後、登誉住職から手習いを受けた後、竹千代に話し聞かせると竹千代は家康が父の推挙があったとはいえ次期将軍である義昭から直々にお褒めの言葉をいただいた事に喜び、年の暮れには帰国すると話しをすると早く母に知らせたいと言って挨拶もそこそこに早足でその場を去っていった。
そんな竹千代の姿に登誉住職はカッカと笑い、平八郎は苦笑しながらも随分と嬉しそうだった。そして、その日の夕刻、
「茶筅丸様、宜しいでしょうか?」
普段なら「失礼いたします!」の声と共に部屋に入ってくる平八郎が、何故か部屋の外から入室の確認を求めてきた。いつもとは違う平八郎の行動に俺と半兵衛は顔を見合わせたものの、この所何か問題になるような事は起こしていないはずだとお互いに確認し合い、不測の事態が起こっても対処できるように寛太と五右衛門、利久に目配せをしてから平八郎に入室の許可を出した。すると、
「「「失礼を致しまする」」」
そう声を揃えて告げ部屋に入って来たのは平八郎だけでなく城代の酒井小五郎と服部半蔵の三人だった。
三人は部屋に入ると城代の小五郎に上座を譲ろうと腰を浮かす俺に掌を掲げて押し留めると、下座に並んで座りいきなり平伏してきた。
「茶筅丸様。先日の騒動に続き本日の竹千代様、御母堂様に対するご配慮に我ら家臣一同、茶筅丸様に感謝を申し上げまする。」
「三河守様の下に付き従い上洛した者からは、近江の六角氏に続き、都を押さえていた三好の一党を退け入京したとの報は届いておりましたが、上総介様のご推挙があったとは言え三河守様が義昭公からお褒め頂いた事はまだ知らせが届いてはおりませんでした。しかも、ご帰国の目途までお知らせ頂けたこと感謝の申しようもございませぬ。」
「これまで粗暴な振舞いが多かった竹千代様も先の騒動の後は登誉ご住職の手習いにも励み、何よりも御母堂様との仲が三河に参られてから疎遠となられておりました。それが駿河におられた頃の様に仲睦まじき御様子に戻り、駿河での様子を知る者たちも安堵の色を浮かべております。また、お二人の仲が元に戻るのと時を同じくし仕える小姓や岡崎で三河守様の留守をあずかる家臣に対しても、お二人から御心を寄せて頂ける様になり、『流石は情に厚き殿の御嫡男様よ』と皆が喜んでおります!」
と、小五郎・半蔵・平八郎の順に感謝の言葉を口にした。そんな三人に俺は面食らいどうしたら良いのか分からず半兵衛や利久へ視線を向けると、利久は三人からの言葉に感極まったのか目に涙を溜めて俺の顔を見ながら頷くばかり、半兵衛も何も言わずただニヤニヤとするだけで何も助言をしようとしない。そんな二人に対して苛立ちを覚えたものの、表面に出すことなく努めてニコニコと笑みを浮かべ、
「いや、某の元に届けられた文に三河守様の事が書かれてあったのでそれをお知らせしただけ。大したことは致してはおりませぬ。それをそう大仰に捉えられては些か面映ゆい限りにございます。」
と、そんなに大袈裟にしないで欲しいと伝えたつもりだったのだが、小五郎以下三人は俺の言葉に感じ入ったような表情を浮かべると再び平伏してしまい。正直困ってしまった。
此処でようやく半兵衛が、
「小五郎殿。半蔵殿。平八郎殿。お三方にその様に畏まられては茶筅丸様もお困りになられますぞ。頭をお上げください。」
と、助け舟を出してくれたのだが遅きに失するとは正にこの事で、小五郎をはじめとした岡崎城に詰める三河衆から下にも置かない扱いをされることになり、“質”の筈なのに…と、この後の一年と九か月ほどの間、心情的に肩身の狭い思いをすることとなる。
更に、都から帰国した家康が岡崎城内の様子を目の当たりにし、父に事のあらましと感謝の言葉と共に称賛のつもりだったのか『茶筅丸様は戦をせずして岡崎の城を落とされた』と文にしたためたために、父から文で『貴様は“質”として岡崎に赴いた筈であったが、一体何をしたいのだ?』と問われ呆れられることになり、一層肩身の狭い思いをすることとなるのだが、それはこの半年後の事であった…




